画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3469
こうやってパソコンの前に座って何やら一日の反省なり出来事を振り返る時というのはけっこう幸せな時間かもしれない。
随分昔そうだなぁ、日記そのものは中学生の頃からつけていた。多分時々だったろうけれど、小さな手帳でカレンダーのつきのものに日々の事などを簡単につけていた。それが意識的に日記として付け始めたのは高校生になって自我が出てきた頃だろうか。何冊も日記帳は更新されたけれど、ある時に全て処分してしまった。
意外に読み直すことなどなくてね。これはその時々にものを考える道具でしかない。後に残ったものはカスでしかないね。私の場合はっきりしている、それは読む人を意識していないので作品ではない。
ツイッターをやらないのか?と言われることが時々ある。やった事がないのでいい悪いは全く分からないのだけれど、二三日前のある人のブログにツイッターについての面白い考察が書かれていた。
ツイッターというのは今までにないかった全く新しい身体的メディアだというのだな。ブログなどと同じようにパソコンや携帯を使って自己表現するのだけれど、決定的に違うのは「リアルタイムな身体的表現が多い」ということだ。どういうことかといえば例えば「寒い」とか「眠い」とか「腹減った」とかそういった記事が決定的に多いらしい。
人が日々生きている時の意思決定の多くはそういったことで、寒いから一枚よけいに着るとか眠いから寝るとか、そんなことが日々刻々と繰り返されているわけだ。だから短時間にショートなメッセージというのはそんな表現が多くなってしまうのだろう。
ブログの場合、こうやって椅子に座って、さて今日は何を書こうかなと一日を回顧的に振り返って思索にふけるようなところがあって、ここでは寒いとか腹減ったとか、何か食べに行くなどというのは思索のうちには入らないわけだ。
と言うわけで私は多分ツイッターはやらないのじゃないかと思う。将来的にはわかりませんがね。あぁ眠いなぁ・・。
こうやってパソコンの前に座って何やら一日の反省なり出来事を振り返る時というのはけっこう幸せな時間かもしれない。
随分昔そうだなぁ、日記そのものは中学生の頃からつけていた。多分時々だったろうけれど、小さな手帳でカレンダーのつきのものに日々の事などを簡単につけていた。それが意識的に日記として付け始めたのは高校生になって自我が出てきた頃だろうか。何冊も日記帳は更新されたけれど、ある時に全て処分してしまった。
意外に読み直すことなどなくてね。これはその時々にものを考える道具でしかない。後に残ったものはカスでしかないね。私の場合はっきりしている、それは読む人を意識していないので作品ではない。
ツイッターをやらないのか?と言われることが時々ある。やった事がないのでいい悪いは全く分からないのだけれど、二三日前のある人のブログにツイッターについての面白い考察が書かれていた。
ツイッターというのは今までにないかった全く新しい身体的メディアだというのだな。ブログなどと同じようにパソコンや携帯を使って自己表現するのだけれど、決定的に違うのは「リアルタイムな身体的表現が多い」ということだ。どういうことかといえば例えば「寒い」とか「眠い」とか「腹減った」とかそういった記事が決定的に多いらしい。
人が日々生きている時の意思決定の多くはそういったことで、寒いから一枚よけいに着るとか眠いから寝るとか、そんなことが日々刻々と繰り返されているわけだ。だから短時間にショートなメッセージというのはそんな表現が多くなってしまうのだろう。
ブログの場合、こうやって椅子に座って、さて今日は何を書こうかなと一日を回顧的に振り返って思索にふけるようなところがあって、ここでは寒いとか腹減ったとか、何か食べに行くなどというのは思索のうちには入らないわけだ。
と言うわけで私は多分ツイッターはやらないのじゃないかと思う。将来的にはわかりませんがね。あぁ眠いなぁ・・。
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