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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3512
 個展が終わっても残務整理がけっこう残っている。今日絵が帰ってきた。いい絵から嫁ぎ先が決まってゆく訳ではない。なぜか縁がなくてまわりまわって私のところに残ってしまう絵もある。そういった絵がグレードが低いか?といえばそんなことはないのだな。何年か経ってながめて見ると、そのときには見えなかったものが見えてきたりして、あぁやっぱりこれは残しておくべき絵だったんだと納得することも多々ある。全ては縁だな。

 縁といえば私のデパートの展覧会の企画をするHさんとのめぐり合わせも縁だと思う。

 今でもそうだけれどデパートの絵画企画はほとんどの場合小奇麗な山や風景や静物や子供や美人を描いたものだ。それかもうすでに亡くなってしまった有名作家のリトグラフという印刷だったりする。これは明らかに偽物だな。デパートというブランドがそんな絵でも流通させてしまうのだ。

 だからまぁとても微妙なところにあるのは事実だな。そんな壁の飾りのようなものを描いているわけではない。一番新しい最先端の実験的な作品などはやっぱりデパートでは扱えないだろうな、なぜなら多くの人がそのことが理解できないからだ。デパートはそんなところにターゲットを置いていない。

 私自身芸術というものを良く理解していないから間違っているかもしれないが、すこし書いてみよう。

 よくやる間違いが誰も理解しないような訳が分からないものを「芸術だ」としてしまって、理解されないことを高尚なものと錯覚してしまうことだ。芸術家と無理解、というのを一緒にしてしまうと、独善とか独りよがりをいいものとしてしまう危険がある。

 生前は無理解で貧乏だった、というのが美談で語られるけれど、理解されないことが一流の芸術の証ではないと思うのだな。本当は一人でも理解されなければ意味がないし、そう努力しなければいけない。

 今の生活の中でも誰にも理解されないものは必要とされないだろうし、たぶん将来何年か後に多くの人に理解されるものは、もうすでにそのときに一部の人かもしれないが圧倒的な支持を得ているものである気がする。

 何か突然火がついて爆発的に有名になったようなに勘違いするけれど、本物は少ないけれど既に必要とされているものだ。、すぐに消えてなくなったり、流行り廃りがあったり、誰かに売り込んだり売り込まれたり、そんなもので左右するものは本物ではないだろう。

 「いま、ここ」で出会える人に出来る限り理解してもらおうとすること、そういった人に共感を持ってもらうこと、そんなことが一番近道のような気がするのだ。

 そういった意味で考えるとデパートというのは比較的に多くの人が行き交うところで「誰にでも、どこにでも」ある何かを探すにはいい場所のような気もするな。どうだろうか。
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