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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3165
「セザンヌ2」
吉田秀和「セザンヌ物語」よりp322
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 この点で、セザンヌの芸術家としての歩みはベートーヴェンに比べてみることができる。この音楽家も、初期の段階を過ぎたあと、ほぼ30歳頃から力強い充実、雄渾という点で、第一線の名作を次々と制作したあと、最後の10年間ほどになると、大勢の人に向かって語りかけるというより、孤独の中で自分--あるいは自分を超えた何者か--を相手に、ひそかな問答を行う世界に入る。だから初期の後、古典的充足期をもち、それに引きつで晩年の作風となると、その音楽には、戦いより宥和と疑惑を選び、情熱の激しさよりも恍惚の光と影が交錯するようになる。一口で言って、ここにも、ある超絶的なものへの接近、あるいは「観ずるより想する」ことにアクセントのおかれた生き方の反映としての芸術が生まれてくるのである。
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 今朝のFMかなゴンチチの「快適音楽セレクション」で「名人の音楽」というのをやっていた。まぁその中で「名人、天才のい域になると、私が・・と強烈な自己主張がない」というコメントが耳に残った。

 ベートーヴェンの交響曲などをきいていると、「私はがんばって、がんばって努力してここまで来ました、ナムサン」という声が聞こえる。それはまぁ一人の天才芸術家の叫びではあるのだろうが、最初は納得できるし、共感もするのだが、次第に疲れてくる。ところが晩年のピアノソナタあたりになると、もっとおちついた一人の祈りのかたちになってくる。ここには「私」というものが抜け落ちている。

 前にも書いたけれど、人との違い、個性、私がわたしが・・と際立たせて行くと、結局自己満足のひとりよがりの物しか出来ないのではないかと思う。

 本当はオリジナルというのは「源泉」ということであって、「多くの人に共通しているもの」を見つける探す、表現する、したものを言うのではないだろうかね。
 
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