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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3136
 あるブログを読んでいたら次のようなことが書かれていた。以下無断引用します。

「・・略・・たとえば、絵を描く人がいるとしますと、純粋に絵を描くのを楽しむ心と、それを人に売って暮らそう、という心は違うものだということです。

絵がうまくなる、よくなる、というのは無限の道のりです。そこで、この絵はどうしたら売れるかな、と考えるのは邪念でしかありません。

・・略・・山にいれば、聖人であり、修行者ですけれども、山を降りてしまえば俗人です。そして、山で学んだことを高く売りつければ山師です。山にいて真理を求め続けることは誰も利さない行為です。

 しかし、十分に機が熟さないうちに、半端な知識を売りに山から降りてきたらただの商売人です。どれくらいのものを持ったところで降りてきてしまうかで、器や志が見えてしまいます・・略・・

 あらゆる教祖というものは、中途で山を降りてきた人たちだと思えば間違いないのです」

 まぁ、絵を売るというのはある種後ろめたいところがあるのは否めないなぁ。中途半端な、宗教者の教義を聴かされているようで、片腹痛いと想っている人も多いかもしれんな。

 まぁ言い訳をさせてもらえば、私は宗教者ではないし、悟った人間になりたいとも思ってはいない。まず悟れることもないだろう。

 表現者などというものは最終的な覚醒者になってしまえば、悩むこともなくなってしまうわけで、そこに人間としての面白みもなくなってしまうわけだ。我々の仕事はあちらの世界とこちらの世界の境界にいる。行ったりきたり自由に渡り歩けることが、現代の表現者としての仕事ではないかな。

 まぁ山師、詐欺師といえばその通りかもしれん。本来芸人というのはまともに生きてゆけないそんなどこか欠陥のある人間が、最後の最後に残された生きてゆくための方便のようなきもするな。

 原点は、命がけで、身をさらして、生きてゆくことで辛うじて許される河原ものでしょう。

 
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はる 3136
 今回の個展は今までの延長上にはあるのだけれど、少し演出を変えた。それは松屋の会場がひろいということがある。あの会場にただ絵を並べただけでは、来ていただいたお客さんがすっと見てそのまま何の感慨もなく帰ってしまうのではないかと思ったからだ。

 それとこんなことを示唆されたことが大きい。会場が大きい、それを埋めるのが大変だというけれど、確かにそうなんだけれど、あの会場を無料で一週間貸してもらった。自由に使っていいといわれた。そう考えたら、これほど恵まれたことはないのではないか。

 生活の中のアートを提案すると考えたならば、私の日常生活を含めた生き方を紹介するといった展示にすれば、作家の紹介にもなるし、より深く作家を知ることで共感してもらえるのではないか。と言われたこと。

 それから、こんなことがある。自分の絵にはある種の通俗性がある。まぁそれは自分で言うのもおかしいのだけれど、それが一種の魅力といえば言い過ぎか。嫌いな人にはそれが鼻持ちならない俗っぽさになるのかもしれないけれどね。

 で、思ったのは、私の絵は美術館でありがたく鑑賞する絵ではない。どちらかといえば日常的な空間で、生活の中で楽しんでもらえたら、それはそれで存在意義があるのではないか。そんな風に思ったこと。

 けれど、まぁそこそこに有名な作家であればこんな工夫をする必要はないのかもしれない。もっと絵に圧倒的な存在感があればこんな小細工をする必要はないのかもしれませんがねぇ・・。まぁこれだけの人間でしかない。

 というわけで、今回は見てのお楽しみですが、最後の壁一面はこの一年間の日常生活の写真と、このブログからの抜粋です。恥かきもここまでやれば居直るしかない。これはまぁ冒険といえば冒険かな。 

 来週はもう御江戸です。

 松屋の展覧会紹介記事

 



 
はる 3135
 今日は一日仕事。来週の今頃は松屋の個展が始まっている。いつもは意気揚々、まな板の鯉状態で楽しむだけという雰囲気なんだけれど、今回はなんとなくプレッシャーを感じる。なんとなく憂鬱だな。
 




↑を見ていると ↓が出てきた。何だろうこれは。祝人かな?

NEC_0030.jpg



 
はる 3133
 二三日前の水道の検針のときに漏水の疑いがあるとメモがあった。そういえば先月と比べて五千円も高かった。普通何も特別なことをしない限り水道料がそれだけあっぷすることはない。

 でメーターを調べてみると、パイロットメーターがわずかにゆっくりと回っている。人間とは不思議なもので、分からない時は一ヶ月も放っておいても全く気にならなかったのが、知ってしまうとそのままというわけにはいかず、朝飯、昼飯、晩飯とお風呂の時にはバブルを開ける。それ以外は閉めておかなければという脅迫観念にとらわれる。一日や二日放っておいてもあまり変わりはないのだがね。

 で、水道局に連絡すると、漏水検査官なるものが出張で無料で回っているということだった。というわけで今日午後から彼らが来るということで待っていた。まぁこれがなかなか来ない。待って待って五時近くになってやっときた。

 漏水の検査というのはどうやってやるのかご存知か?これまたこんな時代に超アナログなんだけれど、聴診器の金属棒のようになったもので「音を聞く」んだな。何場所か蛇口のある場所にその棒の先をあてて、その音の強弱で判断するのだな。

 聞かせてもらったけれど、水が流れている音がする。そして、確かに場所によって音がちがうのだな。昔インデアンが地下水のありかを知るのに確か地面に耳を当てて聞いていたような気がするけれど、今回確かにその一番大きな音がしたところが漏水していた。

 まぁそんなことで、今日は一日水道待ちの日でした。


 
 



 
 吉田秀和の「セザンヌ物語」を読み始めた。どこかのブログを読んでいたらこの本の話が出てきて、あれ!あれほどセザンヌのことを気にしていたはずなのに、それから吉田の爺さんの話もよく書く割にはこの本のことはまったく認知していなかった。そうなんだ、吉田の爺さんがセザンヌについて書いていたのじゃ読まずにはおれない。文庫本になっているので簡単に手に入れることができた。

 なかなか難しい本で、まず最初と最後のあとがきから読んだ。まぁこれはセザンヌに興味があるか、絵を書いたことがある、絵に興味がある人しか面白くないだろうなと推察する。絵を描かない吉田の爺さんがここまでよく考察できたなぁと妙なところに感心する。一芸に秀でたものはすべてのことにつながって行くものなんだなと思った。中身のことはまた読み終わったら書きましょう。

 あとがきのところでパドバのスクロヴェーニの礼拝堂のジョットの壁画のことが書かれていた。感動的なのでそのまま引用する。

「パドヴァにあるクスロヴェーニのチャペルの内部をほとんど全面的に塗りつぶし、壁という壁に、いくつもの描き続けられたジョットのフレスコ画は、その一つ一つの絵のすばらしさだけでなく、その全体において、私にひとつの強大な真実を啓示した。
 それは、「すべては絵画として描かれることができる」あるいは「人間は天地を貫いて目に見えるものはもちろん、目に見えない精神心的出来事でさえ、すべて、絵に描くことができる」ということである。・・・・略・・
 建物全体を覆ったジョットの絵は、それでひとつの天地をつくり出し、その色と形だけでできた天地は、建物の内と外にある天地と全く等価の天地だった。そこには音楽さえあった。・・略」 
吉田秀和「セザンヌ物語」より

 



 
はる 3130
 パソコンは今のところ調子よく動いている。ただひとつ問題があって、リメイクした業者が提携したウィルス制御のソフトが時々必要ないCMをポップアップで立ち上げる。これが目ざわりといえばそうだな。しばらく我慢すれば消えるのだけれど、何だか安っぽい宣伝でがっかりする。これを消す方法はあるのかしらん。

 しかし、パソコンも色々だけれど、我々のような素人が使う分にはこれで充分で、他に色々入っているソフトもすべて捨ててしまっても問題ないように思うな。ありがたいことに昔使っていたソフトがそっくりそのまま使える。このことはここだけの話。

 さて、大きな絵を描かねば。

 
 第4回道(TAO)展
2010 1/14~1/19
ギャラリー&スペース
ハーパーズ・ミル

甲府市東光寺町1346
055-233-3157


 
 第4回道(TAO)展
2010 1/14~1/19
ギャラリー&スペース
ハーパーズ・ミル

甲府市東光寺町1346
055-233-3157
 

 
はる 3128
 また日常が始まって、さまざまな雑用が私を追い立てる。そんな中昨日らい右目に少しの痛みがあって、午後になると白目が赤く充血してきた。今朝になって違和感があって鏡を見ると白目の部分がゼリー状に盛り上がっていた。まぁ午後になって次第に落ち着いて来たんだけれど、目は商売道具ということもあって、怖いのでいつも見てもらっている眼科に行くことにした。

 結果的には特になんでもない炎症ということだったけれど、何だかね最近は目の異常を感じることが多くなった。パソコンとか暗いところで本を読む機会が多いので、これまたよくないのかもしれないな。

 私の絵は細かい絵ではないので絵を描くことで目が疲れるなどと言うことはほとんどない。そんなことを考えると私の絵はオブジェに近いのかもしれないね。

 そうそう、面白いことを書いている作家がいた。絵描きを分類しているのだけれど、

1、売り絵の作家。昔から絵は建築と結びついて工房制作が当たり前であって、今のように芸術家などと言うものは存在しなかった。職人仕事であって、そもそも絵画の発生はそんなところから来ている。売り絵を描かないなどという作家は絵描きではない。

2、趣味的な作家。絵を売ることににもそれほど熱心でもないし、かといって芸術について革新的な発想をするわけでもない。けれども何だか一番偉そうにしている作家。

3、学問や研究として絵を描いている作家。セザンヌやクレー、モンドリアン、やカンデンスキーなどが入るらしい。これもよく分かる。

4、詐欺的な作家。名前だけ先行して、そんな気分だけを売って詐欺的にお金儲けする作家。

 最後に書いていたけれど、本物はこの全てを持っているような作家だそうだ。それも納得する。

 
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