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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 「美術の窓」七月号寸評p173
 *「時分の花」とは世阿弥の「花伝書」の中にある言葉である。若いときには若いときの花があり、老人には老人の花があるという意味。ふたつのパートからなっていて、右のほうには車椅子の老人、そばに別の老人が座っている。左には能を舞う人がいる。画面から独特のリズムがあらわれてくる。・・・以下略

 今地方を巡回している今年の国展の展覧会の寸評が出ている。昔は各新聞社も必ず団体展の展覧会評を掲載していたものだが、いつの間にかほとんどの新聞は載せなくなった。単に名前の羅列で終わっていた展覧会批評など意味のないことだったが、それはそれで載れば励みにはなった。誰も見てはいないのだけれど、当人にとっては大事なことだったな。

 この「美術の窓」の団体展批評は最後まで残った珍しいケースのように思う。一つ一つ画像も掲載されているし、何よりも只であるというのがありがたい。その分著作権など細かい事は主張しないという暗黙の了解で成り立っているようだな。明文化はされていないけれど。
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  今日は忙しい一日だった。午前中山口画廊の山口さんが今度の個展の絵を取りに来た。少し休んで昼からはバールスローで飯野さんの浅川伯教についての話を聴く。戦前、戦中の朝鮮の焼き物の研究及び紹介に尽力した日本人の話。今でこそ李朝の焼き物と言えばその毅然とした素朴な味わいが好事家の間では人気だけれど、当時は地元の朝鮮でも誰も振り向かないただの民間の焼き物だった。その美しさを発見して窯場を発掘研究して世界に紹介したのがこの浅川伯教・巧兄弟だった。興味ある話ありがとうございました。

 展覧会のご案内二つ。
 「第21回スクエア展」 
併設「保坂公久個展」

6月21日(火)から26日(日)まで
山梨県立美術館県民ギャラリーB
21日正午から 26日午後4時まで


山梨美術協会
東日本大震災復興支援 チャリティー展

2011年6月22日(水)~27日(月)
午前10時~午後7時 
(22日は午前10時半から、27日は午後1時まで 
【会場】 山交百貨店 5階催事場

diarys.jpg

diary
F3  2011
チャリティ展出品作
 




 
はる 3646
 原発の事はあほらしくて、ばかばかしくてもう話題にしたくほどだ。これほど国が国民をないがしろにしているとは思わなかった。多くの人はそれでも国を未だに信じていて、悪いようにはしないだろうなどと考えているようだ。

 今頃になって放射能の値を計りだしてあまりに高濃度などで驚いている。もう既に原発の爆発から三ヶ月以上過ぎてしまって、あらかた大きな濃度のものは出てしまった後なんだ。一番凄い濃度の時は3/15日前後でその頃の濃度を10,000とするとたとえ今から原発が爆発しても10,001になるか10,002になる程度だ。(武田さんの説より)

 今からやれる事は出てしまったチリを出来るだけ飛ばないように、染み込まないように、拡散しないように、一箇所に集める事だけだ。国は悠長に傍観しているのではなく、揚げ足取りの茶番をやっているのではなく、積極的にメッセージを出して、人員も出して一日でも早く掃除する事だろう。それでもどうなるか今までの経験がないので分らないのだけれど、今やらなければ半世紀人が住めない場所がどんどん広がって行く事になるだろう。

 我々はモルモットみたいなもので、いまだかつてこれほど狭い地域で、人口の密集地近くで放射能汚染があったことがないので、興味津々で見ていると思うな。それでも我々はここを捨てて生きては行けない。私たちはここで生きてゆくという選択しかない。

 しかし、もしこれからの若い人たちがここを出て行くというならば引き止めることはできない。出エジプト記みたいな悲劇だな。



 
はる 3645
 はっきりとした方向が見えていたわけではない。当たり前に取材して構想を練って下絵を描いてという手法がまどろっこしくて、物事の説明で終わるような気がしてね。どうにも自分のがさつな性格には合っていないように思えた。

 それに、下絵を描いている時のウキウキとした楽しい気分が本画になると感じられないのも不満だったな。どうなるか分らないけれど、手探りで試みている時の方が絵を描く醍醐味があるような気がしたんだな。

 いつ頃からかなぁ、まったく下絵を描かなくなった。大きい絵でも小さい絵でもほとんど同じで全てぶっつけ本番で、絵の中に絵を探すという全く成り行き次第でどうにでもなる描き方に変った。だから見る人がみたら、全くでたらめなことを平気でやっていると見えるだろうな。

 絵の中に何かしらの物語があるのが好きだ。人によってはそういった文学臭を嫌う人がいるけれど、私はあるものを否定する方が不自然だと思うな。形ある絵には元々物語がついているのだ。人は形あるものを見た時に自然に何かしらの物語を感じているはずだ。抽象的に美しいと言うこともあるけれど、それもどこかで見た風景や光景の一時のかたちであったのではないかな。よくわからないけれどね。

 まぁ凄く難しいのだけれど、だからと言って挿絵のように物語の説明に始終してしまったら、それはそれで違う。

 ここでまた眠くなった。すまん。

 



 
はる 3643
 美術部の生徒から「美大に行きたい」という相談を受ける。そうだな、彼らは簡単に将来の夢として画家とか工芸家など作家活動が出来ると考えているんだろうな。わかる、わかるから余計に心配してしまう。本当に真剣にそれでいいのかなんてね、美大など出ても作家など簡単にはなれないのだよと口から出そうになって、飲み込んだ。余計なことだよな。

 自分のことを考えて職業として選んできたという自覚はあまりない。色んなことをやってきて、最終的にこうなってしまったというのが本当のところだ。きらきらと輝いて、希望に満ち溢れて作家を志望して来たわけではない。だからまぁ、あまり夢を壊さない程度に勧めるしかないか。

 誰かが書いていたけれど、「作家」は人として最後の職業だから最後までとっておけと。世界一周して最後に作家になってもいいし、もっといえば泥棒やって最後に作家になってもいいわけだ。人生の経験が全て無駄なく肥やしになるのが作家だといわけだな。そこまで待てということか。

 



 
 小品のアイディアというのはとても難しい。普通絵は何かしら具体的なものを描写されていて、それが何であるか分るというのが最初の一歩でしょう。何が描かれているのか分らないものなどほとんどの場合、作品にはならない。凄く名前のある人なら別だけれどね。

 だから最初は何か具体的な物や風景をスケッチやデッサンを基にして作品にして描いてゆく。ところがスケッチを基に描くのは簡単な事だけれど、ただそれだけで終わってしまう。誰が描いても大した違いはない。また一枚のスケッチからニ三枚も描けばそれでネタは尽きてしまう。

 右のものを左にして、さらに何かを加えて組み合わせても高が知れている。それに自分自身が描く事に飽きてくる。年に30枚も描かねばならないのだから、最初の一年はなんとかしのげても、次の一年はもうアイデァが尽きてしまう。

 それでも4,5年は何とかやれていた。しかし、そろそろ限界に近づいていたように思うな。自分自身がもう面白くなくなって来たんだな。

 油彩画を止めるきっかけもそこらあたりにあったのだと思うな。
 
 物を描写するという基本的なことから離れた場合、モチーフは自分の心の中を見つめるしかない。これがまたなかなか難しい仕事で、それが絵になって見えるものになって、それに多くに人を巻き込めるようにはなるには時間がかかる。

 今日はここまで、もう少し書くつもり・・。
 




 
はる 3641
  震災から三ヶ月が過ぎた。何かが変ったかといえば、何も変っていないような気もするし、まったく変ってしまったようなきもする。政治はあいも変らず茶番ばかりを演じていて、日本の不幸はこんな政治しか持てないというところから始まっている気がするなぁ・・。

 なぜ未だに一企業である東電が事故処理に当たっているのだろう。もう既に一企業が何とかできる規模をはるかに超えてしまっているだろう。下手すれば日本の国土が半分になるかもしれないという事態なのに政府はなぜ傍観して指図しているだけなんだろう。東電などは基本的に営利を目的にした私企業なんだから、安全より儲けを選択するに決まっている。そんな企業に事故処理を任せていいのかね。

 「健康に直ちに影響はない」などと言ったのは、基本的に放射能の被害がどういうものか知らなかったからだと思うな。日常生活していたら、普通に生活していたら「原発は安全だ」という宣伝で洗脳されているから、爆発するなど考えもしなっかたからね。爆発したら放射能のチリが撒き散らされて、ほぼ全員が被曝するなど、もし知っていたらあのような対応はできなかっただろう。

 で、本当は国民の側に立って一番最初に警告を発しなければならなかった組織は原子力安全委員会だったんだな。これがまったく役人根性丸出しで、何の役にも立っていなかった。こやつらが一番悪い。仕事していない。何知らぬ顔でテレビの前に出ていることが許せんな。

 地震がおきたら原発は壊れる、壊れたらどうなるかということを彼らは知っていた。知っていたにもかかわらず、知らない振りして済ませていた。基本的に事なかれ主義で、自分たちの担当の時期さえ無事に過ぎてしまえば、後はどうでも良かったからだ。何もおきないでくれ、おきてしまえば運が悪かっただけと考えていたはずだな。「すみませんでした」と頭を下げさえすれば、時がやがて解決してくれる。今までもそうだったからね。

 
 



 
はる 3640
 一日下地のコラージュから次の壁土を塗り込んだりする。小さい作品は同時に70~80点取り掛かる。ほぼ一年分の下地を一気に作ってしまう。ただこれがそのまま作品になる事はほとんどなくて、気に入らないとどんどんつぶして上に描いてゆくので、おおよそ二倍以上は描く事になるだろう。これが多作なのか、少ないのかよく分からないけれど、私にとってこれが限界かな。

 一つ一つにはあまりこだわらない。どんどん作業を続ける。何も考えない、考えていては前に進まない、無作為状態。面白い、いいと思ったものがいいと自惚れている。今は考える時ではない。どんどんやる。体育会的なノリでやってゆく。

 今の状態だけ見ればほぼ抽象画だな。でもこれでもけっこういい作品があるんだな。下手な絵を描くよりずっといいと思う事がよくある。まぁ言ってみれば自然の一部を切り取ったみたいなものだからね。私と言う人間を通して表現されてはいるのだけれど、私はほぼ無意識状態で作為的なものが抜け落ちているからだ。だからそうするためにには一つ一つで留まって考えていてはいけないのだな。これも修行みたいなものだ。

 で、ここからが難しいのだな。この中に自分のイメージを見つけるのだけれど、描けば描くほど作為的でつまらない絵になってゆく。でまた壊す、描く、壊す、の繰り返しになる。どこで終了するかだな。

 イメージもまたどんどん搾りだす。とことん搾ってもまだまだ出て来る。自分を出すなんてことはまだ甘っちょろい。とことん出して、自分を通り越してその向こうにあるものまで出してしまう。出てしまったというところまでゆく。そこまで行かなければ本物にはなれないのじゃないかな。
 
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「浅川伯教・巧について語る会」
 時   2011年6月19日(日) 
12:30~3:00
 場所 Bar Slow バール・スロー
    山梨県甲府市丸の内1-19-21       
TEL/FAX 055-226-8625
   peace@bar-slow.com
 

講師 飯野正仁
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