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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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そろそろ春も近い
 今日は野暮用で一日出ていた。高速を使って車の運転。ほんの2,30分だけれど風景ががらりと変わる。
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出雲の阿国
出雲の阿国
 この絵は好きだな。古ぼけた時代がかった感じとか、へたくそな骨が感じられないような人物よか。いいと思うのは自分の絵にどことなく似ているからだろうか。

 流れ者というのはどことなく哀愁があっていい。フーテンの寅さんなどもテキヤさんだけれど、本当はヤクザとか渡世人と紙一重で世間の裏街道を歩いている輩なんだけれど、どこか憎めないところがある。

 これだけ情報が発達した現代じゃほとんど信じられないけれど、ほんのつい4,50年前のことを考えてみれば、多くの場合まだ地方独特の色んな迷信やいわれなどがいきていて、魑魅魍魎がそこかしこに潜んでいていたずらをしていた。

 同族か近い親戚ぐらいしか付き合いがなく、一生その地方から出ない人も多かったのじゃないかな。そんな時代にお祭りやハレの日に色んな珍しい文物や情報を運んでくれる流れ者は、近寄りがたいけれど、何かえもいわれない魅力のあった人たちではなかったかな。

 例えば山に棲むマタギとかサンガなど耕地を持たないで暮らす人「やまびと」や占い師や山師、芸人や説法師、的屋、薬剤師、香具師、傀儡子、寺を持たない坊主、流しの職人なども士農工商の枠から外れた人たちで、お上にとっては把握しにくい集団であった。

 つづく






はる 2807
 「おくりびと」に関係して、すこし考えてみたい。私のペンネームである「あそびべ」のルーツは古い日本の部民から来ているのだという話はどこかで書いた。で「遊部」といわれる人々はどんな仕事をしていたのかといえば、実は天皇の死に際して葬送の音楽を奏でて慰めたりそういった類の仕事を主にしていたらしい。

 まぁこれは白川さんの話からの推測に過ぎないのだけれど、「あそぶ」ということが本来「かみがかる」状態をさしていたということだから、歌舞音曲にあわせて舞い踊って「あちらの世界」と「こちらの世界」の橋渡し的なことをやっていたのではなかろうか。

 能の最初の翁の舞いというのも「あちらの世界」と「こちらの世界」の橋渡し的な意味があるというようなことを聞いた。要するに昔はこの世とあの世が並列して存在していて、行ったりきたりすることは特別なことではなかったのではないかと思う。

 しかし、一方で現実的な死を扱う仕事というのは忌み嫌われていて、一種不浄な仕事として差別されていた。「穢れ」とか「祓う」「清める」などの言葉が日本人の根深いところでまだいまだにいきていて、今回の「おくりびと」のワンシーンでも「穢わらしい!」という言葉が突然出てきたので耳に残った。

 皮肉なことなのだが、多くの芸能のルーツは猿楽能や白拍子の出雲の阿国にしても非定住民の流れ者が担っていて、それらがなければ多くの芸能は血の通ったものにはならなかっただろう。これはどこの国でも同じようで、ジプシーのフラメンコやロマ族の職人技なども似たようなところがある。非定住民は一種恐れられて嫌われてもいたけれど憧れの対象でもあった。

 どこか旅して流れ者のように暮らしたいという私のルーツはどうやらそんなところにあるのじゃないかな。



 
はる 2806
 昨日「おくりびと」を観たと書いたら、今日はアカデミー賞を取ったという報道でびっくり。だいたいいままで候補どまりで本ちゃんを取ったことがなかったから二度びっくり。日本のアカデミー賞じゃなく本場アメリカで取ったというのだから、まったくすごい。

 早々たるハリウッドの美男美女が集まる中で堂々の受賞だから鼻が高くなる。ただしスピーチのへたくそなのには赤面だな。日本人は堂々と日本語でしゃべればいいのじゃないか。下手な英語しゃべるよりずっとかっこいいと思うぞ。しゃべることは日本語でもおぼつかないのにまして外国語じゃ話にならんな。

 表現というのかこういった作家活動もそうだけれど、ちゃんと日本語でいいから趣旨などを人にメッセージとして伝えられる訓練が必要だと思うな。例えば新聞などの取材にしても勝手に記事にしてくれというのではなく、はっきりこういう形の記事にしてくれというのではかなり違うと思う。

 特に外国を相手に仕事をする場合、何が何でもそういったコメントというのが必要になってくるだろう。

 それにしてもアメリカ人にも、腹きり、富士やま的な浅薄な日本文化だけじゃなく、奥の深い他民族の文化を理解しようという気分が出てきたことはいいことだ。イマイチかの国のアメリカの一番が世界で一番じゃ的な発想が好きになれない。無論いいところも一杯あるのだけれどね。

 



 
はる 2805
 映画「おくりびと」を観た。涙腺が弱くなっている私などは隣の人に恥ずかしいほどポロポロと泣いてしまったが、今から考えとなぜそんなに泣けたのか分からない。

 いずれはそう遠くない未来にこの世からいなくなる。私が先か、あなたが先か、そんなものは神のみぞ知る。残された人のことを考えたりすると、ちょこっと感情が高ぶって泣けてきたのかな。

 納棺師という職業が実際に今もあるのかどうか、単に葬儀やの一部になってしまっているようにも思う。葬儀には年に何度か参加するけれど、自分の身内でもない限り納棺に立ち会うことはほとんど無い。

 納棺が故人と接する最後の儀式とするなら、告別式や初七日の法要などより大切な儀式かもしれないな。焼かれて骨になってしまえばきれいさっぱりあとくされもない。あっけらかんとしたものだ。「千の風」になって世の中を吹き荒れても何の感慨も無い。まぁ本当はそれでいいようにも思うなぁ。いつまでもうじうじされたんじゃたまったもんじゃない。

 黒澤明の「夢」の中で、葬式の話が出てくる。笠置衆が菅笠をかぶってこれから葬儀の行列に参加するために鈴を持って出かける。強烈なブラスの音楽が行進曲のようなものを奏でている。泣いている人など誰もいなくて「やっせやっせさっさっさ」と楽しげに踊っている。あんなのでいいのじゃないかな。



宵の明星・わかるかなぁ?
 真中少し上の梢の間から宵の明星がきらきらと輝いていた。けれど写メでは今ひとつきれいに撮れていない。残念だけれど自分で眺めてみてくれ。日没後すぐ西の空にさん然と輝く星が明星だよ。

 ちなみに東京天文台のHPより無断で情報を転載しておきます。参考にしてください。
 ほしぞら情報
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「1月の夕空でも見えていましたが、今月も宵の明星「金星」がとっても明るく輝いています。
あまりの輝きに星ではないのでは?と思われてしまう方も多いようですが、金星は地球と同じ惑星の仲間で、地球のすぐお隣にある惑星です。惑星は太陽の光を反射して光って見えている天体です。
金星は、日の入り30分後頃、2月上旬には西南西の方角、高度40度近くの位置にマイナス4.6等もの明るさで見えています。その後、しだいに高度が低くなっていきますので、今月中が見ごろです。
2月27日、2月28日には金星の近くにほっそりとした形の月が見え、美しい眺めとなりますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。

2月を通して、金星の光度はマイナス4.6等と大変明るいですが、特に20日には最大光度をむかえます。
地球の1つ内側の軌道を公転している金星は、地球-金星間の距離が大きく変化し、東方最大離角→内合→西方最大離角の位置に金星がある間は、地球との距離が近いため、とても明るく見えます。
来月28日は内合、そして5月2日にふたたび最大光度となります。最大光度となるのは内合の前後にあることがわかりますね。 」





 
はる 2803
 絵はだいたい一つ観ればその人のレベルというのか、水準が分かる。昔言われたことは大体同じだと思ったらその人はかなり上の水準にあり、少し上かなと思ったら完全に負けている。負けたと思ったら天上人だと教えてもらった。

 また上から見れば下のレベルはよく見えるけれど、下からは上は見えない。皆同列に見えてしまうらしい。まぁだから芸事はよく分からんということだけれど、フンフンなるほどというところもある。

 すごいと思っていた人の作品を見て、あぁ~と思うこともある。一度獲得した眼力というのは落ちないのかと思っていたのだけれど、少し安穏と暮らしてしまうと落ちるんだな。

 「あぁやっちゃった」ってね言われないように。
 




はる 2801
 何の根拠もない夢想のつづき。

 宇宙の果てはどうなっているのだろう?というのは小学生でも考えるロマンチックな空想ではある。昔の人は大きな天蓋があって星や太陽はそれに張り付いていると考えた。まぁ今でもそれはかなり説得力がある。で、その天蓋の向こうは天国があるのだろうか。

 大地は大きな亀に乗っているだとか象に乗っているだとか、昔の人は大いなる空想で考えた。どうやっても我々が今住んでいる大地が丸くなって、まっすぐに進んでゆくとやがてはもとあるところに戻ってくるなど考えもつかない。

 地球があまりにも人の感覚からすれば大きいので、次元的には我々は大地と言う平面に暮らしているようなものだ。分かりやすくいえば地面に投影された影みたいなものか。伸びたり縮んだりするけれど、周りの木や家も同じ比率で拡大縮小するのでわからない。

 世界の果てを探しに旅立った影君には地球の丸さが理解できない。どんなにまっすぐに立ってもほんの少しカーブしている。なぜなら大地そのものが少しずつ曲がっているからだ。宇宙船の時代になって地球という大地から離れてやっとそのことが理解できる。

 時間というのも同じようなものではないかと思っている。今日より昨日はほんの少し圧縮されていても我々にはわからない。時間そのものが圧縮されているからだ。遠い過去は限りなく0にちかづいてゆく。

 同じように未来もそうなっているのではないかと想像する。すべてが分かっている観察者・(おおいなるもの)にとっては過去も未来も同じように見渡せるのだろう。

 今という時空を中心にして過去の方へ次第に圧縮され、未来の方へも同じように圧縮されているとすれば、感覚的には大きな球体を真横から眺めているような感覚だろうか。目線のあたるところを中心に緯度も経度も同じ比率で圧縮されてゆく。

 過去・現在・未来というのはこんな構造になっているのではないかと空想する。

 もうひとつ付け加えると、地球上をまっすぐにどんどん進んでゆくとやがては元あった位置に戻ってくる。地球が丸いからだけれど、同じように考えてどんどん過去に戻ってゆくとやがて現在に戻ってくるのではないだろうかね。未来も同じだな。そして仏教の教義ではないけれど我々は何度も同じことを繰り返しているのではないかと思う。面白くないか!



ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
「糸杉のある風景」
はる 2800
 なかなかいいカウントになった。今年中には3000の大台にのる。楽しみでもあり、何となく寂しくもある。なぜならカウントはいつか止まる時が来る。5000なのか6000なのか、それは神のみぞ知る。

 永遠というのは無限と解釈される。ところが永遠であっても有限である場合もある。宇宙というのは無限の広さの代名詞のようなものだけれど、案外それはちっぽけな点に過ぎないかもしれない。

 少し理屈っぽくなるけれど書いてみます。興味がなければとばしてくださいな。

 例えばここに1mのひもがあったとする。それを半分にして残りの半分をさらに半分にして(もとの1/4)つなぎ合わせてゆく。さらにまたその半分(1/8)をつなぎ合わせる。そうやって次々とつなぎ合わせて行くと、理屈的には永久に増え続けるわけだから無限大に大きくなるはずだわな。ところが当たり前のことだが最初の1mを越えることはない。加えているにもかかわらずある一定値を超えないのは常識の感覚として不思議だ。

 1/2+1/4+1/8+1/16+・・・・=∞ではなく限りなく1に近づく

 無限とはこういった錯覚ではないかと思う。

 また、時間で言うなら例えば2時間の映画を早送りして1/2の1時間で観たとする。我々の時間では1時間であったとしても、映像のなかの人間はその短縮に気付かない。無論その中に人が住んでいたとしての話だけれどね。次元が一つ上がると元の次元の人間には気付かないということだ。

 それをもっと進めて1/10にするとか、1/100・・限りなく0に近づけて行くこともできる。理屈的には10年とか100年間を1時間に凝縮することも可能だ。もしそうだったとしても我々には察知することはできない。無限だと感じている時間は実はほんの短い有限の時間の可能性もある。

 実際に我々から一番遠い星は我々から光速に近いスピードで遠ざかっているように見えるそうだ。そこから「宇宙膨張説」が出てくるわけだけれど、それは三次元の我々から見た錯覚に過ぎない。

 光速で遠ざかっているということは光は外にはでないわけで、そのことは時間は止まっていることを意味する。宇宙の始まりにビッグバンから今現在までのすべてがそこに凝縮しているわけで、その一点に永遠が閉じ込められている。

 空想は難しいのだけれど、これだけは言える。時間は一定ではないということだ。止まった時間を我々がみれば「永遠」に見えるということだな。

 なぜこんな話に興味があるのか考えた。結局我々はこの一瞬にしか実際は生きてはいない、けれどこの一瞬に過去から未来のすべてが凝縮しているように思うんだな。

 私がここに存在することは過去のどこからか決まっていて、そのために色んな偶然やら出来事が必然的に起きてきたわけだ。そのどれひとつとして無駄なものはなく、絶妙に組み合わされた結果今私はここにいる。大げさに言えば積み木のワンピースだけれど、それが無かったらどこで不合理がおきてこの世界も消えてしまうのだ。

 私の体の中には、ビッグバンの宇宙の創生からの記憶がどこかに残っていて、この一瞬に「永遠があるのだぞ」ということを伝えてくれと言われている気がする。
 
「永遠の故郷」は文学的なにおいがするけれど、理論宇宙物理学とも不思議に交錯している。
 
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