画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2800
なかなかいいカウントになった。今年中には3000の大台にのる。楽しみでもあり、何となく寂しくもある。なぜならカウントはいつか止まる時が来る。5000なのか6000なのか、それは神のみぞ知る。
永遠というのは無限と解釈される。ところが永遠であっても有限である場合もある。宇宙というのは無限の広さの代名詞のようなものだけれど、案外それはちっぽけな点に過ぎないかもしれない。
少し理屈っぽくなるけれど書いてみます。興味がなければとばしてくださいな。
例えばここに1mのひもがあったとする。それを半分にして残りの半分をさらに半分にして(もとの1/4)つなぎ合わせてゆく。さらにまたその半分(1/8)をつなぎ合わせる。そうやって次々とつなぎ合わせて行くと、理屈的には永久に増え続けるわけだから無限大に大きくなるはずだわな。ところが当たり前のことだが最初の1mを越えることはない。加えているにもかかわらずある一定値を超えないのは常識の感覚として不思議だ。
1/2+1/4+1/8+1/16+・・・・=∞ではなく限りなく1に近づく
無限とはこういった錯覚ではないかと思う。
また、時間で言うなら例えば2時間の映画を早送りして1/2の1時間で観たとする。我々の時間では1時間であったとしても、映像のなかの人間はその短縮に気付かない。無論その中に人が住んでいたとしての話だけれどね。次元が一つ上がると元の次元の人間には気付かないということだ。
それをもっと進めて1/10にするとか、1/100・・限りなく0に近づけて行くこともできる。理屈的には10年とか100年間を1時間に凝縮することも可能だ。もしそうだったとしても我々には察知することはできない。無限だと感じている時間は実はほんの短い有限の時間の可能性もある。
実際に我々から一番遠い星は我々から光速に近いスピードで遠ざかっているように見えるそうだ。そこから「宇宙膨張説」が出てくるわけだけれど、それは三次元の我々から見た錯覚に過ぎない。
光速で遠ざかっているということは光は外にはでないわけで、そのことは時間は止まっていることを意味する。宇宙の始まりにビッグバンから今現在までのすべてがそこに凝縮しているわけで、その一点に永遠が閉じ込められている。
空想は難しいのだけれど、これだけは言える。時間は一定ではないということだ。止まった時間を我々がみれば「永遠」に見えるということだな。
なぜこんな話に興味があるのか考えた。結局我々はこの一瞬にしか実際は生きてはいない、けれどこの一瞬に過去から未来のすべてが凝縮しているように思うんだな。
私がここに存在することは過去のどこからか決まっていて、そのために色んな偶然やら出来事が必然的に起きてきたわけだ。そのどれひとつとして無駄なものはなく、絶妙に組み合わされた結果今私はここにいる。大げさに言えば積み木のワンピースだけれど、それが無かったらどこで不合理がおきてこの世界も消えてしまうのだ。
私の体の中には、ビッグバンの宇宙の創生からの記憶がどこかに残っていて、この一瞬に「永遠があるのだぞ」ということを伝えてくれと言われている気がする。
「永遠の故郷」は文学的なにおいがするけれど、理論宇宙物理学とも不思議に交錯している。
なかなかいいカウントになった。今年中には3000の大台にのる。楽しみでもあり、何となく寂しくもある。なぜならカウントはいつか止まる時が来る。5000なのか6000なのか、それは神のみぞ知る。
永遠というのは無限と解釈される。ところが永遠であっても有限である場合もある。宇宙というのは無限の広さの代名詞のようなものだけれど、案外それはちっぽけな点に過ぎないかもしれない。
少し理屈っぽくなるけれど書いてみます。興味がなければとばしてくださいな。
例えばここに1mのひもがあったとする。それを半分にして残りの半分をさらに半分にして(もとの1/4)つなぎ合わせてゆく。さらにまたその半分(1/8)をつなぎ合わせる。そうやって次々とつなぎ合わせて行くと、理屈的には永久に増え続けるわけだから無限大に大きくなるはずだわな。ところが当たり前のことだが最初の1mを越えることはない。加えているにもかかわらずある一定値を超えないのは常識の感覚として不思議だ。
1/2+1/4+1/8+1/16+・・・・=∞ではなく限りなく1に近づく
無限とはこういった錯覚ではないかと思う。
また、時間で言うなら例えば2時間の映画を早送りして1/2の1時間で観たとする。我々の時間では1時間であったとしても、映像のなかの人間はその短縮に気付かない。無論その中に人が住んでいたとしての話だけれどね。次元が一つ上がると元の次元の人間には気付かないということだ。
それをもっと進めて1/10にするとか、1/100・・限りなく0に近づけて行くこともできる。理屈的には10年とか100年間を1時間に凝縮することも可能だ。もしそうだったとしても我々には察知することはできない。無限だと感じている時間は実はほんの短い有限の時間の可能性もある。
実際に我々から一番遠い星は我々から光速に近いスピードで遠ざかっているように見えるそうだ。そこから「宇宙膨張説」が出てくるわけだけれど、それは三次元の我々から見た錯覚に過ぎない。
光速で遠ざかっているということは光は外にはでないわけで、そのことは時間は止まっていることを意味する。宇宙の始まりにビッグバンから今現在までのすべてがそこに凝縮しているわけで、その一点に永遠が閉じ込められている。
空想は難しいのだけれど、これだけは言える。時間は一定ではないということだ。止まった時間を我々がみれば「永遠」に見えるということだな。
なぜこんな話に興味があるのか考えた。結局我々はこの一瞬にしか実際は生きてはいない、けれどこの一瞬に過去から未来のすべてが凝縮しているように思うんだな。
私がここに存在することは過去のどこからか決まっていて、そのために色んな偶然やら出来事が必然的に起きてきたわけだ。そのどれひとつとして無駄なものはなく、絶妙に組み合わされた結果今私はここにいる。大げさに言えば積み木のワンピースだけれど、それが無かったらどこで不合理がおきてこの世界も消えてしまうのだ。
私の体の中には、ビッグバンの宇宙の創生からの記憶がどこかに残っていて、この一瞬に「永遠があるのだぞ」ということを伝えてくれと言われている気がする。
「永遠の故郷」は文学的なにおいがするけれど、理論宇宙物理学とも不思議に交錯している。
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