画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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さて今日は久しぶりのクロッキーだった。
はる 2819
今日の新聞に「さようなら」について書かれていた。日本人はなぜ分かれるときに「さようなら」といって別れるのか?ということなのだけれど、普通なにげなく使っている言葉にも深いわけがあるんだな。あらためて言葉の奥深さを思った。
(これから書くことは私の推測も含むので間違っていてもあしからず)例えばgood byeにしてもgood luckにしても神のご加護を!とか幸運を!という風なニュアンスがある。そういえばgoodとGODは紙一重だ。そんなところにもその民族の思想が現れているわけだ。今調べてみるとやっぱり(God be with ye)の簡略系らしい。
see you againとか再会は同じような意味だな。また会いましょうってことだ。
で、「さようなら」は「左様ならば」から来ているらしい。これはその前の二つの意味とは明らかに違いがある。「そうであるならば」とか「時が来たから」とか「そういうことになってしまったならば」「別れたくないのだが、仕方が無いけれど」というふうなニュアンスが含まれているように思うのだな。
明らかに自分の意志ではない不可抗力の出来事や事態が起こって、仕方なしに別れることになってしまった、という風なある意味あいまいな言い訳がましい雰囲気が含まれている。
まぁ良くも悪くも我々日本人の生き様をあらわしているようだな、何か抗ってもあらがいきれない「おおいなるもの」の力の中で生かされていて、ある種の無常観とか厭世観みたいなものが現れている言葉だと思う。
例えば先のキリスト教の世界観であるならば、神によって人は見守られて、あらゆる場合に自ら選択して生きている。何と言うのか神の庇護の元といいながらも実は人が中心にあるように思うな。それが西欧型の能動的な世界観を作ってきたのではないか。
ところが我々日本人は比較的温暖な気候に恵まれて、四方を豊かな海に囲まれて大地は放っておけば草木がやたらと繁茂する。いたるところに生き物の息吹が感じられ、魑魅魍魎の化け物と八百万の神々が渾然と一体になっている混沌の世界に住んでいる。人も単にそんな一つの生き物に過ぎないといった受動的な世界観が生まれるのは自然なことではないのかな。
まぁちょっとそんなことを思った。
はる 2819
今日の新聞に「さようなら」について書かれていた。日本人はなぜ分かれるときに「さようなら」といって別れるのか?ということなのだけれど、普通なにげなく使っている言葉にも深いわけがあるんだな。あらためて言葉の奥深さを思った。
(これから書くことは私の推測も含むので間違っていてもあしからず)例えばgood byeにしてもgood luckにしても神のご加護を!とか幸運を!という風なニュアンスがある。そういえばgoodとGODは紙一重だ。そんなところにもその民族の思想が現れているわけだ。今調べてみるとやっぱり(God be with ye)の簡略系らしい。
see you againとか再会は同じような意味だな。また会いましょうってことだ。
で、「さようなら」は「左様ならば」から来ているらしい。これはその前の二つの意味とは明らかに違いがある。「そうであるならば」とか「時が来たから」とか「そういうことになってしまったならば」「別れたくないのだが、仕方が無いけれど」というふうなニュアンスが含まれているように思うのだな。
明らかに自分の意志ではない不可抗力の出来事や事態が起こって、仕方なしに別れることになってしまった、という風なある意味あいまいな言い訳がましい雰囲気が含まれている。
まぁ良くも悪くも我々日本人の生き様をあらわしているようだな、何か抗ってもあらがいきれない「おおいなるもの」の力の中で生かされていて、ある種の無常観とか厭世観みたいなものが現れている言葉だと思う。
例えば先のキリスト教の世界観であるならば、神によって人は見守られて、あらゆる場合に自ら選択して生きている。何と言うのか神の庇護の元といいながらも実は人が中心にあるように思うな。それが西欧型の能動的な世界観を作ってきたのではないか。
ところが我々日本人は比較的温暖な気候に恵まれて、四方を豊かな海に囲まれて大地は放っておけば草木がやたらと繁茂する。いたるところに生き物の息吹が感じられ、魑魅魍魎の化け物と八百万の神々が渾然と一体になっている混沌の世界に住んでいる。人も単にそんな一つの生き物に過ぎないといった受動的な世界観が生まれるのは自然なことではないのかな。
まぁちょっとそんなことを思った。
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無題
昔大学で国文学の勉強をしていた頃、よく能と狂言を観に行ったものですが、「狂言」の登場人物たちが最後に「さらば」「さらば」と言い交していた姿はとても印象深いものでした。会いがたき世にこうして会えたのだけれど、いまはまた別に生きねばなりません」という切実な言葉でした。明日をも知れぬ日本中世の室町という時代の雰囲気がありますね。僕たちは新たな「室町」時代に生きていて、だからこそ「さらば」ということばが痛切に響きます。ではまた。
おひさしぶりです。
前回と昨日のお話を読ませていただきました。はるさんお引越しされてから初めてお邪魔したんですが、やっぱりはるさんの書くものはおもしろいです。
私も自分の仕事がつくづく嫌になるときがあったのですが、(広告屋ってまやかし系としては、銀行の次かなって思うので。笑)このごろそうでもない部分も見えて、また前向きに取り組んでいます。
1月に仕事で甲府に行ったので、県立美術館に寄って、はるさんの「平均律」の本物を観て来ました。「これか~」と思いながらしばらくたたずんでしまいました。思えば自分が絵を始めてからはるさんの絵(本物)を観せてもらうのも初めてでした。赤が、ほんとに美しくて、癒されました。
私も自分の仕事がつくづく嫌になるときがあったのですが、(広告屋ってまやかし系としては、銀行の次かなって思うので。笑)このごろそうでもない部分も見えて、また前向きに取り組んでいます。
1月に仕事で甲府に行ったので、県立美術館に寄って、はるさんの「平均律」の本物を観て来ました。「これか~」と思いながらしばらくたたずんでしまいました。思えば自分が絵を始めてからはるさんの絵(本物)を観せてもらうのも初めてでした。赤が、ほんとに美しくて、癒されました。
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