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フランス人はどうなのか良くは知らないのだけれど、日本人はクートラスとのような何と言うのだろう、漂泊の詩人、文人、行者、詩人みたいのものが好きだ。いや私だけではないと思うよ。例えば最近亡くなった松田正平にしても熊谷守一にしても上のクートラスとどっこいどっこいだものな。
上のクートラスのアトリエを見ると、ハウルの寝室を思い出す。随分昔にそのことについて書いてあったので転載しておきます。
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はる 1259
「ハウルの動く城」のなかで、ハウルは魔法使いの弟子なんだけれど、よくあるパターンで空を飛んだり歩いたり、時空を自由に行ったり来たりできる。まぁそのことはこっちに置いておいて。
ハウルの寝室が出てくる。そこはありとあらゆる物が所狭しとコレクションされていて、一種グロテスクな形を変えたロココ趣味のような様子で表現されている。ハウルというのがもともと鳥?なのか、はっきりは分からないのだけれど、どうやらその部屋は色々なものを収集する癖のある鳥の巣のようにみえた。傷ついたハウルはいつもその部屋に帰ってきて一時の安らぎを得るのだ。
夏になると橋の下にたいていホームレスが住み着く。毎年同じような棲家を作るので同一人物かと思っているのだけれど、何か微妙に違う。動物に帰巣本能というのがあるとするなら、その前に巣を作る本能があるように思う。調べてみたことはないのだけれど、何やら、なんでもかんでも集めるというのが、我々動物の本能なのかなと思う。集めたガラクタの中にうずもれてることで、一時の安らぎを得られるもののようだ。
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「注意しましょう」
以前の携帯はmovaでメールやシャメの送信は時間で計算されていたようです。無論カメラの画素数がものすごく荒いものだったということもあるのだろうけれど、ほとんど料金を気にすることもなくシャメを便利に使っていた。
ところが新しいFOMAになって、時間の単位で計るのではなく、パケットという情報量で料金が決まるということも知らなかった。本当は更新の時に店員さんはそういうことを注意事項として言っていたのかもしれないが、こちらはほとんどそういうことは素人で知らないわけだ。パケットが何々・・といわれても外国語にしか聞こえない。まぁそんなこともあって料金の制限に無理やり入れてくれたのかもしれないが、これに入っていなければべらぼうな料金を請求されることになる。
ちょっと知り合いに聞いてみると、やはりそういったことで高額の請求をされたという人が何人もいたそうだ。とくに若い人が「着歌」とか何とかを無料だと思ってダウンロードすると、一曲で1000円とか2000円とか掛かるらしい。
まぁ知らないのはこちらにも責任があるのかもしれないが、私のようにそういったことも気にしないような人が簡単に孫の写真などをやり取りしたとしたら、一枚の写真でも500円ぐらい簡単に掛かってしまう。これってはっきり言って詐欺みたいなものじゃないか。もっと注意を呼びかけなければ、仕方ないで泣き寝入りしている人が多いのじゃないかな。大企業でありながらそういった詐欺的な行為で儲けるのはズルイという気がするなぁ。
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覚書
128バイト=1パケット=0.21円(通常)
半角1文字≒1バイト
全角1文字≒2バイト
絵文字1文字≒1000~3000バイト=1.5~5円
着歌おおよそ500Kバイト≒3900パケット≒780円
フルサイズ着歌≒5Mバイト≒8200円
フルサイズのシャメ≒350Kバイト=2900パケット≒580円
こうやって書いてみると大きなサイズのシャメを一枚送っただけで500円も掛かる。おいこら!馬鹿にするのもええ加減にしろといいたい。料金制限(4200円)のパケホーダイ(無制限使い放題)に入っていなければ天井知らずだ。これは恐ろしい話だぞ。
ターミナルケア(一輪の花)部分
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ターミナルケア(Terminal Care)とは、末期がんなどに罹患した患者に対する看護のこと。また、とくに重篤な病状や疾患がなくとも、老衰により死期に面した高齢者の処遇を巡って、在宅もしくは病院または介護施設のいずれであれ、そのあり方について議論のなされる概念である。終末(期)医療、終末(期)ケアともいう。ターミナル(Terminal)は終末という意味である。
主に延命を目的とするものではなく、身体的苦痛や精神的苦痛を軽減することによって、人生の質、クオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life、QOL)を向上することに主眼が置かれ、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。
ターミナルケアを専門に行う施設はホスピス(Hospice)とも呼ばれる。Hospice の原義は、聖地への巡礼者や旅行者を、小さな礼拝堂を持つような教会が泊めた巡礼教会hospice の意味が転用されたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%82%80%E5%84%A1%E5%AD%90 ***********************************
面白い作家ですね。へたくそなような上手いような不思議な画風です。ロベール・クートラス、ネットで検索して情報を載せます。
勝手引用
http://www41.tok2.com/home/indy/fc/hitorigoto/2004/2/17.html
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・・・・・これは、経済的に余裕がなかったがゆえの知恵で選ばれた支持体で、画材用の厚紙ではなく、それこそ有り合わせの厚紙で、ティッシュペーパーの箱や「なんでも屋が配った客寄せカード」なども使ったようです。
そうした厚紙に壁面用の塗料を地塗りし、その上に油絵具で描いていくことになります。
彼は自分の作品を「わが闇(Mesnuits)」といい、中世以来おなじみの骸骨やマリオネット、道化師、植物、動物、昆虫、文字、あるいは、ちょっとばかりエロティックな図柄をモチーフにして、それらを無限に表現していきます。
雑誌で紹介されている幾枚かを見渡してみても、描かれたものは多用で、顔の付いたお日様のようなものが縦に三つ並んでいるかと思えば、幕の間から覗くウサギの絵があり、また、裸の女性がお尻をこっちに向けているものもあります。かと思えば、色面だけで構成されたものもあります。いずれもが単純な線や色面で描かれています。
このクートラスという画家は、1930年、パリのモンパルナスに生まれたそうですから、いわゆる生粋のパリジャン(Parisien フランス語:パリ生まれの男性。パリ市民。パリっ子=広辞苑)ですが、両親の仕事の関係からか、10代の半ばでフランス中央部へ移り住むことになります。
彼は早くから芸術を志し、朝の5時から昼の1時までは工場で働きながら、その後、午後はその土地で制作を続けていた彫刻家の下で木彫を学び、夜は夜で地元の美術学校へも通う、というハードなスケジュールの中で仕事と勉強を両立させていたようです。
その後、1953年、23歳になったクートラスはリヨン(Lyon:フランス南東部、ローヌ・ソーヌ両川合流点にある都市。ローマ時代に起こる。大聖堂・大司教館・大学などがある。繊維・機械などの工業が発達。人口41万5千〔1990年時点〕=広辞苑)の美術学校へ入学しています。
美術学校で専門的な知識と技術を習得した彼は、「最後の印象派」と呼ばれる画風を掲げて画廊で個展を開いたり、1958年には上京したパリで賞を得て大手画廊と契約を結ぶなど、画家としてまずまず順調に歩み出します。
しかし、望んでもなかなか結べない画廊との契約を数年で解消してしまいます。その理由は本人にしかわかりませんが、想像するに、いわゆる“売り絵”を制作しなければならない現実と、真に自分が描きたい作品との間には決定的なズレがあり、それが短期間の内に、自分の中で修復不可能なほど大きなものになってしまったのではないか、と勝手に想像してみました。
加えて、彼が本来持つ、孤独な性格が大きく影響していそうです。
コラムの3ページ目には、仕事場に座る彼の姿を撮しとめた写真があります。そこに写る彼の表情は、決して愉快そうには見えません。
その制作環境が何とも風変わりです。何と、ベッドの上の狭い空間が彼にとってのアトリエであったといいます。
彼は、パリのアパートの一室に暮らし、そこで寝起きし、ベッドの上で小さな小さな作品を6000枚も描き続けたのです。
そうやって制作された作品は、長い年月を経たかのように、所々に虫食いのような跡や自然に
昨日書いた熊谷守一にしろ今日のクートラスにしろ、世間一般の常識からいえば、理に合わない生き方をしたといえます。彼らには、それ相応の腕前があり、それを器用に活かせば人並み以上の生活ができたはずです。であるのに、敢えてそうした道を自ら断っています。
その“代償”として、豊かな生活は送れず、極貧の中で生き続けなければならなくなります。しかし、それは彼らにとっては代償なのではなく、それこそが信ずるに足る道だったのでしょう。
画家にとって代償があるとしたら、それは、むしろ豊かで何不自由ない生活の方にこそあるといえましょう。
人間というものは情けないもので、何不自由ない生活の中からは、真に意味のある作品は生み出せないのです。そして、苦しみこそが画家に名作を生み出させるのだとしたら、画家というのはまことに
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http://blog.livedoor.jp/tokinowasuremono/archives/52427401.html
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・・・私自身は、美術業界に入ったときから、確信犯的に「画家を育てるなんておこがましい。凄い画家はほっといても自分から出てくる」と広言して、周囲の若い人から顰蹙をかっていました。私がそう言っていたのは、ヨーロッパならいざ知らず今の日本で、画商が画家を育てるなんて実態を無視した絵空事(でなければ建前)と思っていたからです。
今から思うと若気の至りですが、数多く存在する画廊の多くが、育てるどころか、「客からではなく、画家から金を集金する」貸画廊であり、画家にしても何年も先まで予約が入っている有名貸画廊(当時はそういうのがありました)を大枚払って借りて個展をすることがステップ・アップになると勘違いしているような状況はおかしくはないか・・・・・と義憤を感じていたのですね。
もちろん、「貸し」ではなく、「企画画廊」としてやっている画商さんも多数います。でもその多くは(私も含めて)画家のつくった作品を商売として売り買いしているのであって、決して「芸術家を育てる仕事」をしているのではありません。
ある作家の才能を見抜き、その価値を信じることにおいては、身銭を切って買うコレクターに、所詮私たち画商がかなうはずがないと思っています。私たちの仕事は顧客あっての商売で、もし画家を育てる人がいるとすればそれはコレクターであり、画商ではない。そういう素晴らしいコレクターに出会い、せめて共犯関係(主犯はコレクターです)になることが画商としての私の切なる願望です。
因みに日本の近現代美術史を飾る画家たちの自伝などを読んでみると(少なくとも私が読んだ限り)、梅原龍三郎でも、安井曽太郎でも、棟方志功でも、恩地孝四郎でも、大沢昌助でも、瑛九でも、オノサト・トシノブでも、菅井汲でも、駒井哲郎でも、「画商に育ててもらった」などと書いている画家は一人もいませんでした。むしろ池田満寿夫さんなどは恨みつらみの方が多い。・・・・・
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覚えている方もいるかと思うのですがタイトルは「ありがとう」かな、年配の道化がやがて若い道化にバトンを譲る。そんな物語を頭の中で作ったのですが、どうも見ているとつまらなく思えてきた。だからどこにも発表していないように思う。
どこをどうやって上の絵が出て来たのか、そのこともそうですが、要するに私は何を描きたかったのか?ということです。人は老いてやがては一線を退いて行く。それはいつかですが、確実にくるわけですね。下の若者にバトンを譲るというシーンよりも、かわいい少女とダンスを踊るといったイメージの方が「老いて退いてゆく」という悲しさ、哀愁が直に伝わるとおもうのですね。それも要するに私の残された時間の意識がさせたものでしょう。
こうやって内実を暴露してしまうと興味が色あせてしまいますか?それとももっと興味が湧きましたか?どうかっても、それが私の描き方ですから仕方ないですね。
2006年の作品集
2007年の作品集
2008年の作品集
2009年の作品集
すべてトップ画像で一度晒したものです。クリックすると少し大きく見ることが出来ます。
HPというものは一度作ってしまうとなかなか更新されないようだ。特に私のように個人で管理運営しているHPは最初の熱意はどこかに行ってしまって、一年中変わらない画面が晒されている。まったくもって怠慢そのものだが、こういったギャラリーの趣旨から考えてもそんなに頻繁に更新できるものではない。まぁその代わりにブログのほうは毎日更新しているわけだから許されたい。
先日自宅のコタツの電子部品であるコントローラが壊れてしまった。本体は全くなんともないので、何とかこの部分だけ交換できないかと買った家電量販店に出かけた。しかし、今は夏の商品がシーズンであって、コタツのような季節商品は何処を探してもない。当たり前の話だが、まぁ仕方ないので来年まで待つことにして、自宅に着いて、ふと,この会社のHPがあれば直接交換してもらえるのではないかと思いついた。
日本の企業だったのでHPは簡単に見つけることができた。でこの部品だけ購入することが出来るかどうか、まずメールしてみた。実物の写真も添付した。で、意外にすばやい返事で色んな対応をしてくれた。
という具合に今はやはりHPを持っているほうが色々便利である。とりあえず窓口はこの量販店がなってくれた。でも多分もう修理や交換はここでは扱えないだろう。なぜなら窓口の店員さんは親切ではあったけれど、専門家ではない。いろんなことは直接企業に聞いた方が分かりやすいだろう。
まぁこれは一例に過ぎないけれど、たぶんこういったふうにネットを使った対応みたいなものがこれからは一つのやり方になってゆくだろうな。