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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2956
 地元の駅前の路線価が一時の十分の一になったそうだ。100円のものが10円になったということで、まぁこれだけ落ちれば反対に何も怖くないと居直るしかないだろう。何もしないでただ眺めているだけでは多分もっと落ちるだろうな。他人事ながら寂しい。

 東京近郊の田舎というのはどうしても都会の吸引力に負けてしまう。特に活動期の若い人は地元で働くより魅力的な都会に行きたくなるのは止めようがない。かつての自分達がそうであったし、地元の街がどうなろうと知ったことではない。勝手にしてくれ、私は街に出ますということだ。

 今のここには何の魅力もない。何とかしなければという気概もない。街のお役人は自分の給料さえ確保してくれれば、街など放っておいても痛くも痒くもないようだ。まぁ役人が何とかできるものでもないかもしれないけれどね。

 さてならばどうする?

 都会と同じことを志向してはだめだと思う。都会の魅力で勝負すれば、東京にはどう頑張っても負ける。銀座通りと名づけること自体腹を見せているようなものだ。

 一昨日のスローフードの設立総会に参加して、新しい農業を試行している若い人や、ワインや醸造関係の何代目かの当主が集まって都会にはない、ここでしか実践できない生き方を試行するそんな気運が熱く感じられて面白かった。

 単に自分達の領域の利益だけを考えて、例えばワインの売上をどうすれば伸びるかとか、効率よく観光客を呼ぼうとか、そういったことだけを考えると、今までと同じような利潤追求型の便利・効率がすべてという発想と同じことになってしまう。資本は大きい方がいい、儲けは多い方がいい。確かに資本主義社会だからその通りなんだけれど、言ってみればそれで人間は幸せになれたかい?とうことだ。

 これは凄く大きい文化運動である気がしている。ゆっくり食べることはゆっくり生きることであり、食も着ることも住む事も全てひっくるめてゆっくり楽しみましょうよという文化運動でしょう。

 考えてみれば戦後日本は貧しかった。凄く物質的に豊かなアメリカにあこがれた。まぁこれに追いつくために色んなものを捨てて効率と便利を優先して駆け上がって来たんだな。その甲斐あって物は豊かになって、食い物に不自由することはなくなったのだけれど、そのかわり生活に余裕がなくなった。

 人の楽しさは何だろうか。確かにゲームやケイタイでバーチャルなコミュニケーションが成立しているようだけれど、いっせいにケイタイの画面を覗き込んでいる姿は異常ではないか。

 例えば壁に絵を掛ける習慣が無くなってしまった。昔は、そう床の間があったり玄関にちょっとしたスペースがあったりした。四季折々の花や額を飾ったものだ。今はそういった住に関しても楽しむ余裕がなくなった。絵だけ売ろうとしても生活そのものに絵を楽しむ習慣がなくなってしまったのではありえないわけだ。

 まぁ遠大な計画だけれど、意味あること、意義あることのように思うのだけれどね。

 
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