画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
→ http://enami.sakura.ne.jp
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今日は午前中に久しぶりに授業をした。新しい生徒と初お目見え。
今日もまた東京に泊まります。
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★【高野卯港展】
2010年4月15日(木)~30日(金) 1-6pm
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●堂守こと山口平明の写真ブログ
【天音堂ギャラリー堂守フォト】
http://amanedo.exblog.jp/
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=348493&log=20100425
略・・未来の暗示、今の夢、日々の行為等、すべ
て画面の中にある。欲望もそこにある。おの
ずから、しみ出るのはしかたないとして、画
面の中では、私は自由なボヘミアン。鳥にな
り、時には若い婦人にも、僧侶に、俳人にも
…・。酔っ払って花の下に狂気じみてたむろ
する。茶人で野点しているなら立派なもの。
隠者のごとく洞穴にもいる。近頃は世捨て人
のように山村で、ぼんやりと河音を聞く事も
多くなった。・・略
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作品の貸し出し展示が決まりました。こういったサロンは会員制のため広く一般の方が入れるスペースではないようです。私自身もまだ入ったことがないので、何もいえませんね。
はる 3219
「絵描きになりたい」の質問に答えて
・・略・・
絵を描いて生きて行く方法は色々あると思います。描くのが好きで好きで、絵さえ描いていれば幸せだというのであれば、イラストレーターとか、アニメーターとか、漫画家とか、それとも似顔絵を描く大道芸人とか・・。画家(芸術家)というのであれば少し違うかもしれませんが・・。芸術家という職業はありません。芸道は生き方です。
ただ普通にサラリーマンのように決まった収入があるわけではないので、生活は当然不安定になります。若いうちはそれでも何とか情熱でやってはいけますが、例えば彼女と結婚して子供が出来てという普通の生活を考えているなら、早々にあきらめた方がいいでしょう。絵を描くことは趣味に徹すればいいのです。けっして恥ではありません。多くの人がその道を選択します。彼女との幸せな生活を望むのであればそちらをすすめます。
メールを拝見したところ、絵描きという生活にあこがれているだけという気がします。そう、確かに私も憧れからすべてが、始まりました。「こうなりたい」と想わないことには始まりませんね。憧れることはわるいことではありません。
が、兎に角、描くこと、描いて描いて、描き尽くして、何者にもなれなくてもそれで死んでもいいやと思えたら、画家になったということだと思います。まず描く事です。そこから全てが始まります。
・・略・・
荘子の話
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm
から
-------------------------------------
およそ有用――役に立つということは大事なことに違いない。
だが、浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるか
どうか。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の
有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに過ぎず、無用とされ
るものの方に却って大用――真の用があるとも言えるようではないか、
と例の皮肉哲学者荘子は、無用の用を強調するのである。
************************
戦後でしょうか、アメリカ型の生活習慣が入ってきて、全てが能率主義、市場主義、便利が全て、つまり「有用の用」が全てに優先するようになった。まぁその結果が今の我々の生活を作ってきたわけだから、全てを否定することはできないのだけれどね。ただ、ちょっと待てよ、というのがここに来ての反省だと思うんだな。
無駄というのか、遊びというのか、無用というのか、今までに必要ないと思われていたものの中にこそ大事な事が隠れていたんだよと教えている。
これは今流行の「スローライフ」につながるような話だけれど、例えば物の売り方一つをとってみても、スーパーマーケットのようなものが普通になって、お客さんは勝手に商品を取ってレジで清算するという形が当たり前のようになってしまった。人件費などの効率を考えれば、このほうが当然いいわけで、何だか自由に買い物ができてスマートな感じがする。昔のような市場という雑踏は非常に非効率的で前近代的なかんじがするけれど、あの雑踏と喧騒のなかにこそ人間的というのか、人と人のコミュニケーションがあって、突き詰めるとそこにこそ「人間の幸せ」というのがありそうな気がする。
例えば、教育にしても主要教科と付属教科?があるけれど、実際に役に立たないと言われている付属教科にこそ生きることの『楽しみ」が含まれている。
時間がないので今日はここまで。今から東京です。今日は午前様でしょう。
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-323.htm
から
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無用の用
およそ有用――役に立つということは大事なことに違いない。
だが、浅はかな人間の知恵で推し量られる有用が、本当の有用であるか
どうか。もう一つ上の、“道”(タオ)の立場から見れば、凡俗の輩の
有用などは取るに足らぬこざかしさ、いや愚かさに過ぎず、無用とされ
るものの方に却って大用――真の用があるとも言えるようではないか、
と例の皮肉哲学者荘子は、無用の用を強調するのである。
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戦後でしょうか、アメリカ型の生活習慣が入ってきて、全てが能率主義、市場主義、便利が全て、つまり「有用の用」が全てに優先するようになった。まぁその結果が今の我々の生活を作ってきたわけだから、全てを否定することはできないのだけれどね。ただ、ちょっと待てよ、というのがここに来ての反省だと思うんだな。
無駄というのか、遊びというのか、無用というのか、今までに必要ないと思われていたものの中にこそ大事な事が隠れていたんだよと教えている。
これは今流行の「スローライフ」につながるような話だけれど、例えば物の売り方一つをとってみても、スーパーマーケットのようなものが普通になって、お客さんは勝手に商品を取ってレジで清算するという形が当たり前のようになってしまった。人件費などの効率を考えれば、このほうが当然いいわけで、何だか自由に買い物ができてスマートな感じがする。昔のような市場という雑踏は非常に非効率的で前近代的なかんじがするけれど、あの雑踏と喧騒のなかにこそ人間的というのか、人と人のコミュニケーションがあって、突き詰めるとそこにこそ「人間の幸せ」というのがありそうな気がする。
例えば、教育にしても主要教科と付属教科?があるけれど、実際に役に立たないと言われている付属教科にこそ生きることの『楽しみ」が含まれている。
時間がないので今日はここまで。今から東京です。今日は午前様でしょう。
ネットで見つけた面白い落書き。壁の剥落からイメージした顔。同じようなことを考えている人がいて嬉しい。
もう少し作品が見れます。ここをクリック。
はる 3039
般若心経3
デシャンを持ち出すまでも無く「価値の変換」というのが芸事の一つのあり方だとは思って来た。「価値の変換」というのをもっと簡単に言えば「意味つける」ということであり、「意識する」ということであり、もっと簡単に言えば「名前を付ける」ということのように思う。くだけているので微妙なニュアンスは違うかもしれない。
茶の湯の千利休がやったことも、骨董の青山二郎などが言っていたこともこういった部類になるかな。
けれどよくよく考えるとAのものをBと言い換えても、結局また新しいCのものが出てきて、Bの天下は一時の物に過ぎなくなってしまう。「価値の変換」などというものは小手先のことで本質的に新しいことではないのではないかな。
で今やられていることは「意味つける」ことを止めてしまう。反対にAもBもCも同じであるとする、すべて並列に等価値になれば、もともとあっても無くてもいいということになる。
無意味であること、意味つけることをやめること、びっくりさせてその場で終わってしまうこと、そんなことを一生懸命やっているように思えて仕方が無い。
ところで般若心経に戻って「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」
繰り返しになるけれど、人類は有史以来とにかく物事を細かく分けて「名前を付ける」ということをやってきたわけだ。科学とか学問とか哲学でも芸術でも同じで、物事を理解するということはそういうことだったんだな。
生命の設計図であるところの遺伝子なども細かく分けられてほぼその解明が終わったと言われている。それを可能にしたのはコンピュータで、もしPCがなければこんな繁雑な作業は出来なかっただろう。そしてネットがお互いのPCを繋げて新たな世界を構築した。
ところが面白いことにより細かく、小さく小さく分ければ分けるほど一つ一つは無意味になってゆく。AもBもCほとんど区別のつかないものになってゆく。そして無限大になれば宇宙的な混沌になるような気がするな。
もう少し作品が見れます。ここをクリック。
はる 3039
般若心経3
デシャンを持ち出すまでも無く「価値の変換」というのが芸事の一つのあり方だとは思って来た。「価値の変換」というのをもっと簡単に言えば「意味つける」ということであり、「意識する」ということであり、もっと簡単に言えば「名前を付ける」ということのように思う。くだけているので微妙なニュアンスは違うかもしれない。
茶の湯の千利休がやったことも、骨董の青山二郎などが言っていたこともこういった部類になるかな。
けれどよくよく考えるとAのものをBと言い換えても、結局また新しいCのものが出てきて、Bの天下は一時の物に過ぎなくなってしまう。「価値の変換」などというものは小手先のことで本質的に新しいことではないのではないかな。
で今やられていることは「意味つける」ことを止めてしまう。反対にAもBもCも同じであるとする、すべて並列に等価値になれば、もともとあっても無くてもいいということになる。
無意味であること、意味つけることをやめること、びっくりさせてその場で終わってしまうこと、そんなことを一生懸命やっているように思えて仕方が無い。
ところで般若心経に戻って「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」
繰り返しになるけれど、人類は有史以来とにかく物事を細かく分けて「名前を付ける」ということをやってきたわけだ。科学とか学問とか哲学でも芸術でも同じで、物事を理解するということはそういうことだったんだな。
生命の設計図であるところの遺伝子なども細かく分けられてほぼその解明が終わったと言われている。それを可能にしたのはコンピュータで、もしPCがなければこんな繁雑な作業は出来なかっただろう。そしてネットがお互いのPCを繋げて新たな世界を構築した。
ところが面白いことにより細かく、小さく小さく分ければ分けるほど一つ一つは無意味になってゆく。AもBもCほとんど区別のつかないものになってゆく。そして無限大になれば宇宙的な混沌になるような気がするな。
はる 2962
何度も書いたけれど、私は教育学部の美術科という教員養成の専門コースを受験したために、美大の受験のためのデッサンや研究所と言われる予備校には行っていない。
美大や音大というところは正規の学校の授業だけ受けて、また独学で勉強したとしてもほとんどというのか、絶対に現役では受からないようなシステムになっている。それなりの先生なり予備校にいって専門の指導を受けなければその門前にも立てない。
だから難しいのだと言っているのではなく、そこに入るためにはよく言えば一定の技術を持たねばならないと言うことだし、反対にどれもこれも同じような型にはまったスタイルになってしまうという弊害もあるな。
いわゆるそういった予備校は美大芸大出身者の就職先になっている場合が多く、要するに美大出の優秀な学生はその又優秀な?生徒を育てるという、養殖魚がそのまた養殖魚の稚魚を食っているような悪循環に陥っており、段々に血が濃くなっていることが中にいては分からないようだ。
で、まぁ教育学部の美術などというところは作家を養成する機関ではないわけで、そういった意味では非常にゆるい試験で入ることができる。で、幸か不幸か、そこそこアカデミズム的な描き方の面白さも理解できるし、反対に元々が素人なので、ど素人のアールブリュットなどの絵の楽しさも分かると言うわけだ。絵は結局のところ独学するしかないわけだから、ちょうどよかったのかもしれない。
人は大体自分の技量でもって他人を判断する。だからアカデミックな技術を持った人はなかなか素人の絵の面白さとかよさを認めたがらないところがある。技術というのはそういった一種有無を言わせない力があるのだけれど、間違えば大道芸の曲芸師みたいなもので、誰も真似は出来ないないけれど、ただそれだけのことだ。
だから素人が良いといっているのではない。素人芸も一つや二つなら鑑賞にたえるのだが、素人芸が売りになってしまって何度も繰り返しているうちに、最初の初々しい震えるような感動が形だけになっても、素人ゆえにそこから抜け出す方法が見つけられないでいる作家も多い。芸能人出身の作家など反対にかわいそうで見ていられない、まぁ本人が気付かないならそれでもいいのだけれどね。
何度も書いたけれど、私は教育学部の美術科という教員養成の専門コースを受験したために、美大の受験のためのデッサンや研究所と言われる予備校には行っていない。
美大や音大というところは正規の学校の授業だけ受けて、また独学で勉強したとしてもほとんどというのか、絶対に現役では受からないようなシステムになっている。それなりの先生なり予備校にいって専門の指導を受けなければその門前にも立てない。
だから難しいのだと言っているのではなく、そこに入るためにはよく言えば一定の技術を持たねばならないと言うことだし、反対にどれもこれも同じような型にはまったスタイルになってしまうという弊害もあるな。
いわゆるそういった予備校は美大芸大出身者の就職先になっている場合が多く、要するに美大出の優秀な学生はその又優秀な?生徒を育てるという、養殖魚がそのまた養殖魚の稚魚を食っているような悪循環に陥っており、段々に血が濃くなっていることが中にいては分からないようだ。
で、まぁ教育学部の美術などというところは作家を養成する機関ではないわけで、そういった意味では非常にゆるい試験で入ることができる。で、幸か不幸か、そこそこアカデミズム的な描き方の面白さも理解できるし、反対に元々が素人なので、ど素人のアールブリュットなどの絵の楽しさも分かると言うわけだ。絵は結局のところ独学するしかないわけだから、ちょうどよかったのかもしれない。
人は大体自分の技量でもって他人を判断する。だからアカデミックな技術を持った人はなかなか素人の絵の面白さとかよさを認めたがらないところがある。技術というのはそういった一種有無を言わせない力があるのだけれど、間違えば大道芸の曲芸師みたいなもので、誰も真似は出来ないないけれど、ただそれだけのことだ。
だから素人が良いといっているのではない。素人芸も一つや二つなら鑑賞にたえるのだが、素人芸が売りになってしまって何度も繰り返しているうちに、最初の初々しい震えるような感動が形だけになっても、素人ゆえにそこから抜け出す方法が見つけられないでいる作家も多い。芸能人出身の作家など反対にかわいそうで見ていられない、まぁ本人が気付かないならそれでもいいのだけれどね。
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