忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[317]  [316]  [315]  [314]  [313]  [312]  [311]  [310]  [309]  [308]  [307
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 
はる 2961
 いわゆるアール・ブリュットとかアウトサイダーアートと言われる表現がある。一般に知的障害者や精神障害者の絵画や造形をさすと思われているが、全く伝統的な造形教育を受けていない表現も含めて言うらしい。

 アフリカのプリミティブアートとかオーストラリアの原住民アボリジニの描く絵画なども含まれるのかもしれない。もっと広く解釈すれば韓国の民画とか日本の祭りの仮面とかも近いかもしれない。

 ピカソがアフリカのプリミティブアートである彫刻や仮面などを見て強い衝撃をうけそれを自らの表現に取り込んだのは有名な話だ。これだけ情報が自由に行き来する現代でもあの彫刻を観ればかなりのショックを受けるのだから、当時はそれは凄いものだったと想像する。

 アール・ブリュットの命名者であるところのデビッフェなどもそのくちで、当時の残っているいい作品はほとんどそういったものから真似したものだ。その後彼の作品はその様式から変わってゆく。

 アメリカの抽象主義でもデクーニングなどはアール・ブリュットの絵画に似ている。その後出てきた全く独学というのか落書きアートから出てきたバスキアとかキースヘディングなんかもアール・ブリュットに入れてもいいかもしれないな。

 とにかくこちら側のいいとか悪いとか、芸術であるかないか、のはんちゅうに入らないところから出てきたもので、いきなり本質を見せられるような、我々からみれば一種の衝撃がある。

 子供の絵画などもそうだけれど本人からすればなんでもない普通のことなんだけれど、大人から見ればとても真似の出来ない造形だったりする。これって一体なんだろうな。

 昨日の続きみたいなものだけれど、人は社会の中で生きてゆく場合、生のままではとうてい生きては行けない。何かしらの社会的な約束とかルールを学習してゆく。まぁそれが一人前の大人になると言うことなんだけれど、そうやって行くにしたがって生のままの自分と言うものを失ってゆくわけだ。

 そのまま生のままでいられる環境であればそれはそれで幸せなんだけれど、そうはなかなかいかない。

 あちらの世界とこちらの世界、作為と無作為を自由に行き来できる能力を持ったものは一種の巫女みたいなもので、能の世界でも翁はそういった役割があるらしい。古代から芸能者はそういった能力を修行することで得たようだ。全ての人がと言うわけではなく似非の成りすましがほとんどだったようだけれどね。

 生のままの芸はうらやましいけれど、反対に持ってしまったことを意識しないまでにもってゆくのはなかなかの修行を要する。

 極普通の人間はそうやって修行するしか「生のままの自分」に出会うことはできない。それが私の立場だと思う。

 
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)