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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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Voice - Wong Wing Tsan

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夜の舟

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2011年 6/22(水)~7/11(火)
第56回・榎並和春個展
個展タイトル「遠い記憶4」

千葉・山口画廊
〒260-0033
千葉市中央区春日 2-6-7
春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560
(展示風景・山口画廊撮影)
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榎並和春展
── こえをきく ── 
 2010年 5月26日 (水) ~ 6月14日 (月) 火曜定休
      【 6月12日 (土)・13日 (日) 作家在廊 】

山口画廊

〒260-0033
千葉市中央区春日 2-6-7 春日マンション 102
Tel.&Fax. 043-248-1560

 昨年のいつだったかよく覚えていないのだけれど、カナダの画廊から作品の展示の話が舞い込んできた。まぁよくあるメールでの勧誘で誘い文句は「次期の冬のオリンピック開催地であるカナダで日本の作家を紹介する」ということらしい。ホームページがあるので見て判断してくれということだった。私は、いつものように全く無視した。

 まぁ基本的なコンセプトは間違っていなし、どういう形であれ紹介して展示してもらって見てもらえるチャンスが増えるのはありがたいことだ。しかし何かしっくり来ない、日本人の欧米人に対するコンプレックスに付け込んで、どこかで「フジヤマ、芸者」的なお手軽なお土産物を期待されているのではないか、そんな風に勘ぐってしまう。

 よくあるパターンで「フランス美術賞展」とか「イタリア美術賞展」などという冠の着いたコンクールがあるけれど、絵を描き始めた頃はこれに入選や受賞すれば一躍画家として海外で認められたわけで、何とかなるのじゃないかと夢を膨らませて要綱を取り寄せたりしたけれど、何処となくこれもまた胡散臭いにおいがした。

 要するにそういった「海外でデビューする」ということを釣り文句に訳の分からん素人から出品料というお金を巻き上げるよく考えられた一種の詐欺だな。

 まぁ実際にフランス賞展ならパリで日本人ばかりから集めた作品の展覧会を開催して紹介するわけだから、まんざら全ては詐欺とはいえないけれど、そんなもの地元の誰が見に行くかね。出品した作家の知り合いが義理で観るだけだ。まぁそれでも一応海外で紹介された、展覧会をやったという画歴にはなるからお互い様といえばそうかもしれない。
 
 まぁこの企画の主もカナダ人にはなっているけれど、実質的には日本人の 誰かがやっているのでないだろうか。二ヶ月預けて一万円、実際に展覧会をやっているかどうか疑えばきりがないのだけれど、どうもこういった話は乗らないほうがいい。

 何処が間違いか?芸は生き方なんだ、安易に作品だけでなんとかなると考えるところが間違い。

 HPはここ
 http://www.rufuslingallery.com/gallery.html
 
dm

甲府展DM
 
 甲府展のDMできました。希望があればメール下さい。地元のかたは11月に入りましたら郵送します。お待ちください。

はる 3034

「こえをきく5」       

人の一生は「私を見て」というのから始まる。多分人が生きる動機の根本にあるのは多くの場合これではないだろうか。

 絵を描くことは修行の一種ではないかと思っているのだが、こころの中が不安になったり、心配事が増えたり、こうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないのだろうと考えている。で、最近ちょっと考えついたのは、いつまでも他人の目を意識した「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのでは、ここから抜けだせないのではないかということだ。

私のモチーフである、祈る人も思索する人も旅芸人も修行僧も漂泊者も山師や祝人も全て私の分身だ。取りつくろうつもりはない。恥も外聞もなく出し惜しみせず晒すこと、その時々の精一杯の私をすべて出してしまう。出し尽くせば、やがて見えてくるものもあるのではないだろうか。

見えないものを観る、聞こえないものを聴く、その時々のこころの「こえをきく」ことが私の仕事のように思う。

 
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バーミヤンの壁画

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敦煌の壁画

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 ロシアイコン1(13C)ギリシャ・アトス山の修道士による

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ロシアイコン2(板絵)

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ロシアイコン3

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ジョット「鳥に説教」アッシジのフレスコ画
 
はる 2900
 何と切りのいいカウントになりましたね。3000の大台ももうすぐです。少しずつ一日一日積み重ねてゆく。このことの意味は大きいですね。往々にして何とか盛り返そうと一日で一週間分など書こうとするともうだめです。こういった日々のメモの意味が無くなってしまうのですな。たった一言でいい。何か残すことです。それが続けるコツです。

 表現というのはそうやって日々何事かを刻みこんでゆくことの中から生まれてくるように思う。絵を描く事でもいいのだけれど、デッサンやスケッチみたいなものは運動みたいなもので、何も考えないでやってもあまり意味が無いように思うな。運動能力はつくかもしれないけれどね。心を耕すというのかな、思索するというのか、茫茫と考えることも必要ですな。一気にやってもだめなんです。継続することに意味がある。

 矛盾するようだけれど、クロッキーなどをやっていて思うことは、これは運動とよく似ている。ずっとやっていないと忘れるというのか、確かに能力が落ちる。楽器なんかもそうだけれど、昔盛んに練習していた時は簡単に弾けたものが、しばらく弾かないと全く忘れていることに愕然とする。で、また少し練習すると感覚は戻ってくるのだけれど、しばらくやると又飽きてきてやらなくなってしまう。そんなことの繰り返しだ。

 まぁ頭を練るというのと腕を鍛えるというのと両方必要ということかな・・。ついついサボってしまうので、偉そうなことはいえませんが。

 閑話休題
 前から何度かさらした画像もあるけれど、まぁ観る人がみれば私の絵のソースがどこから来ているのか分かると思う。どんな作家も全くオリジナルということはありえなくて、どこからか自分のお気に入りの作品を心のどこかに溜め込んでいる。それが具体的に誰だということはできないかもしれなけれど、確かにあるんだな。それをはっきり意識する、潜在意識に有るものを意識下に呼び戻す必要がある。

 この間の村松さんのメルマガに書いてあったことなんだけれど、例えば作家としてどういう人が有望か?てなことがあった。よくやるのが例えば村上春樹のような文章を書く人はたくさんいる。大事なことは「・・・のような人」はいらないということなんだな。今流行っている作家を真似しても寿命は短い。

 真似するなら最も古いものからもってくることだ。そこにはオリジナルなもの、変わらないもの、またどこにでも有る普遍的な宝物が隠れている。


 そんなことが書かれていて、うんうんとうなずいた。そこのところが大事だな。

 私がこうやって種明かしをしてもいっこうにかまわないのは、そこから何を感じ何を選び取るのかは人それぞれで、それがまた作家そのものだからだろう。真似するならどうぞ御随意に・・。

 
出雲の阿国
出雲の阿国
 この絵は好きだな。古ぼけた時代がかった感じとか、へたくそな骨が感じられないような人物よか。いいと思うのは自分の絵にどことなく似ているからだろうか。

 流れ者というのはどことなく哀愁があっていい。フーテンの寅さんなどもテキヤさんだけれど、本当はヤクザとか渡世人と紙一重で世間の裏街道を歩いている輩なんだけれど、どこか憎めないところがある。

 これだけ情報が発達した現代じゃほとんど信じられないけれど、ほんのつい4,50年前のことを考えてみれば、多くの場合まだ地方独特の色んな迷信やいわれなどがいきていて、魑魅魍魎がそこかしこに潜んでいていたずらをしていた。

 同族か近い親戚ぐらいしか付き合いがなく、一生その地方から出ない人も多かったのじゃないかな。そんな時代にお祭りやハレの日に色んな珍しい文物や情報を運んでくれる流れ者は、近寄りがたいけれど、何かえもいわれない魅力のあった人たちではなかったかな。

 例えば山に棲むマタギとかサンガなど耕地を持たないで暮らす人「やまびと」や占い師や山師、芸人や説法師、的屋、薬剤師、香具師、傀儡子、寺を持たない坊主、流しの職人なども士農工商の枠から外れた人たちで、お上にとっては把握しにくい集団であった。

 つづく

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 画集が出来てきた。満足、まんぞく。しかし、時間がないのでまでまだ送れません。少しお待ちください。
 これがそのアパートです。しかし今はもう取り壊されてありません。

 
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