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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 原寸画像検索
http://gensun-images.com/
 
 原寸画像検索「榎並和春」で検索してみた。
http://gensun-images.com/n/%e6%a6%8e%e4%b8%a6%e5%92%8c%e6%98%a5

「あそびべのはる」で検索
http://gensun-images.com/n/%E3%81%82%E3%81%9D%E3%81%B3%E3%81%B9%E3%81%AE%E3%81%AF%E3%82%8B

 私の作品ではないものも含まれています。すみませんね。
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 春の重たい雪でバラの支柱がぽっきりと折れてしまった。で、今日は昼間暖かだったので折れた支柱を取り替える作業をする。バラの支柱は途中で入れ替えるのはとても厄介だ。特に私のようにほとんど手入れらしい手入れをしない不精な造園家のバラはあっちこっちに細かい枝を伸ばして網の目のようにからんでしまっている。

 なにわのいばら」は丈夫な野性味にあふれたバラで放っておいてもどんどん大きくなって、虫が食うこともなく繁茂してくれる。それはそれでとても嬉しいのだが、やや繁茂しすぎるという欠点があるなぁ。で、重たくなって今回の水っぽい雪の重さに耐えかねてどさっと折れてしまうのだ。

 バラの高さは私の背丈の二倍ぐらいあって、隣との目隠しの役目も担っているわけだけれど、反対にこういった修理になると屋根に上ったり降りたりで非常に厄介なものだ。もう一つは「ノバラ」は棘がきつい。普通のやさしいトゲではなく、鳥のつめのようにカーブしていて色んなところに引っ掛けながら枝を伸ばしてゆくというDNAを持っていて、やたらと服や指をさして引っかかる。これがやたらと痛いのだな。手は傷だらけになる。

 でもまぁ、ちょうど休眠からさめたばかりでまだ勢いがないので、今のうちに修理しておかないと更にらっかいなことになる。老眼だったり、腰が回らなかったり、暑かったり、そんなことで細かい仕事はやりづらい。
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はる 3182
 春の雪です。

 時々これはHPですか?ときかれる。CMがほとんど入っていないシンプルな形をしているので間違われる方がおおいのかもしれない。下の方をよく見ると小さくきづかない程度のCMが入っている。だから借りているブログだとわかる。前に借りていたブログはかなり大手のアメブロで最初はよかったのだけれど、だんだんに強制的にCMが入ってきて閉口した。まぁ無料で借りているから文句はいえないのだけれどね。

 こういったブログも随分と進化してきて、もうほとんど昔のHPと変わらないし、シャメの機能とかyou tubeの貼り付けなど、いろいろな遊びの機能を考えると、ある意味HPをはるかに超えたようにも思うな。容量も無限になった。これはすごいことだ。

 独自のHPのよさを一言だけ言うならば、借り物でない自分で作った一国一城の主だということかな。これは自己満足かもしれないが、大きいものだ。ひな形があってそれを選ぶ形でつくるブログは便利ではあるけれど、既製品という感じは免れない。どこまでいっても与えられた範囲のなかでこしらえたものという不自由がある。でもまぁこれがネットが普及する大きな力になっているのだから否定するわけではないのだけれどね。

 もう一つは借りているシステムの場合、どこかで止めてしまうかもしれないという不安がある。明日から止めますと言われたら、過去のログが消えてしまう。まぁ記事など消えてもいいけれど、作品をアップしている場合記録を取っておかないと消えてしまう可能性がある。これは日記も同じだと思うな。過去の記録はバックアップしておいた方がいいように思う。

 ご存知のように私のHPのトップは
 http://www2.journey-k.com/~enami
 です。よろしくお願いします。



 
 宇宙の話つれづれに
 宇宙がどんどん膨らんでいる風船のようなもので今も変わらずに膨張しているならば、当然その外はどうなっているのだという発想になる。けれど二次元の人間が考えた空間と三次元の人間がみる空間とはおのずから違いがあって、二次元の人間にはどうやっても二次元的発想しか出来ない。同じように、今ある宇宙を風船のように考えてその後ろを考えてるのは三次元的な発想でしかない。

 空間が曲がっていて、それは閉じられているわけだから宇宙の果て、境界というものはない、あたりまえだけど。三次元的発想で行くならいずれは果てがなければならないわけだけれどね。これって古代の地球の考え方と同じだね。世界の果てがどこかにあるはずだと、航海に出る。やがて元の港に戻ってくるわけだ。それでこの世界は丸いんだと立証されたわけだ。

 前に書いたけれど宇宙は今でも膨張しているように見えるらしい。ということは考えてみると、我々から一番遠く見える星はほぼ光速に近いスピードで遠ざかっているわけだ。それより遠い星から出た光は永久に地球にはとどかない。

 ・・・・・眠たくなってきたのでやめます。



 
  何もない比較的に静かな日曜日でした。チェロの練習もやりだすと結構面白くて指が痛くなってくるまでやるのですが、そこに至るまでがなかなかですね。何だかんだ理由をつっけてサボってしまいます。だから一向にうまくはなりません。絵を描くことにも似ています。いやいやでもやって行かねば前には進まないのです。

 何も書くことがない時はまた宇宙の話でも書きましょうか。つれづれに・・
昔、手塚治虫が「不思議な少年」で四次元の空間の話を描いていた。すごく上手い説明でそのことがずっと頭に残っていて、今でも多分そこから抜けきってはいないだろうな。どんなことが描かれていたか、思い出しながら書いてみる。

 漫画のような二次元に住んでいる人間が居たとする。彼には三次元空間というのは想像はできるけれど、実際にみることはできな。だから例えば丸めてボールのようになったとしても本人としては平面上を動いている感覚でしかない。彼にとっては、平面世界というのはどこまでいってもまっすぐで永遠に続いているように見えるわけだ。彼が世界の果てを目指して旅に出たとする、ところがこれがボールのように曲がっていたら不思議なことにやがて彼は自分のもとあった場所に戻ってくるというわけだ。我々三次元の人間からみれば当たり前のことだな。

 空間がゆがんでいると言い出したのは例のアインシュタインだ。でも当時はだれもそんなことは理解できなかった。しかし、後にその事実が確かめられた。そのことはまたどこかに書かれてあるので省略する。

 上と同じように、多分われわれの住んでいる三次元の宇宙は閉じられた世界なんだと思う。だからたとえば光速の乗り物にでものって移動すればやがてはもとの場所に戻ってくるのだと思う。永遠、無限とは次元が変わればなんでもないことだ。

 


P1300031s.JPG
 
 銀座・松屋の個展で展示した写真(popというらしい)が甲府の写真屋さんの小さなギャラリーで見ることができます。多分もう他の個展では展示することはないでしょう。大きな会場でなければ出来ないような遊びの展示企画で、壁一面を自由に使っていいということだったので友人のデザイナーに頼んで一年かけて生活の一部を撮ってもらいました。新聞とか雑誌の記事のようなコンセプトで、読んでも楽しめるようになっています。三月いっぱい展示しているそうです。時間があれば覗いてみてください。

 甲府駅南口から5分ほど西
 カメラの栄光堂です。
http://eikodo.typepad.jp/blog/


 地図
http://www.e-shops.jp/local/lsh/an/19/9605809.html

はる 3179
 少し前にかみさんの同級生が地元に里帰りしてきて、その娘さんが一人街中を散策したそうだ。日ごろ街中の荒廃を寂しく思っている我々は、さぞかしがっかりしただろうなと想像するんだけれど、彼女たちの目からみたら、けっこう新鮮に映ったらしい。「レトロな昭和の町」として面白いと感じるらしいよ。

 「へっ・・」意外だったな。まぁ言い換えれば新しく蘇ろうとする活気もない凍り付いてしまった町ということだけれど、まぁそれが案外違った目で見れば新鮮なのかもしれないな。まぁそこに住んでいる我々にとっては、喜んでばかりいるわけにはいかないのだけれど、何もかも壊して新しく作ってしまうことだけが、正しいとは思わないな。

 案外田舎町の良さに気づいていないのはそこに住んでいる我々自身かもしれない。少し新鮮な驚きでした。



 
 そうそう、今朝はイタリアにいた時にお世話になったタカシさんから電話があって、今ナルニ市の市庁舎に展示されている昔のカズハルの絵をブログにアップしてあるので見てくれということだった。あぁとても懐かしい絵だな。
「イタリアの真ん中で暮らすウンブロクンのブログ」ここです。
ホームページは「イタリアの真ん中で暮らす」

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勝手引用「デッサンと模写の違い」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
/qa/question_detail/q1125175971

***
・・略・・
デッサン……眼の訓練。手の訓練よりもはるかに「眼の訓練」です
世界の中にあるものを、どう見るか。
はじめは、ただ漠然としか見えない。
でも、そのものを紙に写そうとしてがんばっているうちに、実にさまざまなもの、ありとあらゆるものが見えてくるようになります。
光と影。かたち。マッス。対象のムーヴメント。そこに漂う「気配」のようなもの。そして、対象の「物語」まで……。
「良いデッサン」をじっくりみると、画家が、そこになにを見ていたか、なにを見ようとしていたか……そして、その画家が、どのような「眼」を育てていったのか……そういうものがあらわれてきます。
画家は、本絵では、多少とも「つくる」傾向があるが、デッサンは、その画家の持つ「眼」に最も正直です。
デッサンは、「眼」の訓練として欠かせないものと考えます。

模写……手の訓練。眼の訓練を生かして絵を「つくる」手の訓練です。
画家にとって、本絵は、世界と対峙する真剣勝負の世界。
なので、画家は、自分のこれまでつちかったすべてを総動員して本絵を「つくり」ます。
その画家のつくった「本絵」を模写することは、その画家の本絵をつくるための「手のスキル」を自分に移す行為です。
模写をすることで、その画家がその絵をつくっていった「構造」があきらかに感得されてくる。
なので、模写の基本は、同一支持体、同一画材、同一寸法……そして、もう一つ、これは理想ですが同一光源、ということになると思います。
ちなみに、本絵の模写をする人は多いが、デッサンの模写というのはあまりききませんね
模写が、「手の訓練」であることをあらわしているのだと思います

・・略・・
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
/qa/question_detail/q1125817051

・・略・・
<眼の訓練>、つまり、<ものを視る訓練>というのは、ただ、じっとものを見ているだけでははかどりません。ものを見て、それを描いてみる、つまり、自分が<見た>と思ったものを、見えるとおりに描いてみる。描いたものと、見えているものを較べてみると、<もの>に、いままでとちがった面が見えてきます。

単純に光と影の問題だけをとってみても……自分が見ていると思ったとおりに光と影を描いてみることによって、対象のもっている陰影の状態が、よりはっきりと、正確に見えてきます。で、それを、見えてきたとおりに修正する。すると……また、より深い側面が見えてくる……といったように、<見えているとおりに描いてみる>ことによって、自分のものの見方が、どんどん変化して、対象をより精細に、またより正確に見られるようになってくる……つまりは、<眼の訓練>です。

デッサンは、元来がこういうものだから、デッサン自体をよりうまく描こう……ということはないのだと私は思っています。
プロなら、デッサンを一瞥しただけで、その人の<眼の訓練>がどれだけできているか、簡単に見抜いてしまいます。その人が、どういう<眼の訓練>をやってきたのか、今、どんな状態にあるのか、そして、何が問題なのか……等々。
デッサンは、その人の今の状態をすべてさらけ出してしまう、ある意味オソロシイもんですよね。

油彩なんかですと、デッサンがそのまま本画につながっていくようなところがありますから、「デッサンが必要」というのはだれにもわかりやすい。(でも、実はそれは表面上のつながりしかみていないんですけど)
質問者様のように、直接的なつながりがないデザインに、なぜデッサンが必要なの?という疑問は、ある意味当然だと思います。

しかし……デッサンが、<眼の訓練>であることを考えますと、これはやはり必要不可欠といってよいと思います。
私たちの眼球は、それ自体が高度な情報処理能力を持っていて、その情報処理は、直接脳につながっている……つまりは、眼球は脳の出先機関みたいなものです。
ということは……私たちは、常日頃、<あるがままに>ものを見ているというよりは、<見たいように見ている>、すなわち、私たちが<見ている>と思っているものは、実は、脳にあるイメージのフィルタを通して見ているということです。

デッサンによって<眼の訓練>をしていくと、このフィルタが少しずつ外れてきて、<そこにあるそのもの>の姿が、徐々に見えるようになってまいります
これは、実際にやってみられると良くわかるのですが……脳のイメージのフィルタ一枚一枚がとれていく感覚は、ある種の快感でもありますね。(病気が治っていく……とか、そんな感覚に近い?)

眼を使う仕事においては、常にニュートラル、つまりフィルタがかかっていない裸眼状態から出発しないと、今自分がいる位置さえわかりません。そして、自分の眼をこのニュートラルに近づけていく一番いい方法としては、今のところデッサン以上のものはありません。
ということで、デザインにおいても、やはりデッサンは必要なのだと考えます。
・・略・・
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はる 3177
 ユーチューブでNHKの「宇宙」をみる。まぁそれにしても便利なものだ。見逃したと思ったテレビ番組をこうやってみることが出来るのは嬉しい。前のpcではダウンロードに時間がかかりすぎて細切れにしかみれなかったものが、xpになってほぼ滞りなくみることができる。

 目新しいことはなかったのだけれど、ビッグバンは今では小学生でも知っていることだわな。そのきっかけは宇宙の大きさを調べていたら、一番遠い星がどんどん遠ざかっているように見えた。そう、だから今より前はもっと近くにあったわけで、それを気が遠くなるほど繰り返せば、やがては今のすべての要素を含んだ点に還元されるのだろうと考えられるわけだ。そこまではいい。

 何もないところに、点があるとき突然ぱっと出現して、一秒の何万分の一の時間に、光で何万年もかかる大きさまで膨らんだ、大爆発を起こしたというだな。これはもう物理的な大きさや、時間の感覚では計り知れない、そんなもん想像できんだろう。・・んじゃ、その前はどうなってたの?という疑問が残る。

 で、実はこの宇宙の前には親宇宙が存在していて、その前にはまだその生みの親宇宙があるというのだな。これって植物の枝分かれ、細胞分裂みたいなもので、まさにフラクタルの理論そのままだな。

 それから、冗談みたいな話だけれど我々の体は宇宙の星のかけらで出来ていているという事実。というのは我々を形作っているさまざまな元素は地球だけでは作ることができなくて、遠い星が成長の過程で最後に大爆発した結果宇宙に撒き散らした塵が集まって出来たということ。

 こういった宇宙を見ていると長い時間をかけて成長する生命のようなものを強くかんじるなぁ。我々も元は同じように、宇宙に漂う塵だった。やがて何かのきっかけで地球の引力に引かれて星屑となって地上に降り注いだ。空中の大気になったものもあれば、地中深く岩石になってしまったものもあるだろう。

 地上に出てきた元素はやがて結びついてDNAの一部になって生物の体になる奴もいでてくる。生命が次の生命を生んで新しい命になってゆく。そしてやがてはまたもとの宇宙の塵にもどってゆくというわけだ。

 だから、こう思うんだな。人の一生も宇宙の一生も実は同じような理で出来ているんだな。いや、実は我々の方が宇宙の創生を真似しているのだと思う。でなければこんなに上手に何もかも回って行くはずがない。誰かが考えてやったのならまだ探りようがあるけれど、これは全くの偶然に見えるけれど、その実上手に計られた物語のように思えるな。

 



 
 今までに経験してきたことで良いと思って来たものはもう既成の事実としてインプットされているわけだ。例えばゴッホの絵だとかロートレックなどの印象派の作家の絵などはいち早くこれに取り込まれてしまう。日本人にとってほとんど何の下地がなくても理解できる絵だからな。浮世絵が影響を与えたということもあるけれど、特に西欧の絵画はキリスト教の理解がないとなかなか普通には理解しにくいものが多いのだけれど、印象派以降の絵はほとんどそれを表面的には感じない。

後期印象派のセザンヌから始まって、 ピカソ、マチス、クレーその後アメリカに渡ったモンドリアンとかアメリカの抽象表現主義、作品が巨大化して自動筆記のポロックやゴーキー、少し前になって落書きアートのバスキアやキースヘディング、ぐらいまでなら何とか理解できる。

 その後の現代美術というカテゴリーになるとまるっきり分からなくなる。

 私が今理解できないけれど、やがては見えてくるだろう優れたものというのは何なんだろう。観てみたい。



 
 雛人形とか五月人形や鯉のぼりを見ると子供の頃を思い出す。私の家にはそういう子供何かを祝うという習慣がなかった。誕生日さえ何もしなかった。子供というのは不思議なもので、兄たちがしないのなら別にそのことが特別つらいとも、かなしいとも思わなかった。元々存在しなかったのだから感じ様がないというのが、本当のところか。

 それでも幼稚園や学校に行くようになって、他の家と比べると自分の家の行事はそういった行事が少ないのかなと思ったくらいだ。それがとても寂しかったという思いはない。ところでいつものように紙や布で鯉のぼりや雛人形を作るのが私の楽しみで、五人ばやしぐらいまでは作ったかな。ひな祭りが女の子の節句だと知ったのは随分後のことだ。あれはどこへやってしまったのだろう。

 閑話休題
 今日知り合いと話をしていて、「人は自分の身の丈でしか計れない」これが今の私物差しだ。まぁそれは傲慢にも自分はよく見えているんだという前提に話を進めているようなところがあって、上から目線で話をしているんだなぁ・・とふと気がついた。

 もしかしたら私は見えていないのかもしれない。いやこう思ったんだな。今私のレベルで見えているものがあるとする。そうならばそれ以上のものは見えていないわけだ。例えばそれ以上のものは今の私にはどのように見えているのだろ。

 今の私では理解できないもの、よさが分からなくて放棄したもの、見過ごしてきたものの中によりもっとすごいものがあるのかもしれない。分からんけどな。
 
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