画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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この風景は好きで何回も写真に撮った。何だろう?なにが私の心に引っ掛かりを感じるのだろうか?ちょうど冬至の頃のぼんやりとした黄色い光が、子供の頃の冬の夕暮れの寂しい気分を思い出させるからなのかな。
舗装されていない道というのも最近は少ない。どこもかしこもアスファルトで覆われてしまう。舗装されていない道はとても不便だ。雨が降れば当然水溜りができる。車が入ればぬかるんで轍がくっきりと残る。夏場は雑草が繁茂する。放っておけば何処が道だか分からなくなるほどだ。したがって蚊が発生する。
ここは私の家の入り口近くで、御影石の踏み石が途切れた左側に小さな鉄製の門がある。冬の朝は霜柱が立っていて、踏むとコロコリと小さな音を立てる。昼頃にはとけてぬかるみのようになる。そのせいなのか苔が未だに少し残っている。右手は小さな畑を作っている。今は葱が少し残っている程度だ。
私はこの舗装されていない路地がすきだ。好きだから何回も写真をとるのだろう。
舗装されていない道というのも最近は少ない。どこもかしこもアスファルトで覆われてしまう。舗装されていない道はとても不便だ。雨が降れば当然水溜りができる。車が入ればぬかるんで轍がくっきりと残る。夏場は雑草が繁茂する。放っておけば何処が道だか分からなくなるほどだ。したがって蚊が発生する。
ここは私の家の入り口近くで、御影石の踏み石が途切れた左側に小さな鉄製の門がある。冬の朝は霜柱が立っていて、踏むとコロコリと小さな音を立てる。昼頃にはとけてぬかるみのようになる。そのせいなのか苔が未だに少し残っている。右手は小さな畑を作っている。今は葱が少し残っている程度だ。
私はこの舗装されていない路地がすきだ。好きだから何回も写真をとるのだろう。
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松屋銀座の個展DMが出来ました。まだ一ヶ月も先の話なので出していませんが、ご要望があれば送ります。ここに連絡ください。東京近郊のかたは正月明けに出しますのでお待ちください。
この個展がちょうど50回目になる。デパートでの個展はこれで4回目になるかな。場所柄、何となく華々しく感じるけれど、私にとっては町の画廊でやるのと気持ち的には変わらない。元々ありえないようなチャンスを貰っただけで、上手くいかなければ昔に戻ればいいと思っている。
この個展がちょうど50回目になる。デパートでの個展はこれで4回目になるかな。場所柄、何となく華々しく感じるけれど、私にとっては町の画廊でやるのと気持ち的には変わらない。元々ありえないようなチャンスを貰っただけで、上手くいかなければ昔に戻ればいいと思っている。
人というのはなかなか業が深いものだ。今年の個展のメッセージの中で「私を見て」というのが少年時代の行動の動機になっているのではないか、というようなことを書いたけれど、考えてみると大人になってもほとんど変わらないなぁ・・。こうやって日々ブログを書いているのも無意識だけれど、そういったことの一端だな。
関西の風土というのは独特の気分があって、先日M1グランプリがあったけれど、学校生活というのはほぼ全員が如何に「めだつ」かということにしのぎを削っているようなところがあった。頭のいい奴は学力で「めだて」ばいいわけで、運動が出来る奴、腕力の強い奴、その他色々自分の得意な分野で「めだて」ばよしというわけだ。その中で一番人気があるのが「笑い」をとる奴だ。休み時間は勿論授業中も丁丁発止のやりとりで、ボケと突っ込みで笑いを取るかということに、一日があるといった感じがあったなぁ・・。そういった意味で「お笑い」が関西に軍配が上がるのは至極当然だと思うな。
兄弟関係でも如何に「目立つか」ということが自己のアイデンティティの確立に役立つ。私の兄弟というのか親父も含めてだけれど、結構強烈な個性の家族でちょっとやそっとではなかなか認められない場ではあった。そういった中で年齢的にも一番下であるという立場は微妙なところがある。無責任で自由であるということはありがたかったけれど、何をやってもどうやっても認められないというのはつらい所がある。
私はあるところで強烈に自己アピールすることを諦めてしまった。それは自分の弱さなんだけれど、強く自分を主張するほど自分が強くないということことかな。で「目立つ」ことを止めてしまったかというと、そうではなくてその想いは深く内向することになる。だからある意味でストレートな「私を見て」というのではない屈折した形でそれがどこかに存在する。私の作品が一見強烈でないのはそんな所から来ていると思う。
作品と作家というのはどこかで低通している、というのかそうでなければ嘘ということになるな。どんなに有名な作家に憧れてそっくりな作品を描いたとしても、それが本人の心のそこから出てきたものでなければいつかは飽きてくるし化けの皮は剥がれる。
自分は何者であるのか、そこが最も大事な所だ。そのために絵を描いている。
関西の風土というのは独特の気分があって、先日M1グランプリがあったけれど、学校生活というのはほぼ全員が如何に「めだつ」かということにしのぎを削っているようなところがあった。頭のいい奴は学力で「めだて」ばいいわけで、運動が出来る奴、腕力の強い奴、その他色々自分の得意な分野で「めだて」ばよしというわけだ。その中で一番人気があるのが「笑い」をとる奴だ。休み時間は勿論授業中も丁丁発止のやりとりで、ボケと突っ込みで笑いを取るかということに、一日があるといった感じがあったなぁ・・。そういった意味で「お笑い」が関西に軍配が上がるのは至極当然だと思うな。
兄弟関係でも如何に「目立つか」ということが自己のアイデンティティの確立に役立つ。私の兄弟というのか親父も含めてだけれど、結構強烈な個性の家族でちょっとやそっとではなかなか認められない場ではあった。そういった中で年齢的にも一番下であるという立場は微妙なところがある。無責任で自由であるということはありがたかったけれど、何をやってもどうやっても認められないというのはつらい所がある。
私はあるところで強烈に自己アピールすることを諦めてしまった。それは自分の弱さなんだけれど、強く自分を主張するほど自分が強くないということことかな。で「目立つ」ことを止めてしまったかというと、そうではなくてその想いは深く内向することになる。だからある意味でストレートな「私を見て」というのではない屈折した形でそれがどこかに存在する。私の作品が一見強烈でないのはそんな所から来ていると思う。
作品と作家というのはどこかで低通している、というのかそうでなければ嘘ということになるな。どんなに有名な作家に憧れてそっくりな作品を描いたとしても、それが本人の心のそこから出てきたものでなければいつかは飽きてくるし化けの皮は剥がれる。
自分は何者であるのか、そこが最も大事な所だ。そのために絵を描いている。
はる 3014
ニ三日前のNHKの「ラジオ深夜便」にハッブル望遠鏡の話をしていた。
ちなみにこの「ラジオ深夜便」は放送し始めたころからのお付き合いで、身体を壊してから朝方の生活になったので、最近はほとんど聴く事はなくなっていた。最近は又少し寝るのが遅くなってきた。でももう昔のように朝方まで起きているなどということはない。
民放の深夜放送が始まった当初、これも我々の世代がちょうど受験期と重なってはじまったものだ。オールナイト日本や関西ではチャチャヤングで谷村新司、杉田二郎、西岡たかしや北山修がパーソナリティをやっていた。
そういった我々のような団塊の世代が歳食って、とても受験生相手のしゃべくりのうるさい民放など聴いていられない、もっと落ち着いたしっかりした放送がないかと思っていた時にこのNHKの深夜便が始まった。
普通なら聴かない、宗教の話とかがけっこう面白くて、かかる音楽もそれなりでちょうどいい。ターゲットを上手く絞っていいところに目をつけたと思う。
で、ハッブル望遠鏡の話だ。ご存知無い方に少しだけ説明すると、望遠鏡というのは倍率を大きくすればどれだけでも大きくなって見えるというものではない。ある程度まで大きくしても地球上から、この空気の層を通して光を見ている限りは限界があって、大きくしてもボケた映像しか見ることが出来ない。で、昔から人工衛星に望遠鏡を乗せて大気圏がいから天体を観測したいという願望が科学者にはあったらしい。それがハッブル望遠鏡ってわけだ。詳しくは何かで調べてくださいな。
で、実際にその望遠鏡で宇宙を観測し始めたら、未だかつてみたこともない詳細な美しい映像を見ることができるようになったというんだな。宇宙の果ての極々かすかな光の星もキャッチできるようになって、宇宙の全体像がよく分かるようになった・・というのであればめでたしめでたしなんだけれど、実際はどうかと言えば、ますます分けがわからん、不可思議なことが分かってきたということだった。
この宇宙の全体の75%はブラックマター(暗黒物質)でまだわかっていない。残りの20%はまた分けのわからない暗黒のエネルギーで満たされている。我々の知っている例えば銀河とか星などはただの5%にすぎないというようなことを言っていた。
まぁこの話は面白くて妙味が尽きないなぁ。今日はここまで。
ニ三日前のNHKの「ラジオ深夜便」にハッブル望遠鏡の話をしていた。
ちなみにこの「ラジオ深夜便」は放送し始めたころからのお付き合いで、身体を壊してから朝方の生活になったので、最近はほとんど聴く事はなくなっていた。最近は又少し寝るのが遅くなってきた。でももう昔のように朝方まで起きているなどということはない。
民放の深夜放送が始まった当初、これも我々の世代がちょうど受験期と重なってはじまったものだ。オールナイト日本や関西ではチャチャヤングで谷村新司、杉田二郎、西岡たかしや北山修がパーソナリティをやっていた。
そういった我々のような団塊の世代が歳食って、とても受験生相手のしゃべくりのうるさい民放など聴いていられない、もっと落ち着いたしっかりした放送がないかと思っていた時にこのNHKの深夜便が始まった。
普通なら聴かない、宗教の話とかがけっこう面白くて、かかる音楽もそれなりでちょうどいい。ターゲットを上手く絞っていいところに目をつけたと思う。
で、ハッブル望遠鏡の話だ。ご存知無い方に少しだけ説明すると、望遠鏡というのは倍率を大きくすればどれだけでも大きくなって見えるというものではない。ある程度まで大きくしても地球上から、この空気の層を通して光を見ている限りは限界があって、大きくしてもボケた映像しか見ることが出来ない。で、昔から人工衛星に望遠鏡を乗せて大気圏がいから天体を観測したいという願望が科学者にはあったらしい。それがハッブル望遠鏡ってわけだ。詳しくは何かで調べてくださいな。
で、実際にその望遠鏡で宇宙を観測し始めたら、未だかつてみたこともない詳細な美しい映像を見ることができるようになったというんだな。宇宙の果ての極々かすかな光の星もキャッチできるようになって、宇宙の全体像がよく分かるようになった・・というのであればめでたしめでたしなんだけれど、実際はどうかと言えば、ますます分けがわからん、不可思議なことが分かってきたということだった。
この宇宙の全体の75%はブラックマター(暗黒物質)でまだわかっていない。残りの20%はまた分けのわからない暗黒のエネルギーで満たされている。我々の知っている例えば銀河とか星などはただの5%にすぎないというようなことを言っていた。
まぁこの話は面白くて妙味が尽きないなぁ。今日はここまで。
絵の値段ってどうやって決めるのですか?と時々聞かれる。まぁこのことは極秘中の極秘扱いだろう。だれも正直には言わない。作家によってまちまちだ。自分が決めるというより、周りの思惑に寄って決まって行くことが多い。例えば、間に扱ってくれる画商さんが絡んでくれば、当然彼らの仕事も入ってくるだろうから、最低でもこのくらいというラインがきまってくる。
勿論、美術史上の作家であったり、現役でも大家になって、絵の価値というより投機の対象になっている作家は別の話だ。例えば、今売れっ子の村上某さんなどがオークションで何千万で取引されたなどという話は、普通の感覚ではない。いつの時代ももてはやされる超売れっ子というのはいる。
よく町の画廊などで売りの個展をやっている作家が、○○年鑑などを提示して「私は号○万で売っています」とそれが客観的に正当な評価のように見せている作家がいるけれど、あれは自己申告で客観性は何処にも無い。実物の絵があるにも関わらず、そういった絵以外の付属物で絵の価値を上げようとするのは全てまやかしだろう。判断は自分の眼でするということだな。絵を観ることは自分を見ることだということだ。
例えばアメリカのようにアーティストを保護するような政策を取っている政府や自治体だと、作家の活動はどちらかといえば公共的な目に見える方向に向かう。まぁどこかの企業の奨学金を得るとか、あわよくば政府の給付金をゲットするとかなんとか。海外の留学などはそうやって可能なわけで、まだ下積みの若い人たちにとってはありがたいシステムだ。
けれど、どうしても人というのは慣れてしまうもので、そうやって公のところから給付される年金生活に頼ってしまうと何処となく違うなぁ・・という気がする。本来やはり目線はそういった上に向かったものでなく、「芸」はあくまで大衆というのか、皆と同じところにあるべきだと思うんだな。いっぱしの作家だというならね。そうやって暑いだ寒いだ悲喜こもごも一緒になってやるから引きがあるのじゃないかね。
なんだか妙なところに来てしまった。いずれまた続きを。
勿論、美術史上の作家であったり、現役でも大家になって、絵の価値というより投機の対象になっている作家は別の話だ。例えば、今売れっ子の村上某さんなどがオークションで何千万で取引されたなどという話は、普通の感覚ではない。いつの時代ももてはやされる超売れっ子というのはいる。
よく町の画廊などで売りの個展をやっている作家が、○○年鑑などを提示して「私は号○万で売っています」とそれが客観的に正当な評価のように見せている作家がいるけれど、あれは自己申告で客観性は何処にも無い。実物の絵があるにも関わらず、そういった絵以外の付属物で絵の価値を上げようとするのは全てまやかしだろう。判断は自分の眼でするということだな。絵を観ることは自分を見ることだということだ。
例えばアメリカのようにアーティストを保護するような政策を取っている政府や自治体だと、作家の活動はどちらかといえば公共的な目に見える方向に向かう。まぁどこかの企業の奨学金を得るとか、あわよくば政府の給付金をゲットするとかなんとか。海外の留学などはそうやって可能なわけで、まだ下積みの若い人たちにとってはありがたいシステムだ。
けれど、どうしても人というのは慣れてしまうもので、そうやって公のところから給付される年金生活に頼ってしまうと何処となく違うなぁ・・という気がする。本来やはり目線はそういった上に向かったものでなく、「芸」はあくまで大衆というのか、皆と同じところにあるべきだと思うんだな。いっぱしの作家だというならね。そうやって暑いだ寒いだ悲喜こもごも一緒になってやるから引きがあるのじゃないかね。
なんだか妙なところに来てしまった。いずれまた続きを。
はる 3101
今年の学校の仕事が終了した。パートタイムの契約職員という中途半端肩書きだけれど、それでもまぁ普通にコンビニなんかで働くよりは断然効率がいい。間違っても、いまさらコンビニで働けるわけもないけどなぁ・・。
就職しない生き方を選んでから、ボーナスは勿論、未だかつて安定した収入というのを貰ったことがない。月々決まった収入が無い生活というのは普通のサラリーマンでは、たぶん想像できないだろうな。生活が不安定?などと不安を感じたことはない。多分不安定というのが普通の状態なので、何を今更といったことだろう。
何もしなくても月々確実に幾ばくかの経費は消えて行く。フリーであってもというのか、フリーであるがために自分の生活は自分で守らなければならないのだな。誰かにお任せして何とかしてくれるわけではない。例えば税金の申告なども自分でする。
就職しない生き方のいい所は、失業することがないということか。負け惜しみのように聞こえるけれど、案外本音のようなきがする。そのかわり死ぬまで現役で働くしかない。ここまで来たらもう引き返せない。
今年の学校の仕事が終了した。パートタイムの契約職員という中途半端肩書きだけれど、それでもまぁ普通にコンビニなんかで働くよりは断然効率がいい。間違っても、いまさらコンビニで働けるわけもないけどなぁ・・。
就職しない生き方を選んでから、ボーナスは勿論、未だかつて安定した収入というのを貰ったことがない。月々決まった収入が無い生活というのは普通のサラリーマンでは、たぶん想像できないだろうな。生活が不安定?などと不安を感じたことはない。多分不安定というのが普通の状態なので、何を今更といったことだろう。
何もしなくても月々確実に幾ばくかの経費は消えて行く。フリーであってもというのか、フリーであるがために自分の生活は自分で守らなければならないのだな。誰かにお任せして何とかしてくれるわけではない。例えば税金の申告なども自分でする。
就職しない生き方のいい所は、失業することがないということか。負け惜しみのように聞こえるけれど、案外本音のようなきがする。そのかわり死ぬまで現役で働くしかない。ここまで来たらもう引き返せない。
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