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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3638
 山口画廊の画廊通信が送られてきた。毎回楽しみにしている。勝手転載します。不都合があれば削除します。
http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi

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画廊通信 Vol.91   花であること

 毎年11月頃、地元の甲府で榎並さんの個展が開催されるのだが、その回から以降1年間の個展には、すべて同じタイトルが冠せられる。よって今回の「遠い記憶」は、昨秋から続く今期のテーマである。個展のパンフレットに、画家はこのようなコメントを寄せている。

 お腹の赤ちゃんの成長は、生物の発生からの進化の様子と、とても似ているそうです。それと同様に一つの作品が出来てゆく過程は、作家の過去から現在までのスタイルの変遷を少しずつ見せているように思います。一つの作品は突然そこに現れてきたのではなく、今までの経験が何らかの形で沈み込んでいて自然に出てきます。一つのスタイルは作家の生き様でもあるように思います。

 さて、ある程度地塗りがいい感じに仕上がってくると、そろそろ画面の中にイメージを見つける仕事になります。ほとんどの場合、最初のインスピレーションはありきたりでつまらないものが多いようです。面白くないアイデアは思い切って捨てます。そうやって何度も何度も繰り返して自分の心の中を覗き込むような仕事をしていますと、少しずつ何かが熟成してきます。時に、自分では絶対に描けないような作品になったりします。

 私の仕事は様々な事柄の底の方にある「遠い記憶」を探し出して、誰でもが共感できるものに形を変える事ではないかと思っています。それが出来たかどうか、今年もまたそんな作品を並べます。御来廊こころよりお待ちしております。

 以上、画家ご本人の個展紹介である。これ以上くどくどと解説じみた事を言うのも、無粋というものだろう。だから今回は視点を変えて、榎並さんの文章家としての側面を、お話したいと思う。

「ブログ」という名称が、いつ頃から一般的になったのかは忘れたが、榎並さんは「ブログ」という言葉が出来る遥か以前から、ホームページを自ら作成して、日々のエッセイを公開していた。ちなみに、現在のカウントは3600番台、という事は軽く10年を越える計算になる。日々の雑感はもちろん、芸術論・宇宙論・人生論・折々の時事問題に到るまで、その快刀乱麻にして縦横無尽、飾らないストレートな物言いは、当り障りのないどうでもいいようなブログばかりが蔓延する中で、誠に小気味良く面白い。時おり、話の途中で「眠くなったので、また」と寝てしまったりするので、こちらはその続きを待っている訳だが、翌日は全然関係のない話になって、忘れた頃に続編が復活したはいいけれど、また寝てしまったりという具合で、その脈絡のなさもいい。

 震災以降は、いち早く原発報道の信憑性に異議を唱え、国民への欺瞞に満ちた対応を舌鋒鋭く批判し、独自の観点からの考察を発信し続けている。毎日欠かさず更新されているので、ここではほんの一部しかご紹介出来ないが、この一年ほどのブログから芸術に関する発言にテーマを絞り、印象に残った言葉を抜粋してみたい。

2010.09.25 表現というのはどうにも不思議なもので、食うに困らない、切羽詰まったものでないところからは、人を心の底から揺さぶるようなものは、出て来ない気がします。もう後がない、やむにやまれぬ、土壇場のところから、本当のものが出て来るのでしょう。

2010.12.07 新しいこと、誰もやっていないことばかりに囚われていると、一向に新しいものは出て来ない。なぜならそれは、今の延長上にあることだから。言ってみれば、誰でもが遅かれ早かれ考え付くことだからだ。縦の物を横にするといったバリエーションでしかない。
 本当の独創というものは、元に戻った源泉から問い直すことからしか、出て来ないと思う。

2011.01.05 大きな団体に属していると、自然にある種のピラミッド型のヒエラルキーが出来る。自然、なんとなく一般の人たちより優位な立場にたってものを言うことが多くなって、いつの間にか自分が偉い人になった気になっていないかな。そこのところ充分に注意しないと、間違いを起こす可能性があるな。
 何も偉くない。ただの風来坊だ。ただの旅芸人みたいなものだ。

2011.01.09 評論家を目指して勉強中という若い人が来た。「これは誰々の影響を感じますね」「この部分は誰それですね」と分析する。確かに当たってはいるのだけれど、あまり気分のいいものではない。
 どんな作家であろうと、作品であろうと、誰の影響も受けない全くのオリジナルということはありえない。一つの作品は、作家がそれまで受けた影響の総まとめのようなもので、どれだけ多くを受け入れたかが作品の奥行きの深さ・重さになって来るように思う。謎解きしたところで、最後には何も残らない。

2011.02.08 多くの人は「私を見て」というために絵を描いている。だからどの絵にも「私が、、僕が、、」という自己主張の声しか聞こえない。一点や二点なら聞いてもくれるだろう、でも大体が飽食で気持ち悪くなる。私は反対に見る人を「引き込もう」と考えている。出すのと入れるのでは180度違う。何か共通の想いを持つこと。誰にでもどこにでもあるものを探すこと。

2011.02.09 少し見えたと思った取っ掛かりは、セザンヌだった。今から考えると、彼の絵は自己主張しているようでしていない。「私が、、僕が、、」と言う声が聞こえないのだ。淡々と内に向って、ただひたすらに根源へと向って降りている。

2011.05.15 できるだけ「わざ」を見せないようにする。まあ決して上手くはないのだけれど、筆が走るところを見せないとか、お洒落な配色をあえて外すとか、上手さを見せるなら徹底して上手ければそれも持ち味になるのだろうが、そこそこ上手い程度じゃどこにでもいる。だから徹底して外すことを良しとしている。
 好みの絵もそういった絵が多いな。上手さが見えると「なあんだ、あんたはそれを見せたいのか」と、底が見えたようでがっかりする。下手くそな、無器用な、作為の見えない絵がいいな。まあ、傲慢な独り言だ。見逃してくれ。

 こうして過去のブログをひっくり返していると、幾らでも抜き出したい言葉が出て来てしまうので、この辺で切り上げようと思うのだが、もう一つだけ、初回展の時に寄せて頂いた言葉を掲載しておきたい。どうして一昨年のブログなのに、ここで特別に取り上げるのかと言うと、自慢したかったからである。私はこれを読んだ時、胸が熱くなった。ここまで言ってもらえたら本望だ、思い残す事はないと思った。以下、その時の抜粋である。

2009.07.20 銀座には200も300も画廊がある。それも雨後のたけのこのように出来ては引っ込んで、また新しく出来るといったことを繰り返している。そのほとんどが一般に貸し画廊というレンタルスペース専門の、画廊とは名ばかりの展示場でしかない。本来画廊とは画廊のオーナーの眼力を問う場であって、金さえ出せば出来るようなレンタルスペースは、画廊とは言わないのじゃないかな。銀座みたいな場所だから経営は成り立つけれど、画廊の本来の仕事をしていない。

 私がもし画廊をやるなら、貸しスペースなど一切やらないな。独断と偏見で自分の好みを一方的に押し付ける。私が選んだ、私が見い出した、いいと思った作家のみを扱って誰の意見も聞かないその代わりにだめだったら、その責任をとってやめる。そういったものだろう、画廊というのは。生きるか死ぬか、真剣勝負の場所だ。

 山口画廊のオーナーは、そんな画廊本来の仕事に情熱を傾けている。ほぼ一ヶ月に一人の企画、年間で12~3人しかやらない。これだけ聞いてもその姿勢がわかる。なんとか報いたいと切に思う。

 昨年のブログの中で、榎並さんは石原吉郎という人の詩を取り上げている。不勉強にして、初めて耳にする詩人だったが、一読して何か異様な気迫を感じた。深い内省の中から、揺るぎない決意を秘めて、厳しく起ち上がる言葉。今回ブログをさかのぼっていたら、思いがけずその詩に再会する事になったのだが、震災を越えて今、この詩は津々と更なる輝きを発するようである。

 調べてみるとこの詩人は、戦後シベリヤの強制収容所に、8年もの間抑留された経験を持つ人であった。だから「花であること」と題されたこの詩の中で、「花」という言葉の持つ本当の重みは、たぶん私達には分からない。徹底して無抵抗で脆弱な存在、否応なしに翻弄され、踏みにじられ、為すすべもなく消えゆくもの……。

 震災以降、芸術に何が出来るのかという問いを、よく耳にする。芸術の存在意義が問われる、困難な設問である。しかしそもそも芸術とは、実用から離れた純粋な表現であった筈だ。とすれば、元来芸術に実用価値はない。よって災害や戦争といった極度の暴力の前で、芸術はあらがう一切の手だてを持たない。この「何も出来ない」

「何の役にも立たない」という覚悟から、芸術は始まるのではないだろうか。作家はただひたすらに役に立たないものを、命を削って作り上げ、世に送り出す。それをどう受け止め、どう活かし、どう役立てるのかは、徹底して受け手に委ねられている。芸術の存在意義は、むしろ受け手が作りゆくものではないか。

 ならば送り手である芸術家の為すべきは、せめて受け手にまで響き到るような、強靭な「花」を咲かせる事だ。強大な力に翻弄され、為すすべもなく蹂躙されてなお、幾度も幾度もその下から、よみがえり咲き直す、力ある一輪の花を。

 昨年の個展に際して、案内状には「こしかた(一輪の花)」と題された作品を使わせて頂いた。一人の女性が、かけがえのない思い出に囲まれて、祈るが如く捧げ持つ一輪の花。それは人生という歩みの中で、ささやかに彼女の咲かし得た、誠に小さな一輪であったのかも知れない。しかし榎並さんはその物言わぬ花に、誰の心にも清らかな微笑みを灯す、確かな質実の力を宿したように思える。

 前述した石原吉郎の詩を、最後に記したい。


 花であることでしか
 拮抗できない外部というものが
 なければならぬ
 花へおしかぶさる重みを
 花のかたちのまま おしかえす
 そのとき花であることは
 もはや ひとつの宣言である
 ひとつの花でしか
 ありえぬ日々をこえて
 花でしかついにありえぬために
 花の周辺は的確にめざめ
 花の輪郭は
 鋼鉄のようでなければならぬ


  山口画廊 / 山口雄一郎

 
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 週に二度ほど出かける学校は実業高校だから運動部の部活が結構盛んで、何年かに一度は甲子園に出場したりする野球の名門高校だ。まぁそういった訳で他の運動部も盛んで、生徒は勉強に学校に来るよりも部活をしに来るという感覚かもしれない。

 私がこの学校に非常勤で教え始めたのは、一つは毎日勤める正規の教員がどうにも務まらなかったということが始まりだ。どうしても続けることが無理だと思ったので、とりあえず逃げたというのが本当のところだ。だから、絵を描くためにというのは方便でしかない。

 今でこそ、いっぱしの顔をしてやむにやまれぬ欲求があって絵の道にすすんだようなことを言ったり書いたりしているけれど、本当のところはそんな立派な理由ではない。単に働きたくないそれだけだ。

 子供の頃から日曜日の午後になると憂鬱になった。これはある種の気質の問題なんだろうけれど、大人になってもやりたくない事をやり続けなきゃならないのか、そんな人生はなんとつまらないのだろうと子供心に思っていた。みんなそうなんだろうな、程度の差はあるけれど。

 そんなだから、未だに学校のある日は腹具合がおかしくなる。家でも学校でも何回もトイレに行く。ひどい時は下痢だな。もう30年やっているのだけど、変らんな。長年やっているからそ知らぬ顔で、教師を演じる事はなかなか上手くはなったけれど、一生慣れないな。 

 そんな私でも、最近ちらっと幸せな気分になったときがある。なんだろうなぁ、まったく気分的なものなんだけれど、例えば放課後にブラスバンドのトランペットの音がパラパラ聞こえてきたり、野球部の生徒の掛け声や金属バットでボールをうった「コキーン」という音が聞こえたり、生徒がばたばたと階段をすれ違い様に「さようなら」などと声をかけてゆく。夕日が沈んでゆく。

 凄く言葉では表しにくい感覚なんだけれど、未完成の人間が何か一つの事に一生懸命なっている姿というのがいとおしいなぁと思ったんだな。今までかつて味わった事のない感覚だな。年取ったということかな。30年経って還暦近くなってやっと教師もいい仕事かなと思った。もっと若いときにこれが分っていれば私は教師をやめなっかただろう。まぁ今だから言えるのだけれどね。

 
はる 3636
 県の美術館は綺麗な森を持っていて、駐車場も完備していて県内の施設として県内外にアピールするには絶好の条件を備えている。どこの国でも美術館のレストランは人気があって、そういった付属に施設としてはミュウジアムグッズと共に付加価値を付けて売り込めるチャンスではあるのだな。

 県はそれを知ってか知らずか、あえて外したのか儲ける事は県の施設として恥ずかしい事とでも思ったのか、その施設を充分にはいかしていない。公の施設の最も悪い例のようなサービスしか受けられないレストランと紙コップのコーヒーをオープンエアーのパラソルの下で飲んでも少しもウキウキした気分にはならないのだ。

 このレストランが営業する前にまわりの同じような飲食店にアンケートをとったら、営業妨害になるので夜は営業しないで欲しいという結果がでたそうだ。そうなんだろうか、短い時間で考えたら多少お客さんは取られるかも知れないが、長い目で見たらそのうちに全体的にお客さんが増えて共存共栄できるのではないかと思う。まぁ結果はお役所の判断で取りやめになったそうだ。

 その結果かどうか、結局まわりの飲食店も営業不振でコンビニにかわってしまった。コンビニなど美術館のまえに必要か?田舎の親父の考える事は目先の事ばかり、なさけないなぁ。。

 同じようなことで、トップの器というのも難しい。案外茫洋としていて色々と細かい事に口を出さないタイプが一番いいように思う。

 聞こえてますか?

 




2011年 6/22(水)~7/11(火)
第56回・榎並和春個展
個展タイトル「遠い記憶4」

千葉・山口画廊
〒260-0033
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560

 
 今月の22日からの千葉の山口画廊の個展のDMが仕上がってきた。このDMになっている作品のタイトルは「逃避行」だ。この作品を描いた頃はまだ東関東大震災がおきる以前のことで、もちろん原発の放射能もなかった。今から考えると随分と平和な世の中だったんだなと思う。ほんの少し前だけれど、それ以前とその後というのは人生観を違えるほど変ってしまった。

 常識の中では物事から逃げるのは卑きょうだということになっている。逃げていたのでは何も解決しないのだとね。けどね、それが出来る人なら雄雄しく戦って行けばいいのだ。でもそれがみんな出来るかといえばそうじゃないね。私なんかはだめ人間だから、あまりにも大きなプレッシャーがかかると逃げ出してしまう方だろうな。

 逃避行はけっこう私の人生そのもの、生き方だったりするな。どうだろうか。



 
 はる 3634
 恒例のスケッチに出る。学校の近くの小さな川辺に大きなケヤキが並木になっているところがある。こうやっておとなしく絵を描いている様子はなかなかいい。白い髭の爺さんが孫たちを連れて絵を描いているほほえましい光景に周りからは見えるであろう。が、内実はそうでもなくて、けっこう脅しをくれているので、仕方なしにやっているところもあると思う。

 彼らには芸術の選択権はなくて強制的に美術を選ばされている。だから当然好きでもない、嫌々しぶしぶやっている奴もおおいだろうな。でもまぁ、こうやって嫌々でも絵筆を持ったという経験はやがていつかは思い出となって彼らに残ってくるのだ。今日も「一期一会」の話をしたのだけれど、絵を描く機会など社会にでると全くない、いずれ退職して暇になったらと思っているかもしれないが、暇になっても絵など描かないのだ。いまここで絵を描く事が最後なんだ、たぶん。

 絵など描かなくても暮らしてはいけるだろう。何も不足は感じないで一生絵と関係なく生きてゆく事は可能だ。でもなぁ、考えてみてくれ。古今東西、おびただしい絵や彫刻やオブジェなどが、人類の財産として宝物として残されているんだな。それはなぜなんだろうとね。

 まぁそんなことを話をしたけれど、彼らには何も伝わっていないかな。



 
  今の仕事のやり方になって今までと大きく違うのは、絵の具の使用頻度がすくなくなったということだろうか。絵を描いているという時間より物を作っている工作している、布を切ったり貼ったりしていることの方が断然多くなった。絵の具の変わりにどこからか買い集めてきたプリント地の布が絵の具に変って下地の色やマチエールになる。

 元々私は工作少年のなれの果てのようなところがあって、無い物は自分で何とか工夫して作ることに生きがいを感じる子供であった。私の部屋の片隅には家中の要らなくなった箱や布や壊れた道具が集まってガラクタ置き場のようになっていた。

 何でも糊で固める今のやり方のルーツは紙粘土でつくった人形にあるきがするな。元々はリアルな動くロボットを作りたかったのだけれど、そのうちに人形になってしまった。紙粘土も新聞紙とのり(こののりも自家製の糊でメリケン粉で作った)でつくったものだ。

 油絵などよくは知らなかったけれど、どこかで手に入れたラファエロの絵を板に貼ってニスを無って油彩画のような雰囲気にしたり、ガラスに裏からカラーマジックで絵を描いてステンドグラスのようにして飾ったおぼえがる。やっていることは基本的に今と変らないなぁ。

 先日新聞の仕事の話に音楽家の松任谷正隆の話が出てた。自分は好きな事をしてきたんだから、別に売れるとか売れないなどというのは考えてこなかった。好きな事をやる、やり続けることの方が大事じゃないか、という風な事が書かれていた。まぁ成功した彼だからいえることだけれど、基本、仕事というのはやりたい事、好きな事をやりたい。家族とか収入とか色々考えるとなかなか思うようにはいかないのだけれど、やりたい事やって、例えば一生うかばれなくても、それはそれでいい人生だと言えないかな。この歳になったからいえるのかもしれないけれどね。



 
裸婦クロッキー展
6/4~6/19
(6/13休廊)
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
私も二点ほど出品します。
はる 3631
 毎年秋になる今年の稲の生育状況なるものが発表されて、今年はややいいとか豊作だとかランク付けされる。これは個々の田んぼの生育状況から全体の状態を推測して判断するのだろう。

 似たようなことだけれど、選挙結果などもまだまだ開票状況が半分にも満たないのに早々に当確が出たりする。ほとんど間違う事がないのはいつも不思議だなぁと思っている。

 確立の話は二次世界大戦のころから盛んに研究された始めた新しい学問だ。その頃から開発され始めたコンピュータと連動する事によって情報さえ正しく入力されれば、かなりの正当性のある予測ができるようになった。

(文部科学省が放射能影響予測スピーディなるもので早い段階で知りえた情報を発表しなかったということを今ここで話題にするためにこの話を持ち出したのではない。しかし、このことは今回の原発問題を象徴する出来事だな)

 すこし理屈っぽくなります。我慢して読んでください。

 「いま」の私は「10年前の私の選択」の結果になるわけだ。もっと言えば私が生まれてから今までの連続した選択の結果が「いま」の私を形作っている。ゆえに「いま」の自分というのは過去の自分の集積したもので、いまに過去が凝縮していると考えらる。「いま」の自分から過去の自分を推測する事はそう難しくない。稲の作柄のように今の一瞬を見ることで、今までの自分を知る事が出来る。

 そして同じように、今の延長に未来があって、将来どんな人生になろうが、必ず今を始点にした延長線上に未来の私があるわけで、また同じように「これからの私」というものも推測できる訳だ。

 もう幾度となく話題にしているので、新しくはないのだけれど、この話を一人の人生の話ではなく時間を無限大に引き延ばせば宇宙の生成の話になり、そして永遠の未来の話にもなる。

 一人の人間の「いまここ」の中に永遠が見えるということだ。 

 お疲れ様でした。



 
はる 3630
 昨日の続き
 で、世界中で歌や踊りや絵や芝居を持たない民族はいない。人は嬉しい時、悲しい時、どうしようもいない悲しみに打ちひしがれた時に、何よりもまず「いのる」のだ。手を自分の前に組んで祈るのだ。その祈りの形というのは不思議にみんな同じなんだな。祈る対象は違ってもね。祈る事である人は慰められるし、ある人は勇気付けられる。そして明日に向って少しでも前にすすむ事ができるのだろう。

 芸術は信仰ではないのだけれど、そういった「いのりのかたち」が例えば歌になり、絵画になったり、芝居になったりするのだ。古今東西違いはあれど、時間のふるいにかけて残っているものは、人間のそんな切実な願い、心のそこからにじみ出てきたもののような気がする。それ以外のものは全て跡形もなく消えてなくなってしまう。

 少し話が飛躍します。

 自然環境が苛酷なほど強い想いが形成される。例えば一神教が生まれる風土は厳しい砂漠の民からであった。生きるためには、生き残るためには他との境界をあいまいにしては生きては行けない。生きるか死ぬか、二者択一的な強い信仰が生まれるのは故あることだろう。

 反対にアジアのモンスーンに住む我々は、他との共存が可能な豊かな土壌や水辺に恵まれていた。だからどことなくあいまいなやさしい多神教が生まれる。

 ところで、今回の原発の事故は我々の今までの理解の範ちゅうをはるかに超えた厳しい自然環境に陥らされた。今までのようにやさしい、八百万的な悠長な価値観でははっきり言って全てが滅んでしまう、とても共存共栄できる環境ではなくなってしまった。そのことを未だに理解しないで、対処しているように思えてならない。大げさかもしれないが、国がなくなるかもしれない、ぎりぎりのところに来ているようにも思う。

 もし仮に上手くしてこの危機を乗り越えたら、日本は今までの日本ではなくなる可能性があるな。なぜなら自然環境が変ってしまうからだ。海のものも山のものも安心して食べる事が出来なくなった。豊かな自然に囲まれて生きてきた民族は消えて、新しい「厳しい環境」に適応した一神教的な民族になるかもしれないな。
 
 誰が首相になるか争ってる場合ではない。

 



 
はる 3629
 [いまここ」の話も続きを書きたいのだが、今日は少し違う話をしよう。

 毎年教科書の見本が送られてくる。業者さんも大変だ。美術などという大して必要とも感じていない科目はどんどん時間を削られて今や風前の灯火になってきたからね。一校でもこうやって続けてくれるのはありがたいことかもしれん。まぁ別に私の手柄ではありませんが・・。

 で、薄っぺらな教科書を何気に読んでいたら、なかなか鋭いことが書かれていた。教師である私が読んでもうなってしまうほどいい文章だった。写してこようと思ったんだけれど忘れてしまった。というか面倒になったという、いつもの情けないはなしだ。

 うろ覚えだけど、少し書いてみよう。私の解釈も入っています。

 美術は単に綺麗だ、とかかわいいとか、お洒落~というだけのものか。日本は周りを海に囲まれて、資源は少ないけれど何よりも美しい四季折々の風物や食べ物に恵まれている。それを当たり前のように感じて、普段何気なく暮らしてはいるけれど、世界のなかで考えてみると、そうではない環境で、また戦争や何らかの理由で先祖から受けつながれてきた土地を離れなければならない民族もいる。

 ここで、この教科書が書かれたのは今回の震災以前の話で、今の福島のことを考えると、上の言葉が現実となって降りてくる。われわれは、いまだかつて経験したことのない、大きな罪を背負ったことになる。生まれる前からそこにいて、そこで生きてゆく事を前提とした人生が、自分たちのせいでもない理由でその場を離れなければならない、なんとも悲しい話だ。その事の意味を未だにだれも真剣に考えていない。単に生活を保障するとか賠償すればいいといった話ではないのだな。

 そうやって自分たちの土地を離れなければならない時に人は何を持ってゆくのだろう。食べ物や生活の道具は必要だ。もちろんお金も必要だろう。けれどなんでもかんでも持ち出す事はできない。最低限必要なもの、自分にとってこれをなくしてはこれからの人生生きてゆけないというものは何だろうか。

 今回の震災の後、大変な瓦礫のなかから家族の写真を拾い集めて洗って持ち主に返すボランティアをしている人たちがいた。戦争でもう二度とこの地に生きては帰れないだろうと思った若い兵士は一枚の恋人の写真や家族の写真を持っていったのだろう。

 信仰のある人はマリヤ像かもしれないし、もって歩ける何か心の拠り所になる偶像かもしれない。

 飾り物や綺麗なものでなくていい。故郷を離れなければならなくなった旅人が持って行きたくなるようなものが本物かな。まぁそんな深刻なものは私には作れないだろうけれど、いつも思うのは単に生活のなかの飾り物で終わりたくはないな。

 
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