画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3019
シルバーウィークだそうだが、4日や5日のお休みは毎週のことだが、この休みは試験のお休みも重なって約20日ほどの連休となった。これだけ休むと、またまた学校に行きたくない症候群が始まる。無給休暇なのでだれにはばかることはないのだが、来月の給料はまた限りなく0に近いだろう・・。
私にとって絵を描くとは、描くことであり、書くことでもあり、思索することでもある。今何を考えているのか、考えなければならないことなのかを書きながら、描きながら考えている。奇妙な話だけれど、実際の話何を書くのか、描くのか決めていないので、描き始めなければ何も出てこない。書き始めて「あぁわたしは今こんなことを考えているのか」と分かるわけだ。その思索の過程がこのブログになったり、作品になったりして残ってゆく。それを読まされる、見せられる読者、観覧者は迷惑な話だ。
このところ考えていたいたのは、デッサンのことだな。上手くかけるかどうか分からないけれどやってみる。
我々が物を見ているのは実は二つの眼で違うものを見ている。三次元の空間を把握できるのは実はそういうことがあるからで、昔草原の小動物が獲物をとるテレビをみたことがあるけれど、小さな耳を音のする方に傾けて微妙に首を動かしながら距離を測っていた。二つの眼で見るというのはそういった意味がある。まぁ数学で言う三角測量みたいなものだな。
ところで、違う像を見ながら実際は頭の中で上手く統合して一つの像として感じている。だからまぁリアルな像ではないバーチャルな幻影を見ているのだということができる。ここで大事なことは物事というものはいつもさまざまな方向から見てゆくものだということだ。そういった習慣が、実は遠回りのようでありながら、物の本質をつかむ又表現する大きな道具となるのだな。
話は少し変わるが、テレビやパソコンの画面の像というのはご存知のように小さな点の集まりで出来ている。拡大すればはっきりそれはわかる。いままぁ一つの画像(花)を3x3の9つの白黒のモザイクで表現すると、9段階に分かれた白黒のグラデェーションで表される。まぁ何がかかれているのかそれを見ただけではわからないけれど、とにかく一つの画像ができる。形は単純化されているけれど白地図を塗り分けるように諧調を作り出すことができる。これをマッピングという。白地図化とでもいうのかな。
そのモザイクを段々数多くして諧調も複雑にしてゆけば段々にリアルな画像になってゆく。それはよくあるコンピュータ処理で見かけることだな。100年ほど前の印象派のスラーなどがやろうとした点描というのはまぁ来れに近いようなことだな。
このやり方の面白いところは遠いところも近いところも、側面も正面も縦も横も、全て同じ価値をもつ一つの点に還元されるところだ。人間の眼ではなく、機械の眼が一番得意とするのはそのところだ。写真とかそれを使った印刷、そこから発展したテレビやパソコンの画像の面白いところでもあるし、妙に奥行きのない、軽い画像であるのはそんなところに理由がある。
理論的に言って、デッサンもそういった機械のような眼になって全てを無数の点に還元してしまえば、小難しい奥行きの表現、正面や側面や手前や後ろ回りこみなど意識しなくてもいいわけだ。全てが同じ価値をもつ一つの点に還元できればね。
ところで、アメリカのデッサンの指導書やよくあるハウツーもの「・・の描き方」のようなものには、言い方はそれぞれ違うけれど、大体上のようなことが色々な作画例をもとに書かれている。それがまぁ一般に一番理解しやすいデッサンの方法かもしれない。写真や印刷物から絵を描く場合、もともと奥行きのない平面であるわけだから、この考え方でだいたいいいだろうな。
現実の世界でも片目をつぶって平面的にものを見た場合、こういった方法で描写することは可能かもしれない。でもまぁ、普通は三次元でみた立体的な空間を、二つの眼で見たバーチャルな幻想を一枚の絵にまとめて描くという離れ業をするわけだ。そこのところが一番ひっかかるとことだと思う。
普通に何も考えないでやると図形的な遠近は描ける。まぁ遠近法などという画法を一応学習しているので大体の輪郭は訓練さえすればそう難しいものではない。難物は回り込んでいる側面とか奥行き、その面の表現だろう。最初は頭で考えてあぁ側面だ、縦だ横だなどと描こうとする。そうするとぎこちない設計図のような絵になってしまう。
上手い表現はまだ出来ないのだけれど、ものには輪郭線はないということかな。輪郭線というと面はそこで終わってしまう。実際は面は続いていて向こう側に回っているわけだ。輪郭線があってその中を塗り分けるのが、上で書いた方法で、輪郭線などなく「面で描く」というのが立体を平面に描く方法だ。具体的にはもう少し研究しなければならないが興味があれば又書きましょう。
シルバーウィークだそうだが、4日や5日のお休みは毎週のことだが、この休みは試験のお休みも重なって約20日ほどの連休となった。これだけ休むと、またまた学校に行きたくない症候群が始まる。無給休暇なのでだれにはばかることはないのだが、来月の給料はまた限りなく0に近いだろう・・。
私にとって絵を描くとは、描くことであり、書くことでもあり、思索することでもある。今何を考えているのか、考えなければならないことなのかを書きながら、描きながら考えている。奇妙な話だけれど、実際の話何を書くのか、描くのか決めていないので、描き始めなければ何も出てこない。書き始めて「あぁわたしは今こんなことを考えているのか」と分かるわけだ。その思索の過程がこのブログになったり、作品になったりして残ってゆく。それを読まされる、見せられる読者、観覧者は迷惑な話だ。
このところ考えていたいたのは、デッサンのことだな。上手くかけるかどうか分からないけれどやってみる。
我々が物を見ているのは実は二つの眼で違うものを見ている。三次元の空間を把握できるのは実はそういうことがあるからで、昔草原の小動物が獲物をとるテレビをみたことがあるけれど、小さな耳を音のする方に傾けて微妙に首を動かしながら距離を測っていた。二つの眼で見るというのはそういった意味がある。まぁ数学で言う三角測量みたいなものだな。
ところで、違う像を見ながら実際は頭の中で上手く統合して一つの像として感じている。だからまぁリアルな像ではないバーチャルな幻影を見ているのだということができる。ここで大事なことは物事というものはいつもさまざまな方向から見てゆくものだということだ。そういった習慣が、実は遠回りのようでありながら、物の本質をつかむ又表現する大きな道具となるのだな。
話は少し変わるが、テレビやパソコンの画面の像というのはご存知のように小さな点の集まりで出来ている。拡大すればはっきりそれはわかる。いままぁ一つの画像(花)を3x3の9つの白黒のモザイクで表現すると、9段階に分かれた白黒のグラデェーションで表される。まぁ何がかかれているのかそれを見ただけではわからないけれど、とにかく一つの画像ができる。形は単純化されているけれど白地図を塗り分けるように諧調を作り出すことができる。これをマッピングという。白地図化とでもいうのかな。
そのモザイクを段々数多くして諧調も複雑にしてゆけば段々にリアルな画像になってゆく。それはよくあるコンピュータ処理で見かけることだな。100年ほど前の印象派のスラーなどがやろうとした点描というのはまぁ来れに近いようなことだな。
このやり方の面白いところは遠いところも近いところも、側面も正面も縦も横も、全て同じ価値をもつ一つの点に還元されるところだ。人間の眼ではなく、機械の眼が一番得意とするのはそのところだ。写真とかそれを使った印刷、そこから発展したテレビやパソコンの画像の面白いところでもあるし、妙に奥行きのない、軽い画像であるのはそんなところに理由がある。
理論的に言って、デッサンもそういった機械のような眼になって全てを無数の点に還元してしまえば、小難しい奥行きの表現、正面や側面や手前や後ろ回りこみなど意識しなくてもいいわけだ。全てが同じ価値をもつ一つの点に還元できればね。
ところで、アメリカのデッサンの指導書やよくあるハウツーもの「・・の描き方」のようなものには、言い方はそれぞれ違うけれど、大体上のようなことが色々な作画例をもとに書かれている。それがまぁ一般に一番理解しやすいデッサンの方法かもしれない。写真や印刷物から絵を描く場合、もともと奥行きのない平面であるわけだから、この考え方でだいたいいいだろうな。
現実の世界でも片目をつぶって平面的にものを見た場合、こういった方法で描写することは可能かもしれない。でもまぁ、普通は三次元でみた立体的な空間を、二つの眼で見たバーチャルな幻想を一枚の絵にまとめて描くという離れ業をするわけだ。そこのところが一番ひっかかるとことだと思う。
普通に何も考えないでやると図形的な遠近は描ける。まぁ遠近法などという画法を一応学習しているので大体の輪郭は訓練さえすればそう難しいものではない。難物は回り込んでいる側面とか奥行き、その面の表現だろう。最初は頭で考えてあぁ側面だ、縦だ横だなどと描こうとする。そうするとぎこちない設計図のような絵になってしまう。
上手い表現はまだ出来ないのだけれど、ものには輪郭線はないということかな。輪郭線というと面はそこで終わってしまう。実際は面は続いていて向こう側に回っているわけだ。輪郭線があってその中を塗り分けるのが、上で書いた方法で、輪郭線などなく「面で描く」というのが立体を平面に描く方法だ。具体的にはもう少し研究しなければならないが興味があれば又書きましょう。
ところで、上の話は物の描写の話だけれど、私が描いている絵はまったくそんな約束事からはなれている。いやあえて無視している。ものの描写はしない。絵は描かない。上手く描かない。作為的に成らない。出てくるのを待つ。空想で描く。物を見ない。出来るだけ自由に心を遊ばせる。そこから連想するものをかければいいと思っている。
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