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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3169
 「セザンヌ6」 吉田秀和「セザンヌ物語」より
 この多視点というのと「部分が全体」というのとどう結びつくかということだな。まぁここからは全く嘘八百になるのであしからず。

 多視点で描くというのはどういうことなんだろう。反対に考えれば、普通は一つの視点で描いている。一つの場所で、ある一定の時をストップモーションをかけて止まっているようなものか。まぁちょうどカメラやビデオのストップをかけたようなものか。

 けれど、普通生きている限り時間が止まったような瞬間を見ることはないわけで、必ず時間は動いているし、微妙に場所も動いている。

 以前、アメリカの現代作家のホイックニーが京都を旅して、竜安寺の石庭をランダムに写真に撮影してそれをまたコラージュして作品にしている様子が何かで」紹介されていたけれど、人の記憶というのは案外こういったもののような気がする。

 人が生きて活動している様子を記憶に残った特徴的なものだけを拾っていくと多分大変奇妙で面白いものになるだろう。とにかくそれの中心に存在するのは自分で、それから自分にとって大事なものが大きく描かれる。取るに足りないものは小さく描かれてやがては消えてゆく運命にある。まぁ完全に消えるのではなく潜在意識の中に入ってゆくということかな。で、何かのときにふと浮かんできたりする。・・・

 セザンヌの話とは少しずれてしまったな。元に戻そう。

 そうやって考えてみると、彼はとにかく一つの画面に多くのことを描きたかった。多くの情報をそのものがそこに存在するということを、そのすべてを描いておきたかったのだ。ストップモーションのようにある時、ある場所からの一つの方向からの情報ではなく、そこに私が居ました、立って周りをぐるりと歩いて得た情報も描きたかった。その結果出来上がったものは閉じられた一つの宇宙のように思える。

 多視点を今便宜上無限大に増やしてみる。ありとあらゆる方向と過去から今までの時間を加えてみるとそれは閉じられた一つの宇宙を作ったことにならないかな。

 以前にフラクタルの理論というのを聞きかじったことがある。これもどこかで書いたことだけれど、簡単に言えばロシアの入れ子の人形みたいなもので、親亀の中に小亀が入っての中にまた孫亀が入るにたいなものか。どこまで行っても最初の形を維持している。

 例えば宇宙のある一部分をサンプリングで取ったとする。まぁ凄く特殊な場所もあるのだろうけれど、可能な限り大きく取ればそれも含めたサンプルが取れるわけだ。その宇宙のサンプルの組成は結局全宇宙の様子を暗示しているわけだ。だから極端に話を進めると、我々の脳内や遺伝子情報を知ることは宇宙の組成や成り立ちをしることでもあるわけだ。

 セザンヌの言っていた「小さな感覚」と言うのはこの宇宙観のようなものではなかったか。そのことがセザンヌのいう「部分が全体」という意味ではないのかな。
 
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