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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3729
 「平均律」と今の絵、例えば「ぼへみあん」の間にはかなりの違いがある。下手すれば同じ作者の作品ではないとさえ見える。時間的には20年ある。作家にとって40台から60までというのはすごく大事な、その人の根幹を作る時間である気がする。自分で言うのも傲慢だけれどね。まぁ客観的に考えたいので許してくださいな。

 大きく異なるのは画材が違う。平均律は油彩であり「ぼへみあん」は色々な材料をつかった混成技法で作られている。これは画材だけの問題ではなくて、作品の作り方、元々の発想そのものが違うということを意味する。

 平均律を描いていた当時、一番考えていたことはコンクールで賞を取るということだった。そのためには当時流行っていた技法やスタイルを出来るだけ吸収して自分なりに応用して作品に生かす事、そんな事ばかりを考えていた。

 当時流行っていた主流の考え方は、「日本人である我々が何故洋画をかいているのか」という根本的な疑問だな。今もってその事を考えることなくヨーロッパの街角をそれ風に描いている作家も多いけれど、考えてみると不思議な話で、我々の先祖からのDNAで素晴らしいものは海を渡ってやってくるという舶来崇拝意識がなせる業かもしれない。

 そんな反省に立って材料を徹底して研究し始めた。各美大の材料研究はこの時代から始まったのではないかな。油彩画はもちろん、その前のフレスコからテンペラ、画溶液からキャンバスに至るまで徹底して解体して組みなおし始めた。

 作品のテーマも西欧からの借り物でない日本の古典から取るというのが新しいような気がしていた。今見ると多くの人が昔からそんなことをやっていたんだけれど、当時はうんと新しい気でいた。

 今から考えるとうわべの形やスタイルばかりが目立って、肝心な表現がお留守になっているきらいはあるけれど、まぁ当時はそこまでしか行けなかったのだ。

 つづく、かな?
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 はる 3728
 今日は庭木の剪定に来てもらった。今までは自分でやっていたのだけれど、大きくなりすぎた枝がニ階の屋根を越えて覆いはじめた。それと隣の境もあやふやになって迷惑を掛けている。普通なら届く梯子でもそろそろ私では無理になってきた。手入れしない雑木林風が好きなんだけれど、ここまで大きくなると手に負えない。隣家に植木屋さんが来たので、ついでに頼んだ。

 和風に刈り込んだ庭木は好きではない。盆栽風に去勢されたような松など哀れなものだ。植木屋さんに頼むとどうにもそんな風に刈り込んでしまうので、困ったものだ。だからお任せにはしないでずっと付き合って見ていた。というわけで疲れました。



 
「犬. 馬. 難. 鬼. 魅. 易.」だれの言葉か知りませんが、画家・松田正平が好んで書いた言葉です。想像上の鬼は描くのは容易いが、誰でも見たことがある犬は難しいという意味らしいのですが、ワザとらしいテクニックを使ったあざといものは眼を惹きますが、本当は何気ない日常にこそ真実が隠れているように思います。

 
 



 
はる 3724
 昨日と今日は美術協会の一年に一回のデッサン会。美術館を使って大々的にやる大きな行事。昨日は台風の影響で電車も止まったりして何だか非常事態。でも東京から呼んだモデルさんは、こんな事もあるだろうと一日前に来てもらっていたので何とか大丈夫でした。備えあれば憂いなし。

 このところクロッキーの要点を考えていたのは、このことがあったからで人様に分りやすくクロッキーのポイントを伝えることは、自分で描く事より数倍難しい。普段何気にやっていることをいったん客観的な言葉に直して、自分の仕事を確認することはとても勉強になる。

 簡単に「良く見て」「見えたように描く」とはいうけれど、何をどのように見たらいいのか、普通にただ見ただけでは何も見ていない、見えてはいない。その事に気付いてさえいない。いかに普段ものを見ていないか、そのことに気づく事がまず最初の一歩だと思う。

 普段我々はこうであろうという既成概念でものを見てりかいしている。それはそっくり日常生活の経験知であって、そのことが普通の生活では役に立つのだが、ところがデッサンやクロッキーという作業ではこの「知っている」という経験がほとんど全てじゃまになる。赤子のような目で見てとも言うけれど、それもまた普通はできない。

 そのことに気付きさえすれば、器用不器用はあるけれど、クロッキーは面白い作業だと思う。

 ただ、このことと人を感動させる絵を描くということは全く違う分野の話で、正確に正しく物が描けたとしてもそれは絵を描いたというにはならない。難しい話だけれど、今度はそうやって一生懸命手に入れたワザを忘れなければならない。忘れて、そんな事に何もこだわらなくなってスット、フラッと、ぽっかりと出てきたものが本物なんだろうな。

 今日は午前中はバールスローの作品展示。約一ヶ月間の長期展示なので、まぁ個展というより壁の飾りとして見てもらってもいいと思っている。街中のカフェで食事しながら、おしゃべりしながら、お茶を飲みながら、ちらりと目の前を掠めてくれればいい。
榎並和春個展
「遠い記憶」番外
9/4~10/2
バールスロー
〒400-0031 
山梨県甲府市丸の内1‐19‐21
TEL/FAX 055-226-8625

営業時間  
火~金   12:00~22:00(L.O.21:00)
土、日、祝日 12:00~18:00(L.O.17:30)
定休日 月曜日
 
 後、今月県立美術館のF2の企画展示室では、収蔵されている私の油彩画F130「平均律」が虫干しで展示されているという情報を得ました。観覧料が掛かるので是非にとはいえませんが、機会があったら観て下さい。
 
25d2.jpg

F13「平均律」
1990



 
はる 3718
 長年クロッキーをやってきて、ある時に一つのポイントをつかんだと思った。昨日話したことと同じ事だけれど書いてみる。つまらなければ飛ばしてくださいな。

 多くの人(絵を趣味にしている人)は絵を描く場合、上手に描こう、うまく描きたいという願望がある。で、その上手いというのはどういった絵かと言えば、兎に角写真のようにそっくり見えたまま、実物と見間違うほどに描ければそれが一番いいわけで、それ以外は二番手、三番手だと思っている。

 だから描き方として写真を撮ってそれを何等分にして拡大する、人間コピー機のように描くことが一番手っ取り早い訓練の方法だと考える。そっくりそのまま、見えたまま、何も考えずに、目をさらのようにして、コピーする。まぁそれも一つの訓練の方法ではあるでしょう。元々が写真のように描きたいというのであれば、それが一番近い方法かもしれないな。

 けれど私が考える作画の方法というのは、対象に似るとか似ないとか、上手いとか下手であるというのを一番には考えていないということだな。かといってでたらめに描けといっているわけではないのだよ。今からいうように描いて行けば、ごく自然に当然の成り行きとして似てはくるんだ。似ては来るけど対象に似ると言う事を目的にはしていないということだな。

 じゃ何を目標にしているか?ということだな。ここのところが最も重要なポイントになる。例えば普段何気なく暮らしていると、ほとんどの場合風景など見過ごしている。特に何かこころに引っかかりでもない限り、日常的には風景は特記すべき事柄ではないわけで、記憶に留まることはない。見てはいるけれど見てはいない。意識して見てはいないと言える。

 めがねをかけている人は普段はめがねの存在を忘れている。忘れるくらいでなければ邪魔になるわけで、特に意識しない限りめがねはないものとして暮らしている。ところが意識してめがねを見るとはっきり抵抗物として見えるわけで、そこのところが見ているようで見ていないということだな。ちょっと寄り道をしたかな。

 絵を描くという行為はこの「意識してみる」という事なんだということだ。で、意識しただけではだめでそれを報告しなければ、意識してみた事にはならない。その報告の結果が描かれた絵ということになる。

 例えばモデルさんは左のほうを見ている、右肩は左肩より少し下がっている、体は少し右に傾いている、体重は右に掛かっている、鼻先と足先のラインがほぼ一直線だ、・・・という風に自分で一つ一つ確認して行く行為なんだな。それが絵を描くということなんだ。結果として自然と似ては来る。けれどそれは目的ではない。

 このことを知るために実は人体クロッキーなどをしているといてもいいのじゃないかな。クロッキーも絵を描くという行為であるから絵の本道とつながっていて、結局は表現というのは自分の考えていることを如何にすれば人様にメッセージとして報告できるかということである訳だから、見えたものをどうやって「自分はこう見えました」と報告する訓練はとても大事なことのように思う。

 これが私がクロッキーで得た大事なポイントだな。お分かりいただけたでしょうかね。



 
 はる 3716
 家の前の路地が草ぼうぼうになってきたので、朝一番の仕事で草刈をする。しかし、全部抜いてしまってはせっかくの秋の風情が無くなってしまうので、一部分ワザと残した。他人が見れば手抜きしたように見えるだろうか。

 本来雑草という草は無い。その場所に適したものだけが生き残ったわけだ。あえて種を買ってきて花壇にする必要など無いのではないかと思っている。その場に会った、自然が選んだ草花が一番美しい。この猫じゃらしも見方によればなかなかかわいらしいと思う。

話題を変えて
 それにしても今更ながらこの国の指導者層は何をしているのだろうか。この国をどこに持ってゆきたいのか、まさか潰してしまいたいわけではないだろうに。私のような市井の一人が言う事ではないのかもしれないが、全く持って不可解だ。

 マスコミも全く当てにならないと言う事が良く分った。普段ジャーナリストは報道の自由などと偉そうな事をいって、芸能人のつまらないゴシップなどをさも天下国家の一大事のように報道するけれど、一番肝心な、どうしても伝えなきゃならない、命に代えても伝えるべきことが起こった時に、報道の自由を掲げるのではなく、大本営発表しか報道しなかった。この責任は本当に重い。

 新聞もテレビもラジオもみんな政府の公の発表しか報道しなかった。それがためにどれだけ多くの国民が被曝したことか。計画停電などというとんでもない暴挙を許して、牛や馬やその他の多くの動物や命を危険に晒してしまった。昔からそうなんだろうな、今更始まったわけではないだろう。多分もしまた戦争がおきる様なことになったとしても我々は止められないと思う。

 無論彼らだけの責任ではないが、一番ものを考えて独自の判断で物を言っていい職業についている彼らの責任は大いにあると思う。世論はマスコミが作るんだよな。

 それに何だかんだ言っても、電力事業主の言いなりになってきたことが大元だ。それが国と一体になって国民に目隠しして甘い汁を吸ってきた。国策=御国のためという言葉には日本人は一番弱いからな。それにお金が絡むともういちころ。何でもやりたい放題だ。国策に反対するものは国賊だみたいな雰囲気に持ってゆく。戦前の赤狩りみたいなものだ。

 我々は戦後60年でまたしても自ら負け戦にのめり込んでゆく。

 原発の再稼動だって、もうたくさんだ。
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