画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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山口画廊・画廊通信66
許可を取って転載
*****************************
画廊通信 Vol.66 答えざるものへ
欧州はいずこの国ぞ、長い放浪に疲れ果て、名も知ら
ぬ寒村にたどり着いた旅人がある。いつの間に中世へと
遡行したかの様に、質素な石造りの家がひっそりと連な
る街道を抜けて、彼は村はずれに最早訪ねる者もない、
崩れかけた古い会堂を見つけた。
何者かにいざなわれるが如く、朽ちた扉の中へと足を
踏み入れた彼は、荒れ果てた堂内に屹立する風化した石
壁に、剥落してなおわずかに彩色の滲む、絵画とおぼし
き微かな筆あとを認める。おりしも黄昏が荒野に最後の
輝きを放ち、うがたれた小窓より薄暗い宙空に、突如一
閃の残光が射し込んだ刹那、茫洋と壁に浮かび上がるい
にしえの聖像。旅人は声もなくその面前にひざまずき、
暮れなずむ慈光の中で微動だにしない。
数日の後、通りがかりに会堂を覗いた村人は、暗がり
の石壁に浮かぶ、見知らぬ旅人の姿を見つける。ひざま
ずいて祈りを捧げる彼は、あたかもつい昨日描かれたか
の様に、鮮やかな光彩を静かに湛えていた。……失礼、
冒頭からのつまらない作り話、平にご容赦を願いたいの
だが、今回初めての個展となる榎並さんの作品を見てい
たら、そんな物語が彷彿と浮かんで来てしまった。
「芸術は時代を映す鏡」とはよく言われる台詞で、確か
に榎並さんの描き出す作品にも「現代」という時代が投
影されている事に違いはないが、しかしながらその鏡に
映された世界には、風化した岩壁の様な趣を醸すマチエ
ールと相まって、何かしら遥かないにしえの香りが漂う。
修道士・旅芸人・楽士・放浪者といった、どことなく
中世のイコンを思わせる様な作中の人物達は、喧噪を極
める目まぐるしい現代の世相に背を向けて、どこか遠く
の名も知らぬ国へと、その想いを馳せるかの様に見える。
きっとその地とは、もの静かな時間がゆったりと流れる、
私達の在るべきもう一つの国なのかも知れない。
きっと如何なる時代であれ、その変動する表層の下に
は、時代を超えた不変の深層がある。榎並さんの絵に見
入る時、人はいつしかそんな内なる旅路への扉を、我知
らずそっと開いているのだろう。
私は、未だ携帯電話を「電話」という機能だけで使っ
ている様な、到ってアナログ的な人間なのだが、榎並さ
んとの出会いは極めてデジタル的であった。昨年の初春、
何気なくインターネットを覗いた際に、私のホームペー
ジに対して、好意的なコメントを寄せられているブログ
を見つけたのが、そもそもの機縁である。
アナログ的とは言え、私も世の趨勢には逆らえず、実
は簡単なホームページをこそこそと出していて、この時
に掲載していたエッセイは、絵の売買を傍観する団体作
家のスタンスを、私なりに批判した内容であったが、そ
れに対してこのブログは「絵を売るという事について、
言いにくい事をはっきり言っている」と、明確に賛同の
意を表してくれていた。
おかげで幼少よりあまり誉められた事のない私は、す
っかり嬉しくなってしまい、一体どんな奇特な方が私な
んぞに共感してくれたのかと、早速ブログの主を見てみ
たところ、なんとその方は画家なのである。ご自身で本
格的なホームページを作られていて、どんな絵を描かれ
ているのかと興味津々、掲載されていた作品を拝見させ
て頂いたら、これがなんとも心惹かれる絵ではないか。
ウェブ上の画像ではある程度までしか分からないにせよ、
そこには紛れもなくあの「本物」の気韻がある、これは
天が与え給う巡り合わせに違いない、私はそう思った。
それから一ヶ月近くを経て、私は「榎並和春」という
未知の画家へ、こわごわメールを送らせて頂いた。
「私の勝手な文章をブログに取り上げて頂き、ありがと
うございます。あらためて自分の文章を読み返してみ
ると、なんとも生意気でいけ好かない感じですね。
実は私、失礼ながら榎並さんの事を、万年勉強不足の
ゆえ今まで知りませんでした。早速ホームページで作
品を見せて頂き、ある種宗教的ともいえる様な深みの
ある作風に、心惹かれました。もし差し支えなければ
画集や個展の資料等、お送り頂けないでしょうか」
翌日パソコンを開けると、画家より返信が届いていた。
「ご丁寧なメール、ありがとうございます。
どこでどうやって山口画廊さんとつながったのか、ま
るで覚えてないのですが、確か気になる作家の企画を
やられている画廊だと認識していました。今回の『わ
たなべゆう』さんも好きな作家です。資料、できるだ
け揃えてお送りしますから、ちょっと時間下さい。
私のHPは、ほぼ私の等身大だと思います。本人が運
営しているHPですから、確かな事でしょう。この程
度の人間で、その程度の事しかやれていません。もし
それでよければ、お付き合い下さい。榎並」
きっかり一週間後、幾冊もの写真ファイルと作品見本
の入ったダンボール箱が、ありがたくも画廊へ届いたの
だが、実はその時、私は連日の腹痛で立つ事もままなら
なくなっていた。翌日、私は緊急入院のハメになり、し
ばらくは仕事の出来ない成り行きとなった、せっかく送
って頂いた沢山の資料を、画廊へ置き去りにしたまま。
「お元気になられたようで良かったですね。私の資料が
着いて即入院だったので、何かしら見てはいけない物
を見たせいかもしれないと、密かに危惧しておりまし
た。でもまあ良くなったようで、ちょっと安心しまし
た。少しゆっくりしろという暗示ではないでしょうか。
またその内にお会いできる事を、楽しみにしています。
ではまた、その時にでも。榎並」
それから一ヶ月半ほど後、私はこんな心温まるお便り
をいただいた。借りっ放しだった資料を、退院してやっ
と返却させて頂いた折の、画家からのメールである。
ちなみにお預かりした資料は、妻が画廊から病室まで
「重いのよねえ」とブーブー言いながら運んで来てくれ
て、おかげで私はベッドの上でお茶などすすりながら、
その独自の世界を心行くまで堪能する事が出来た。暗い
入院生活の中に、静かな希望が灯るのを感じながら。
メールを頂いてから一週間程を経た午後、私は甲府の
榎並宅へ伺わせて頂いた。晩春の陽光を川面に浮かべた
穏やかな流れを渡り、川沿いの道を折れて路地を奥まっ
た所に、目指す画家のアトリエはあった。一見して簡素
なたたずまい、しかし時代の艶を湛えるかの様な古い家
具が、諸処にさりげなく置かれていて、住む人の質の高
い生活スタイルがうかがわれる。
初めてお会いする画家は、隠遁せる一徹の哲学者とい
った風情、ご挨拶を申し上げてしばし歓談の後、制作途
中の大作が立て掛けられたアトリエに案内して頂く。
榎並さんの制作過程は独特である。麻布や綿布を水張
りしたパネルに、ジェッソや壁土・トノコ等を塗り重ね
て下地を作り、布等のコラージュを自在に交えながら、
墨・弁柄・黄土・金泥・胡粉等々、様々な画材を用いて
幾層にも地塗りを重ねる内に、その画面は風化した岩壁
の様な独特のマチエールを帯びる。一口に言えば、「ア
クリルエマルジョンを用いたミクストメディア」とでも
呼ぶべきか、しかし画家の制作姿勢そのものが「○○技
法」という分類を、そもそも根本的に拒んでいる。たぶ
ん榎並さんにとって「技法」とは、絵を完成させるため
の手段ではなく、何かに到るための道程に他ならない。
幾重にも絵具を塗り、滲ませ、かけ流し、たらし込み、
消しつぶし、また塗り込むという飽くなき作業の中で、
画家は来たるべき「何か」を探し、その何かが見えて来
る「時」を待つ。きっとそれが榎並さんの考える、「描
く」という行為なのだ。
やがて「時」が来る。いつの間に天啓の如く「何か」
が画面へと降り立つ。ある時は修道士の姿を取り、ある
時は笛を吹く楽士となり、おそらくは作者自身も意識し
ないままに、それは茫洋と画面にその全容を現わす。
画家自らに入れて頂いた、香り立つアールグレイをい
ただきながら、私は「表現」という言葉の持つ両義性を、
あらためて思い返していた。「表わす」事と「現れる」
事、つまりは「自己の」作用と「自己以外の」作用、そ
の両者が分かち難く一体となった所に、初めて真の「表
現」が成立するのではないだろうか。あらためてその制
作を省みた時、「自我の表出」という様な狭い範疇を超
えた、「表現」という言葉の広範な在り方を、榎並さん
はなんと明瞭に体現している事だろう。
アトリエに立てられていた制作中の大作も、厚く幾重
にも塗られた地塗りの中から、まさに今何かが浮かび上
がらんとしていた。私にはそれが、何者かを真摯に希求
してやまない、画家自身の姿にも思えた。
あれから早くも一年以上が経過して、その間榎並さん
とは昨年末に銀座の個展を訪ねた時以来、久しくお会い
出来ないでいるが、いよいよ当店の個展も目前となった。
巷は「阿修羅展」の余熱冷めやらぬ間に、今月からは
「ゴーギャン展」が幕を開け、最高傑作の誉れ高いボス
トン美術館所蔵の名作が、本邦で初めて公開される事も
あり、やはり相当の混雑が予想される。南海の孤島にお
ける貧困と病苦の中で、死を賭して描いたとされるその
畢生の大作に、ご存じの如くゴーギャンはこう命名した。
「我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこ
へ行くのか」──思うに、不遇の大家が残したこの永遠
の問いかけは、現代の美術界に生きているだろうか。
村上隆や奈良美智の活躍によって、近年の美術市場は
現代アート一色に塗り替えられた感があり、折からの中
国や韓国の美術投機ブームと相まって、実力も定かでは
ない若手の作家達が、一時は異常な脚光を浴びる状況と
なった。隣国の投機熱が低下すると共に、さすがに年端
も行かない学生作家の青田買い等は影を潜めつつあるが、
未だ市場では若手を優先する傾向が強い。
むろん「若手作家」と一括りに論ずる事は、短絡に過
ぎるのかも知れないが、しかしそこにはやはり、ある共
通した傾向が散見される。まずは「発想の新奇」や「表
現の特異性」を狙う姿勢、それは元より若者の特質とも
言えようが、いつの間に現代は「アート」という軽い言
葉の下に、芸術表現の意味を履き違えてはいまいか。
例えばジャコメッティという彫刻家がいて、周知の如
くかつてない斬新な形象を創り出したが、しかし彼は決
して新奇や特異性を求めて、あの独自のスタイルに到っ
た訳ではないだろう。一見どれも同じ様な鶏ガラの如き
人物像を、創っては壊し創っては壊し、呆れるほど執拗
に追い求めた真意は何だったのか、たぶん彼の心にあっ
たものは、たった一つの問いだけではなかったろうか。
「我々は何者か」、おそらくはそれだけを、創るという
行為を通して彼は知りたかったのだと思う。まずは「問
い」があった、やむにやまれぬ心底からの希求があった。
優れた芸術表現の源泉には、常にその様な否応のない
衝動がある、それがあってこそ「斬新な発想」も「特異
な表現」も、豁然と生まれ得るのではないだろうか。
「私は何なのか?という問いかけは、複雑に絡み合った
糸を解きほぐすようなものだ。どんどんと下に降りて行
って、もうこれ以上行けないという所から眺めてみると
分かることもある。絵を描くとはそのための道具だ」、
今こうして榎並さんの言葉を省みた時、幾重にも絵具を
塗り重ねるその制作の意義も、ここにある事が分かる。
「こたえてください」「おおいなるもの」「いのりのか
たち」──これらの美しい言葉は、榎並さんが自らの作
品に冠したタイトルだが、これだけでも作者の想いは伝
わるだろう。それはあの始原の問いを、静かに深く希求
する人の、思索の果てに涌き上がる言葉だから。
思えばゴーギャンもジャコメッティも、「答え」を残
してはいない。彼らは「問い」だけを残した。だから後
世の私達は、その絵を見る度に問いかけられる、「我々
はどこから来たのか」と。答えられない私達は、何者か
を仰いで呼びかける──こたえてください──、それで
もその問いの先には、底知れぬ沈黙があるだけだ。
答えざる者への呼びかけは、いつしか祈りとなるだろ
う。元来「祈り」とは、大いなる者への呼びかけであっ
たのか。気がつけば私達は榎並さんの絵に、深い祈りの
響きを聞いている。そしてその作品に見入る時、人は画
家の内なる異郷で、遥かな巡礼へと旅立つのだ。旅人は
やはり問うだろう、「我々はどこへ行くのか」と。やが
てあのいにしえのイコン達は、沈黙の答えを語り始める。(終)
許可を取って転載
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画廊通信 Vol.66 答えざるものへ
欧州はいずこの国ぞ、長い放浪に疲れ果て、名も知ら
ぬ寒村にたどり着いた旅人がある。いつの間に中世へと
遡行したかの様に、質素な石造りの家がひっそりと連な
る街道を抜けて、彼は村はずれに最早訪ねる者もない、
崩れかけた古い会堂を見つけた。
何者かにいざなわれるが如く、朽ちた扉の中へと足を
踏み入れた彼は、荒れ果てた堂内に屹立する風化した石
壁に、剥落してなおわずかに彩色の滲む、絵画とおぼし
き微かな筆あとを認める。おりしも黄昏が荒野に最後の
輝きを放ち、うがたれた小窓より薄暗い宙空に、突如一
閃の残光が射し込んだ刹那、茫洋と壁に浮かび上がるい
にしえの聖像。旅人は声もなくその面前にひざまずき、
暮れなずむ慈光の中で微動だにしない。
数日の後、通りがかりに会堂を覗いた村人は、暗がり
の石壁に浮かぶ、見知らぬ旅人の姿を見つける。ひざま
ずいて祈りを捧げる彼は、あたかもつい昨日描かれたか
の様に、鮮やかな光彩を静かに湛えていた。……失礼、
冒頭からのつまらない作り話、平にご容赦を願いたいの
だが、今回初めての個展となる榎並さんの作品を見てい
たら、そんな物語が彷彿と浮かんで来てしまった。
「芸術は時代を映す鏡」とはよく言われる台詞で、確か
に榎並さんの描き出す作品にも「現代」という時代が投
影されている事に違いはないが、しかしながらその鏡に
映された世界には、風化した岩壁の様な趣を醸すマチエ
ールと相まって、何かしら遥かないにしえの香りが漂う。
修道士・旅芸人・楽士・放浪者といった、どことなく
中世のイコンを思わせる様な作中の人物達は、喧噪を極
める目まぐるしい現代の世相に背を向けて、どこか遠く
の名も知らぬ国へと、その想いを馳せるかの様に見える。
きっとその地とは、もの静かな時間がゆったりと流れる、
私達の在るべきもう一つの国なのかも知れない。
きっと如何なる時代であれ、その変動する表層の下に
は、時代を超えた不変の深層がある。榎並さんの絵に見
入る時、人はいつしかそんな内なる旅路への扉を、我知
らずそっと開いているのだろう。
私は、未だ携帯電話を「電話」という機能だけで使っ
ている様な、到ってアナログ的な人間なのだが、榎並さ
んとの出会いは極めてデジタル的であった。昨年の初春、
何気なくインターネットを覗いた際に、私のホームペー
ジに対して、好意的なコメントを寄せられているブログ
を見つけたのが、そもそもの機縁である。
アナログ的とは言え、私も世の趨勢には逆らえず、実
は簡単なホームページをこそこそと出していて、この時
に掲載していたエッセイは、絵の売買を傍観する団体作
家のスタンスを、私なりに批判した内容であったが、そ
れに対してこのブログは「絵を売るという事について、
言いにくい事をはっきり言っている」と、明確に賛同の
意を表してくれていた。
おかげで幼少よりあまり誉められた事のない私は、す
っかり嬉しくなってしまい、一体どんな奇特な方が私な
んぞに共感してくれたのかと、早速ブログの主を見てみ
たところ、なんとその方は画家なのである。ご自身で本
格的なホームページを作られていて、どんな絵を描かれ
ているのかと興味津々、掲載されていた作品を拝見させ
て頂いたら、これがなんとも心惹かれる絵ではないか。
ウェブ上の画像ではある程度までしか分からないにせよ、
そこには紛れもなくあの「本物」の気韻がある、これは
天が与え給う巡り合わせに違いない、私はそう思った。
それから一ヶ月近くを経て、私は「榎並和春」という
未知の画家へ、こわごわメールを送らせて頂いた。
「私の勝手な文章をブログに取り上げて頂き、ありがと
うございます。あらためて自分の文章を読み返してみ
ると、なんとも生意気でいけ好かない感じですね。
実は私、失礼ながら榎並さんの事を、万年勉強不足の
ゆえ今まで知りませんでした。早速ホームページで作
品を見せて頂き、ある種宗教的ともいえる様な深みの
ある作風に、心惹かれました。もし差し支えなければ
画集や個展の資料等、お送り頂けないでしょうか」
翌日パソコンを開けると、画家より返信が届いていた。
「ご丁寧なメール、ありがとうございます。
どこでどうやって山口画廊さんとつながったのか、ま
るで覚えてないのですが、確か気になる作家の企画を
やられている画廊だと認識していました。今回の『わ
たなべゆう』さんも好きな作家です。資料、できるだ
け揃えてお送りしますから、ちょっと時間下さい。
私のHPは、ほぼ私の等身大だと思います。本人が運
営しているHPですから、確かな事でしょう。この程
度の人間で、その程度の事しかやれていません。もし
それでよければ、お付き合い下さい。榎並」
きっかり一週間後、幾冊もの写真ファイルと作品見本
の入ったダンボール箱が、ありがたくも画廊へ届いたの
だが、実はその時、私は連日の腹痛で立つ事もままなら
なくなっていた。翌日、私は緊急入院のハメになり、し
ばらくは仕事の出来ない成り行きとなった、せっかく送
って頂いた沢山の資料を、画廊へ置き去りにしたまま。
「お元気になられたようで良かったですね。私の資料が
着いて即入院だったので、何かしら見てはいけない物
を見たせいかもしれないと、密かに危惧しておりまし
た。でもまあ良くなったようで、ちょっと安心しまし
た。少しゆっくりしろという暗示ではないでしょうか。
またその内にお会いできる事を、楽しみにしています。
ではまた、その時にでも。榎並」
それから一ヶ月半ほど後、私はこんな心温まるお便り
をいただいた。借りっ放しだった資料を、退院してやっ
と返却させて頂いた折の、画家からのメールである。
ちなみにお預かりした資料は、妻が画廊から病室まで
「重いのよねえ」とブーブー言いながら運んで来てくれ
て、おかげで私はベッドの上でお茶などすすりながら、
その独自の世界を心行くまで堪能する事が出来た。暗い
入院生活の中に、静かな希望が灯るのを感じながら。
メールを頂いてから一週間程を経た午後、私は甲府の
榎並宅へ伺わせて頂いた。晩春の陽光を川面に浮かべた
穏やかな流れを渡り、川沿いの道を折れて路地を奥まっ
た所に、目指す画家のアトリエはあった。一見して簡素
なたたずまい、しかし時代の艶を湛えるかの様な古い家
具が、諸処にさりげなく置かれていて、住む人の質の高
い生活スタイルがうかがわれる。
初めてお会いする画家は、隠遁せる一徹の哲学者とい
った風情、ご挨拶を申し上げてしばし歓談の後、制作途
中の大作が立て掛けられたアトリエに案内して頂く。
榎並さんの制作過程は独特である。麻布や綿布を水張
りしたパネルに、ジェッソや壁土・トノコ等を塗り重ね
て下地を作り、布等のコラージュを自在に交えながら、
墨・弁柄・黄土・金泥・胡粉等々、様々な画材を用いて
幾層にも地塗りを重ねる内に、その画面は風化した岩壁
の様な独特のマチエールを帯びる。一口に言えば、「ア
クリルエマルジョンを用いたミクストメディア」とでも
呼ぶべきか、しかし画家の制作姿勢そのものが「○○技
法」という分類を、そもそも根本的に拒んでいる。たぶ
ん榎並さんにとって「技法」とは、絵を完成させるため
の手段ではなく、何かに到るための道程に他ならない。
幾重にも絵具を塗り、滲ませ、かけ流し、たらし込み、
消しつぶし、また塗り込むという飽くなき作業の中で、
画家は来たるべき「何か」を探し、その何かが見えて来
る「時」を待つ。きっとそれが榎並さんの考える、「描
く」という行為なのだ。
やがて「時」が来る。いつの間に天啓の如く「何か」
が画面へと降り立つ。ある時は修道士の姿を取り、ある
時は笛を吹く楽士となり、おそらくは作者自身も意識し
ないままに、それは茫洋と画面にその全容を現わす。
画家自らに入れて頂いた、香り立つアールグレイをい
ただきながら、私は「表現」という言葉の持つ両義性を、
あらためて思い返していた。「表わす」事と「現れる」
事、つまりは「自己の」作用と「自己以外の」作用、そ
の両者が分かち難く一体となった所に、初めて真の「表
現」が成立するのではないだろうか。あらためてその制
作を省みた時、「自我の表出」という様な狭い範疇を超
えた、「表現」という言葉の広範な在り方を、榎並さん
はなんと明瞭に体現している事だろう。
アトリエに立てられていた制作中の大作も、厚く幾重
にも塗られた地塗りの中から、まさに今何かが浮かび上
がらんとしていた。私にはそれが、何者かを真摯に希求
してやまない、画家自身の姿にも思えた。
あれから早くも一年以上が経過して、その間榎並さん
とは昨年末に銀座の個展を訪ねた時以来、久しくお会い
出来ないでいるが、いよいよ当店の個展も目前となった。
巷は「阿修羅展」の余熱冷めやらぬ間に、今月からは
「ゴーギャン展」が幕を開け、最高傑作の誉れ高いボス
トン美術館所蔵の名作が、本邦で初めて公開される事も
あり、やはり相当の混雑が予想される。南海の孤島にお
ける貧困と病苦の中で、死を賭して描いたとされるその
畢生の大作に、ご存じの如くゴーギャンはこう命名した。
「我々はどこから来たのか/我々は何者か/我々はどこ
へ行くのか」──思うに、不遇の大家が残したこの永遠
の問いかけは、現代の美術界に生きているだろうか。
村上隆や奈良美智の活躍によって、近年の美術市場は
現代アート一色に塗り替えられた感があり、折からの中
国や韓国の美術投機ブームと相まって、実力も定かでは
ない若手の作家達が、一時は異常な脚光を浴びる状況と
なった。隣国の投機熱が低下すると共に、さすがに年端
も行かない学生作家の青田買い等は影を潜めつつあるが、
未だ市場では若手を優先する傾向が強い。
むろん「若手作家」と一括りに論ずる事は、短絡に過
ぎるのかも知れないが、しかしそこにはやはり、ある共
通した傾向が散見される。まずは「発想の新奇」や「表
現の特異性」を狙う姿勢、それは元より若者の特質とも
言えようが、いつの間に現代は「アート」という軽い言
葉の下に、芸術表現の意味を履き違えてはいまいか。
例えばジャコメッティという彫刻家がいて、周知の如
くかつてない斬新な形象を創り出したが、しかし彼は決
して新奇や特異性を求めて、あの独自のスタイルに到っ
た訳ではないだろう。一見どれも同じ様な鶏ガラの如き
人物像を、創っては壊し創っては壊し、呆れるほど執拗
に追い求めた真意は何だったのか、たぶん彼の心にあっ
たものは、たった一つの問いだけではなかったろうか。
「我々は何者か」、おそらくはそれだけを、創るという
行為を通して彼は知りたかったのだと思う。まずは「問
い」があった、やむにやまれぬ心底からの希求があった。
優れた芸術表現の源泉には、常にその様な否応のない
衝動がある、それがあってこそ「斬新な発想」も「特異
な表現」も、豁然と生まれ得るのではないだろうか。
「私は何なのか?という問いかけは、複雑に絡み合った
糸を解きほぐすようなものだ。どんどんと下に降りて行
って、もうこれ以上行けないという所から眺めてみると
分かることもある。絵を描くとはそのための道具だ」、
今こうして榎並さんの言葉を省みた時、幾重にも絵具を
塗り重ねるその制作の意義も、ここにある事が分かる。
「こたえてください」「おおいなるもの」「いのりのか
たち」──これらの美しい言葉は、榎並さんが自らの作
品に冠したタイトルだが、これだけでも作者の想いは伝
わるだろう。それはあの始原の問いを、静かに深く希求
する人の、思索の果てに涌き上がる言葉だから。
思えばゴーギャンもジャコメッティも、「答え」を残
してはいない。彼らは「問い」だけを残した。だから後
世の私達は、その絵を見る度に問いかけられる、「我々
はどこから来たのか」と。答えられない私達は、何者か
を仰いで呼びかける──こたえてください──、それで
もその問いの先には、底知れぬ沈黙があるだけだ。
答えざる者への呼びかけは、いつしか祈りとなるだろ
う。元来「祈り」とは、大いなる者への呼びかけであっ
たのか。気がつけば私達は榎並さんの絵に、深い祈りの
響きを聞いている。そしてその作品に見入る時、人は画
家の内なる異郷で、遥かな巡礼へと旅立つのだ。旅人は
やはり問うだろう、「我々はどこへ行くのか」と。やが
てあのいにしえのイコン達は、沈黙の答えを語り始める。(終)
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はる 2821
「続・永遠の故郷3」
(以下のことは確かなことではありません。あしからず)
数学の難問「ポアンカレ予想」の話をNHKで観た。実はこの問題は2006年に解決済みのことで真新しいことではなかったんだな。そんなことはまったく知らなかったので随分と面白く観た。数学のことかと思ったら、実は宇宙の成り立ちの話で私はいつも考えている「永遠の故郷」の話と通じるところがあったので驚いた。
ロシアの数学者ペレリマン博士が解いたのだけれど、そのおかげで一種のノイローゼ状態になってしまったらしい。まぁ詳しくはNHKの番組を6回に分けてyoutube観る事が出来るのでそれをお勧めします。
http://www.youtube.com/watch?v=Ep-9RQo7zb8
これによると、宇宙は「おおむね丸い」というのか閉じられた世界であるというのが証明されたということなんだな。この間の「続・永遠の故郷」の話のところでは知らなかったので、随分と遠回りしてしまった。テレビでは「おおむね丸い」と説明していたけれど、それは宇宙は有限で閉じられた空間だということを証明したということだ。まぁ我々三次元の人間が認識している有限とは少し違うけれど、時空を含めて有限だということだな。これは画期的なことだろうな。
数学者は凄いなぁ、頭の中で宇宙の成り立ちを空想して予想を立てて実際に証明してしまうのだから驚いてしまう。考えることはぼんくら頭でも出来るけれど、それを数学的に証明するのは天才しかできない。これで宇宙は閉じられた世界だということになったわけだ。
絵描きである私がなぜこのことに興味があるのか、実際の話本質的なことは何一つ理解は出来ていないのだけれど、この宇宙の成り立ちというのか理ということに興味がある。多分こういった数学的な命題もどんな難題であれ解かれたものを見ると実にすっきりしたものだろう。真理というのは単純な形をしていることのようだ。そういう本質てきなこと、普遍的な事柄に興味があるわけだ。
繰り返しになるのだけれど、実は宇宙の話は私自身の話でもある。どんなに気宇壮大な宇宙の話をしても、とどのつまりその宇宙は私の頭の中にある、そのことがとりもなおさず愉快の源だ。我々は全て「星の子」であるから、からだの細胞一つ一つに「宇宙の遺伝子」として宇宙のかけらが残っている。だからまことにとんでもない遠い存在だと思っていた宇宙の創生の話が、最も身近な私事でもある、そのことがとても面白く感じるところだ。
(永遠の故郷4・はる2467)「フラクタルの理論」のところでも書いたけれど、結局大きすぎて空想も出来ない宇宙という存在も突き詰めてみればミクロ的な私の心の中身を考えるということと同じだということなんだな。
画家が一筆をキャンバスに置く。そのことは宇宙の理とつながっているように思うのだ。
「続・永遠の故郷3」
(以下のことは確かなことではありません。あしからず)
数学の難問「ポアンカレ予想」の話をNHKで観た。実はこの問題は2006年に解決済みのことで真新しいことではなかったんだな。そんなことはまったく知らなかったので随分と面白く観た。数学のことかと思ったら、実は宇宙の成り立ちの話で私はいつも考えている「永遠の故郷」の話と通じるところがあったので驚いた。
ロシアの数学者ペレリマン博士が解いたのだけれど、そのおかげで一種のノイローゼ状態になってしまったらしい。まぁ詳しくはNHKの番組を6回に分けてyoutube観る事が出来るのでそれをお勧めします。
http://www.youtube.com/watch?v=Ep-9RQo7zb8
これによると、宇宙は「おおむね丸い」というのか閉じられた世界であるというのが証明されたということなんだな。この間の「続・永遠の故郷」の話のところでは知らなかったので、随分と遠回りしてしまった。テレビでは「おおむね丸い」と説明していたけれど、それは宇宙は有限で閉じられた空間だということを証明したということだ。まぁ我々三次元の人間が認識している有限とは少し違うけれど、時空を含めて有限だということだな。これは画期的なことだろうな。
数学者は凄いなぁ、頭の中で宇宙の成り立ちを空想して予想を立てて実際に証明してしまうのだから驚いてしまう。考えることはぼんくら頭でも出来るけれど、それを数学的に証明するのは天才しかできない。これで宇宙は閉じられた世界だということになったわけだ。
絵描きである私がなぜこのことに興味があるのか、実際の話本質的なことは何一つ理解は出来ていないのだけれど、この宇宙の成り立ちというのか理ということに興味がある。多分こういった数学的な命題もどんな難題であれ解かれたものを見ると実にすっきりしたものだろう。真理というのは単純な形をしていることのようだ。そういう本質てきなこと、普遍的な事柄に興味があるわけだ。
繰り返しになるのだけれど、実は宇宙の話は私自身の話でもある。どんなに気宇壮大な宇宙の話をしても、とどのつまりその宇宙は私の頭の中にある、そのことがとりもなおさず愉快の源だ。我々は全て「星の子」であるから、からだの細胞一つ一つに「宇宙の遺伝子」として宇宙のかけらが残っている。だからまことにとんでもない遠い存在だと思っていた宇宙の創生の話が、最も身近な私事でもある、そのことがとても面白く感じるところだ。
(永遠の故郷4・はる2467)「フラクタルの理論」のところでも書いたけれど、結局大きすぎて空想も出来ない宇宙という存在も突き詰めてみればミクロ的な私の心の中身を考えるということと同じだということなんだな。
画家が一筆をキャンバスに置く。そのことは宇宙の理とつながっているように思うのだ。
同級生が亡くなったという知らせを受けた。この年になれば色々な訃報を受け取った。けれど同級生の死というのはまた格別悲しいものがある。50年と言う歳月はやっぱりとても長いもので、誰だって平等に死はやってくる。けれど人生の最初の学生時代に同じ時をすごした仲間というのはとても忘れがたいものがあるな。
あの石ころだらけの小学校の校庭で遊んだことや、夏の暑い臨海学校とか、学校から見えた最後の蒸気機関車とか、冬の寒い暖房の無い教室とかそんなことが次から次と浮かんでくる。あの場所であの時間に同じ場所にいた仲間が一人居なくなった。そしていつかだれも忘れてしまうのだな。
私が生きている間は覚えているからな。どうか静かにゆっくりとお休み下さい。
あの石ころだらけの小学校の校庭で遊んだことや、夏の暑い臨海学校とか、学校から見えた最後の蒸気機関車とか、冬の寒い暖房の無い教室とかそんなことが次から次と浮かんでくる。あの場所であの時間に同じ場所にいた仲間が一人居なくなった。そしていつかだれも忘れてしまうのだな。
私が生きている間は覚えているからな。どうか静かにゆっくりとお休み下さい。
さて今日は久しぶりのクロッキーだった。
はる 2819
今日の新聞に「さようなら」について書かれていた。日本人はなぜ分かれるときに「さようなら」といって別れるのか?ということなのだけれど、普通なにげなく使っている言葉にも深いわけがあるんだな。あらためて言葉の奥深さを思った。
(これから書くことは私の推測も含むので間違っていてもあしからず)例えばgood byeにしてもgood luckにしても神のご加護を!とか幸運を!という風なニュアンスがある。そういえばgoodとGODは紙一重だ。そんなところにもその民族の思想が現れているわけだ。今調べてみるとやっぱり(God be with ye)の簡略系らしい。
see you againとか再会は同じような意味だな。また会いましょうってことだ。
で、「さようなら」は「左様ならば」から来ているらしい。これはその前の二つの意味とは明らかに違いがある。「そうであるならば」とか「時が来たから」とか「そういうことになってしまったならば」「別れたくないのだが、仕方が無いけれど」というふうなニュアンスが含まれているように思うのだな。
明らかに自分の意志ではない不可抗力の出来事や事態が起こって、仕方なしに別れることになってしまった、という風なある意味あいまいな言い訳がましい雰囲気が含まれている。
まぁ良くも悪くも我々日本人の生き様をあらわしているようだな、何か抗ってもあらがいきれない「おおいなるもの」の力の中で生かされていて、ある種の無常観とか厭世観みたいなものが現れている言葉だと思う。
例えば先のキリスト教の世界観であるならば、神によって人は見守られて、あらゆる場合に自ら選択して生きている。何と言うのか神の庇護の元といいながらも実は人が中心にあるように思うな。それが西欧型の能動的な世界観を作ってきたのではないか。
ところが我々日本人は比較的温暖な気候に恵まれて、四方を豊かな海に囲まれて大地は放っておけば草木がやたらと繁茂する。いたるところに生き物の息吹が感じられ、魑魅魍魎の化け物と八百万の神々が渾然と一体になっている混沌の世界に住んでいる。人も単にそんな一つの生き物に過ぎないといった受動的な世界観が生まれるのは自然なことではないのかな。
まぁちょっとそんなことを思った。
はる 2819
今日の新聞に「さようなら」について書かれていた。日本人はなぜ分かれるときに「さようなら」といって別れるのか?ということなのだけれど、普通なにげなく使っている言葉にも深いわけがあるんだな。あらためて言葉の奥深さを思った。
(これから書くことは私の推測も含むので間違っていてもあしからず)例えばgood byeにしてもgood luckにしても神のご加護を!とか幸運を!という風なニュアンスがある。そういえばgoodとGODは紙一重だ。そんなところにもその民族の思想が現れているわけだ。今調べてみるとやっぱり(God be with ye)の簡略系らしい。
see you againとか再会は同じような意味だな。また会いましょうってことだ。
で、「さようなら」は「左様ならば」から来ているらしい。これはその前の二つの意味とは明らかに違いがある。「そうであるならば」とか「時が来たから」とか「そういうことになってしまったならば」「別れたくないのだが、仕方が無いけれど」というふうなニュアンスが含まれているように思うのだな。
明らかに自分の意志ではない不可抗力の出来事や事態が起こって、仕方なしに別れることになってしまった、という風なある意味あいまいな言い訳がましい雰囲気が含まれている。
まぁ良くも悪くも我々日本人の生き様をあらわしているようだな、何か抗ってもあらがいきれない「おおいなるもの」の力の中で生かされていて、ある種の無常観とか厭世観みたいなものが現れている言葉だと思う。
例えば先のキリスト教の世界観であるならば、神によって人は見守られて、あらゆる場合に自ら選択して生きている。何と言うのか神の庇護の元といいながらも実は人が中心にあるように思うな。それが西欧型の能動的な世界観を作ってきたのではないか。
ところが我々日本人は比較的温暖な気候に恵まれて、四方を豊かな海に囲まれて大地は放っておけば草木がやたらと繁茂する。いたるところに生き物の息吹が感じられ、魑魅魍魎の化け物と八百万の神々が渾然と一体になっている混沌の世界に住んでいる。人も単にそんな一つの生き物に過ぎないといった受動的な世界観が生まれるのは自然なことではないのかな。
まぁちょっとそんなことを思った。
そうそう、この個展中に画集を送ってほしいというメールをいただいたのですが、誤って削除してしまいました。もしこのブログをお読みになったらすみませんがもう一度メールください。すみません。
今日は中休みです。
銀座は中央通りは人でにぎわっていますが、一歩中に入れば閑散としています。画廊街も基本的にはお休みになります。まぁ普通は日曜日にしか来れないお客さんがいるわけでオープンした方がいいと思うのですが、昔っから銀座の画廊は日曜はお休みですね。ただし今回は23日が祝日ですがオープンします。仕事でお休みの日しか来れない方はこの日に来てください。
世界的な不況のせいかな、銀座の画廊もちょっと今までにない落ち込みのようです。まぁ考えればわかるけれど、一番最初にけずられる対象ではあるわな・・。けれど、本当は今が一番必要とされるような、心の拠り所になるような仕事であるとは思っているのですが、どうでしょう。
前にも書いたけれど、壁の飾りを描いているつもりはない。不安などうしょうもない時代にこそ必要とされるものが本物でしょうな。時代のふるいにかけられて、偽物は消えてゆく、ちょうどいい機会じゃないかな。外国の有名なブランドビルは早くも撤退を始めた。
今回はけっこう充実した作品になっているような気がしています。是非面倒がらずに見に来てほしいとおもいます。何か感じることがあるように思いますね。明日からまた毎日在廊しています。
銀座は中央通りは人でにぎわっていますが、一歩中に入れば閑散としています。画廊街も基本的にはお休みになります。まぁ普通は日曜日にしか来れないお客さんがいるわけでオープンした方がいいと思うのですが、昔っから銀座の画廊は日曜はお休みですね。ただし今回は23日が祝日ですがオープンします。仕事でお休みの日しか来れない方はこの日に来てください。
世界的な不況のせいかな、銀座の画廊もちょっと今までにない落ち込みのようです。まぁ考えればわかるけれど、一番最初にけずられる対象ではあるわな・・。けれど、本当は今が一番必要とされるような、心の拠り所になるような仕事であるとは思っているのですが、どうでしょう。
前にも書いたけれど、壁の飾りを描いているつもりはない。不安などうしょうもない時代にこそ必要とされるものが本物でしょうな。時代のふるいにかけられて、偽物は消えてゆく、ちょうどいい機会じゃないかな。外国の有名なブランドビルは早くも撤退を始めた。
今回はけっこう充実した作品になっているような気がしています。是非面倒がらずに見に来てほしいとおもいます。何か感じることがあるように思いますね。明日からまた毎日在廊しています。
忍者版ブログ初めての投稿です。以下は寂しいので過去のコメントを転載しときます。
はる 2687
イタリアに行く前と帰国後に何が変わったか?とよく言われる。どこか学校に入って絵を勉強したわけではない。大体絵の道具はスケッチに必要な携帯用の水彩道具しか持ってゆかなかった。
せっかく外国に滞在しているのに学校に行って時間を取られるのはもったいない。考え方のちがいだけれどね。色々と見てまわる事、上手いものをたらふく食うこと、それで出来たらスケッチする事。自分に課したのはそれくらいだ。後は夫婦で旅行ばかりしていた。まぁちょっと長い休暇みたいなものか。
行く前からひょっとすると油絵は描かなくなるかもしれないという予感があった。なぜなら画面の中に他の材料を持ち込みたくても油彩の場合、紙のコラージュぐらいが限界だったからだ。それからその頃に興味を持っていた作家が有元利夫でテンペラとかフレスコなど油彩以前の画材に興味をもっていたからだ。
日本人である私が何故西欧の伝統である油彩画を描くのかという疑問が滞在中にどんどん大きくなってきて、帰ったら水性(ミクストメディア)に挑戦しようそればかり考えていた。
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