画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2801
何の根拠もない夢想のつづき。
宇宙の果てはどうなっているのだろう?というのは小学生でも考えるロマンチックな空想ではある。昔の人は大きな天蓋があって星や太陽はそれに張り付いていると考えた。まぁ今でもそれはかなり説得力がある。で、その天蓋の向こうは天国があるのだろうか。
大地は大きな亀に乗っているだとか象に乗っているだとか、昔の人は大いなる空想で考えた。どうやっても我々が今住んでいる大地が丸くなって、まっすぐに進んでゆくとやがてはもとあるところに戻ってくるなど考えもつかない。
地球があまりにも人の感覚からすれば大きいので、次元的には我々は大地と言う平面に暮らしているようなものだ。分かりやすくいえば地面に投影された影みたいなものか。伸びたり縮んだりするけれど、周りの木や家も同じ比率で拡大縮小するのでわからない。
世界の果てを探しに旅立った影君には地球の丸さが理解できない。どんなにまっすぐに立ってもほんの少しカーブしている。なぜなら大地そのものが少しずつ曲がっているからだ。宇宙船の時代になって地球という大地から離れてやっとそのことが理解できる。
時間というのも同じようなものではないかと思っている。今日より昨日はほんの少し圧縮されていても我々にはわからない。時間そのものが圧縮されているからだ。遠い過去は限りなく0にちかづいてゆく。
同じように未来もそうなっているのではないかと想像する。すべてが分かっている観察者・(おおいなるもの)にとっては過去も未来も同じように見渡せるのだろう。
今という時空を中心にして過去の方へ次第に圧縮され、未来の方へも同じように圧縮されているとすれば、感覚的には大きな球体を真横から眺めているような感覚だろうか。目線のあたるところを中心に緯度も経度も同じ比率で圧縮されてゆく。
過去・現在・未来というのはこんな構造になっているのではないかと空想する。
もうひとつ付け加えると、地球上をまっすぐにどんどん進んでゆくとやがては元あった位置に戻ってくる。地球が丸いからだけれど、同じように考えてどんどん過去に戻ってゆくとやがて現在に戻ってくるのではないだろうかね。未来も同じだな。そして仏教の教義ではないけれど我々は何度も同じことを繰り返しているのではないかと思う。面白くないか!
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