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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3024
 確かに豊かに暮らすというのは難しい。勿論お金もなくてはならないだろうけれど、お金が全てではない。多分いつの時代も不満はあったし、戦後の食うや食わずの時代にも幸せはあったように思う。全ては相対的なものだと言ってしまえば話は進まなくなってしまう。

 一時勝ち組み、負け組みなどという話が大手を振って話題になった。いまでもそうなのかな?学校生活を考えてもまぁ上の25%はとにかくエリート意識を持っていて、やがてはいい学校いい就職いい会社いい結婚いい生活いい葬式?と順調にいい人生を送ってゆく。と考えられているらしい。そうすると後の75%の人間は良くない人生なのかね?

 公立の学校の教師をしていた時によく感じたことがある。運動会はまだしも行進の練習とか全員で体操などやっているとこれは何の訓練なのか?国からお金を貰っているのだから仕方ないのかなぁ、まぁある程度成績のいい奴はいいけど、その他大勢組みはどう生きろと言えばいいのか、一生上の奴らのご機嫌伺ってお上には逆らいませんみたいな生き方をしろというのかなと漠然と思ったね。

 はっきり言って学校の勉強という能力には適正があるよな。出来る奴は勉強などやらなくても点は取れる。反対にどんなに頑張っても限度というものがある。それを「負け」と言ってしまうとどうやっても浮かばれない。

 まず大人たちが、そういった価値観で生きているから、どうやっても「勝だ負ける」にこだわってしまう。結局ライブドアのホリエモンじゃないけれど「お金を稼いだものが一番だ」といった発想になる。「速い、安い、上手い」といううたい文句があるけれど、なんだろうな、とにかく効率、便利、手軽という一元的な価値で世の中が進んでしまうことが、色んな弊害の元だ。

 時代が進んで価値が凄く多様化しているように見えるけれど、実のところはこの効率という価値にどんどん一元化されてきているように思うなぁ。いまここではっきり違うと意識しなきゃいけないのじゃないか。

 成績がよく何でも手早くすます能力だけが幸せをつかむレシピだと考えるのではなく、色んな人生の選択があってそれでも充分生きがいを感じて生きてゆけるんだということを、身をもって教えて行くべきだ。

 具体的には言えば「お金などなくても楽しく生きられるレシピ」を教えることだ。そんな人はたくさんいると思う。そういう人を「人生の勝ち組み」というのだ。

 
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はる 3023
 今日はとても驚いたことがあった。まぁ大したことではないのだけれどね。

 私は自分の画集をネットで販売しているにもかかわらず、いままでネットで買い物したことがなかった。まぁそれに近いような例えばホテルの予約みたいなことは必要に迫られて活用はしていたのだけれど、実際に現物を見ないで買い物をするということに若干の違和感があるんだな。随分と古風な考え方だと言われればその通りなんだけれど、多分これからもそれはあまり変わらないように思う。

 ところで驚いたことと言うのは、チェロの教則本なんだけれど、これは県内の楽器屋さんにもあることはあるのだけれど、欲しいと思う本は洋書だったりすると、もうこれは注文するしかない。実は前に注文したら随分と時間がかかった。それはそうだろう、そんなに需要がある本でもないし、倉庫に置いておいても右から左に売れてゆくものでもない。場所ふさぎだし、ひょっとすると最後まで売れないかもしれない、そんな本を置いておくより、もっとポピュラーな売れ線の本を置きたいわな。私が店主でもそう思う。

 ところが、昨日ネットで検索してそういった洋書の楽譜を扱う専門店を見つけた。地方のそれもほとんど誰も知らないようなお店で、たぶんお店の形態もしていないのではないだろうか。いや見つけたというより、その本のタイトルと検索したら一発でそこに飛んだ。で、在庫数5で即日発送しますということだ。午前中にがたがたとして必要事項を書き込んで注文したら、午後には発送しましたというメールがきて、何と今日朝の10時には手にすることができた。何と、24時間以内にマイナーなほとんど店頭にはない本を手にすることが出来た。

 実感として世の中というのか、販売の形態というのが変わりつつあるのがよく分かった。少し前の「ウエブ革命」?かな、その本にそんなことが書かれていたなぁと思い出した。確かにこういった今まで埋もれていた古書とか廃盤のレコードどか、マニアックな品物とか骨董とかは、なかなか世の中に晒されることがなかった。私物化されるともうほとんど死蔵・デッドになって世の中から存在が消えてしまう。

 パソコンというのかネットというのこういったバーチャルなせかいではこういったことが一番得意である。で、よく考えるとこれはじつはニ三日前の写真からデッサンを起こす方法と同じことなんだな。

 少し繰り返しになるけれど書く。現実の世界は三次元であるから、二つの目で見た像を個人の頭の中で一つの画像として統合している。立体を絵にした時の何ともいえないあの分厚い立体感はそんなところから来ている。要する三次元の像には正面や側面がある。奥行きがある。描き手はそれをかき分けなければならないわけだ。

 ところが写真の画像には奥行きがない。当たり前だけれど、奥行きがありそうに描かれていてもそれをかき分けてはいない。実は全てが同じ光の点、同じ絵の具の点になっているからだな。

 パソコンにとっては大ベストテラーも100年に一冊しか売れない本も同じ価値しかない。一冊は一冊、価値のある本もない本も同じ。そこのところが人間の尺度を越えているということだな。

 こういったブログも同じだな、意味のある意見も、まったく意味のないアホな意見も同じ重要度で存在する。味噌くそ状態。今後ますますこういったバーチャル化が進むと考えると、そうだな、どういう方向に進んでいるのかといえば、宇宙の混沌に近いかもな。結局のところ誰も重要ではないし、何も特別なことはない。全ては並列でお互いに影響しあいながら離れていっている。やがてはそれぞれが素粒子になって宇宙に飛び出して行くのかもしれない。

 何のこっちゃ。
 




 
はる 3020
 明日は午前中はクロッキー、午後は野暮用でお江戸に出ます。そんなことで又更新はシャメだけになるかもしれません。何もないとはいえ結構忙しく右往左往しています。ここのところ用事でお江戸に出る機会が多い。疲れやすいのでほとんど他の用事はしない。だからもったいないなぁとは思う。お金はいいけれど、時間は取り戻せないから、尚そう思う。

 徒然に・・
 昨日考えていて、あぁそうだなとあらためて思ったのが、「絵画の平面性」ということだ。当たり前といえばその通りなんだが、ところが西欧絵画の歴史でいえばルネサンスの頃から如何にすれば平面の中に立体的な世界を再現するかというのが大きな命題だった。まだ写真技術というのがなかったので人見たように見えたように描くのはどうすればいいのかを考えた。元はといえば天国とか地獄などを実際に見てきたように描きたいという欲求があったのかもしれないな。でティツィアーノやミケランジェロ、ルーベンス、やカラバチッオでそういった表現のピークをむかえる。

 その後はどんどん絵画の再現性みたいなものは崩れてゆくのだけれど、まぁ教会や王侯貴族が力を失って商人や市民階級がちからを持ってくると、一気に絵画も大衆化してゆく。ちょうど絵の具もチューブ入りみたいなものが開発されて野外でスケッチできるようになったということや、画家そのものが貴族などから自立して自己主張しだした、芸術家という存在が認められてきたと言うことかな。

 印象派の出現は偶然ではない。そういった歴史上の必然から出てきたもので、ちょうど科学技術も発展してカメラや版画、印刷などという大衆的な表現方法も支持されてきた頃でもある。印象派が壊してきたものは多いけれど、大きなものは「絵画は平面にある秩序で置かれた色の点の集合である」ということだろうか。なぜそんな考えが出てきたのかといえば、昨日のモザイクの話が分かりやすい。平面に置かれた点には奥行きも側面も、主役も脇役もない。全てが同等な点でしかない。何故平面かという答えはここにある。この考えの延長上にウォーホールもリキテンシュタイン、今をときめくスパーフラットの村上隆もいる。

 ところで私は何故にクロッキーや人物デッサンにこだわるのかね。日ごろの絵がものを描いていないので反対に出来るだけ物を単純に描きたい。単に趣味みたいなものか。又考えてみたい。



 
はる 3019
 シルバーウィークだそうだが、4日や5日のお休みは毎週のことだが、この休みは試験のお休みも重なって約20日ほどの連休となった。これだけ休むと、またまた学校に行きたくない症候群が始まる。無給休暇なのでだれにはばかることはないのだが、来月の給料はまた限りなく0に近いだろう・・。

 私にとって絵を描くとは、描くことであり、書くことでもあり、思索することでもある。今何を考えているのか、考えなければならないことなのかを書きながら、描きながら考えている。奇妙な話だけれど、実際の話何を書くのか、描くのか決めていないので、描き始めなければ何も出てこない。書き始めて「あぁわたしは今こんなことを考えているのか」と分かるわけだ。その思索の過程がこのブログになったり、作品になったりして残ってゆく。それを読まされる、見せられる読者、観覧者は迷惑な話だ。

 このところ考えていたいたのは、デッサンのことだな。上手くかけるかどうか分からないけれどやってみる。

 我々が物を見ているのは実は二つの眼で違うものを見ている。三次元の空間を把握できるのは実はそういうことがあるからで、昔草原の小動物が獲物をとるテレビをみたことがあるけれど、小さな耳を音のする方に傾けて微妙に首を動かしながら距離を測っていた。二つの眼で見るというのはそういった意味がある。まぁ数学で言う三角測量みたいなものだな。

 ところで、違う像を見ながら実際は頭の中で上手く統合して一つの像として感じている。だからまぁリアルな像ではないバーチャルな幻影を見ているのだということができる。ここで大事なことは物事というものはいつもさまざまな方向から見てゆくものだということだ。そういった習慣が、実は遠回りのようでありながら、物の本質をつかむ又表現する大きな道具となるのだな。

 話は少し変わるが、テレビやパソコンの画面の像というのはご存知のように小さな点の集まりで出来ている。拡大すればはっきりそれはわかる。いままぁ一つの画像(花)を3x3の9つの白黒のモザイクで表現すると、9段階に分かれた白黒のグラデェーションで表される。まぁ何がかかれているのかそれを見ただけではわからないけれど、とにかく一つの画像ができる。形は単純化されているけれど白地図を塗り分けるように諧調を作り出すことができる。これをマッピングという。白地図化とでもいうのかな。

 そのモザイクを段々数多くして諧調も複雑にしてゆけば段々にリアルな画像になってゆく。それはよくあるコンピュータ処理で見かけることだな。100年ほど前の印象派のスラーなどがやろうとした点描というのはまぁ来れに近いようなことだな。

 このやり方の面白いところは遠いところも近いところも、側面も正面も縦も横も、全て同じ価値をもつ一つの点に還元されるところだ。人間の眼ではなく、機械の眼が一番得意とするのはそのところだ。写真とかそれを使った印刷、そこから発展したテレビやパソコンの画像の面白いところでもあるし、妙に奥行きのない、軽い画像であるのはそんなところに理由がある。

 理論的に言って、デッサンもそういった機械のような眼になって全てを無数の点に還元してしまえば、小難しい奥行きの表現、正面や側面や手前や後ろ回りこみなど意識しなくてもいいわけだ。全てが同じ価値をもつ一つの点に還元できればね。

 ところで、アメリカのデッサンの指導書やよくあるハウツーもの「・・の描き方」のようなものには、言い方はそれぞれ違うけれど、大体上のようなことが色々な作画例をもとに書かれている。それがまぁ一般に一番理解しやすいデッサンの方法かもしれない。写真や印刷物から絵を描く場合、もともと奥行きのない平面であるわけだから、この考え方でだいたいいいだろうな。

 現実の世界でも片目をつぶって平面的にものを見た場合、こういった方法で描写することは可能かもしれない。でもまぁ、普通は三次元でみた立体的な空間を、二つの眼で見たバーチャルな幻想を一枚の絵にまとめて描くという離れ業をするわけだ。そこのところが一番ひっかかるとことだと思う。

 普通に何も考えないでやると図形的な遠近は描ける。まぁ遠近法などという画法を一応学習しているので大体の輪郭は訓練さえすればそう難しいものではない。難物は回り込んでいる側面とか奥行き、その面の表現だろう。最初は頭で考えてあぁ側面だ、縦だ横だなどと描こうとする。そうするとぎこちない設計図のような絵になってしまう。

 上手い表現はまだ出来ないのだけれど、ものには輪郭線はないということかな。輪郭線というと面はそこで終わってしまう。実際は面は続いていて向こう側に回っているわけだ。輪郭線があってその中を塗り分けるのが、上で書いた方法で、輪郭線などなく「面で描く」というのが立体を平面に描く方法だ。具体的にはもう少し研究しなければならないが興味があれば又書きましょう。
 
 ところで、上の話は物の描写の話だけれど、私が描いている絵はまったくそんな約束事からはなれている。いやあえて無視している。ものの描写はしない。絵は描かない。上手く描かない。作為的に成らない。出てくるのを待つ。空想で描く。物を見ない。出来るだけ自由に心を遊ばせる。そこから連想するものをかければいいと思っている。



 
 綺麗な空だった。ブログに写真を載せるようになって空を見上げる機会が多くなった。普段何気なく見過ごしたり、心にとどめておくことがなかった光景がこうやって記録に残っていることは悪いことではないだろう。これらの延長上に今の私がいる。



 
 
 便利が全てという価値基準で考えてゆけば、各個人の専門店より近くのコンビにの方が役に立つということになるだろうし、本格的に手をかけた料理より電子レンジでチンのジャンクフードの方が味が強くて美味いと言うことになる。

 確かに今の街中の商店街の凋落振りを見ると、もうこれからは個人商店、魚屋や八百屋、乾物や、金物や、といった専門店の成立世の中ではなくなってしまったなぁと感じる。いやそうではない、とにかくいい物はいいのだからここで踏ん張って頑張れとはいえない。

 食べ物だけの話ではない。衣類などもユニクロに行けば色とりどりの下着からGパンからジャケットまで普通のお店で買うよりかなり安い値段で買うことが出来る。靴なんかでも安売りのスーパーに行けば、デザインやブランドにこだわらなければ何百円で買える。日常使いでは充分使用に耐える。

 多分こういったものは海外の人件費の安いところで作られたものだろうけれど、そうすると国内のそういった生産者はまったく対抗できないわけで、まぁこれはね、農産物なんかにも言えるわなぁ。放っておけば国内の農業など全てやってゆけなくなる。

 合理的という考えをすすめて行くと、最終的には生きているという事自体が非合理的に出来ているということに気付く。そもそも生きていることに意味があるのかという根源的な問いかけにたどり着いてしまう。

 人の幸せというのは非常に相対的なもので、これが絶対ということはない。不便な時は便利な世の中に憧れるものだが、便利になったからといってそれで確実に幸せになれるというものではない。

 老子の話に「小国寡民」という言葉がある。理想的には国は出来るだけ小さくて人は出来るだけ少ない方がいいということらしいのだけれど、昨日の話のオチと同じようなものだけれど、誰が作ったのか分かるような物をくって、自分で編んだ、縫った服を着て、自分たちで作った家に住む。そんな生活が一番幸せかもしれん。
 



 
はる 3016
 今日もまた村松さんのメルマガを読んで考えさせられた。そのまま転載すればいいのだけれどメルマガは著作権があるようなので直接は載せられないようだ。要約すれば「ネットとお金」と言うことなんだな。

 ネットで発信していればよく分かるように、こういった文章もそうだけれどあらゆる情報が只になる。自分の側もそうだけれど例えば何か調べものをした時も多くの情報を只で得ることが出来る。昨日見のがしたTV番組のいいところもほとんどの場合海賊版でyou tubeで見ることが出来る。これは海賊版だから見ないでおこうなどという善良な輩はいないわけで、ありがたくもその恩恵にあずかるわけだ。

 例えば自分にとってどうしても必要な情報と言うのは「お金」を出して得ていたわけだけれど、最近はどうも無料でいただくということが多い。まぁ考え方によればそうやってあらゆるものが便利に手軽に手に入るということはありがたいことだし、知的な財産が多くの人に共有されるわけだから、大きく考えて社会的に有効であるきもする。

 で、まぁ趣味で文章を書いていたり、絵画やデザインや写真など表現的なことをやっている場合、別にそのことが直接収入に関わるわけではないから、出来だけ多くの人に読んでもらったり利用してもらうのはありがたかったりするわけだけれど、それらを何かしらの形で生業にしている場合、死活問題だな。

 特にこうPCがここまで発達してくると、誰でもが簡単に一応クリエイターの真似事が出来るわけで、今までデザイナーがしていた仕事の領分まで侵してくるわけだ。でどんどん仕事が値切られて安くなってゆく。一昔前は文字一つも写植やさんがいて拡大したり縮小したりしてそれで食えていたわけだ。いまならド素人でも簡単にPCで出来る。これも汎用な知的財産の共有と言えばいえる。

 職人的な手仕事みたいなものが壊滅的な打撃を受ける。100円で手に入るものと10000円のものと機能的にはそんなに違いはない。あるのは職人が如何に気持ちをこめたかみたいなところしかない。とわ言っても社会はどんどんそういった簡単なチープな手軽で便利な方向にいっているわけで、今更声を大にして反対を言えるものでもない。止められない。

 このまま進めば「手仕事」というものがなくなってしまう。いや手仕事だけではなく「仕事」そのものがやる気とか生きがいとか夢とか希望とかそんなものと別のものになってしまうだろう。ただ単に労働をお金にかえるだけのそう、今の派遣やアルバイトのような仕事だけになってしまうだろうな。

 全てが、便利で、簡単で、チープで、分かりやすい。お金さえあれば楽しく暮らせると思っている。どうすればいいのか、何を始めればいいのか、手のつけようがない状態になってしまった。

 自分で作ったものを食って、織ったもの着て、自分で建てた家に住む。究極的にはそんなことか。それがまぁ一番の贅沢であり豊かな生き方といえるかもしれんな。
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