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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 そうそう、今朝はイタリアにいた時にお世話になったタカシさんから電話があって、今ナルニ市の市庁舎に展示されている昔のカズハルの絵をブログにアップしてあるので見てくれということだった。あぁとても懐かしい絵だな。
「イタリアの真ん中で暮らすウンブロクンのブログ」ここです。
ホームページは「イタリアの真ん中で暮らす」

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勝手引用「デッサンと模写の違い」
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
/qa/question_detail/q1125175971

***
・・略・・
デッサン……眼の訓練。手の訓練よりもはるかに「眼の訓練」です
世界の中にあるものを、どう見るか。
はじめは、ただ漠然としか見えない。
でも、そのものを紙に写そうとしてがんばっているうちに、実にさまざまなもの、ありとあらゆるものが見えてくるようになります。
光と影。かたち。マッス。対象のムーヴメント。そこに漂う「気配」のようなもの。そして、対象の「物語」まで……。
「良いデッサン」をじっくりみると、画家が、そこになにを見ていたか、なにを見ようとしていたか……そして、その画家が、どのような「眼」を育てていったのか……そういうものがあらわれてきます。
画家は、本絵では、多少とも「つくる」傾向があるが、デッサンは、その画家の持つ「眼」に最も正直です。
デッサンは、「眼」の訓練として欠かせないものと考えます。

模写……手の訓練。眼の訓練を生かして絵を「つくる」手の訓練です。
画家にとって、本絵は、世界と対峙する真剣勝負の世界。
なので、画家は、自分のこれまでつちかったすべてを総動員して本絵を「つくり」ます。
その画家のつくった「本絵」を模写することは、その画家の本絵をつくるための「手のスキル」を自分に移す行為です。
模写をすることで、その画家がその絵をつくっていった「構造」があきらかに感得されてくる。
なので、模写の基本は、同一支持体、同一画材、同一寸法……そして、もう一つ、これは理想ですが同一光源、ということになると思います。
ちなみに、本絵の模写をする人は多いが、デッサンの模写というのはあまりききませんね
模写が、「手の訓練」であることをあらわしているのだと思います

・・略・・
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http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
/qa/question_detail/q1125817051

・・略・・
<眼の訓練>、つまり、<ものを視る訓練>というのは、ただ、じっとものを見ているだけでははかどりません。ものを見て、それを描いてみる、つまり、自分が<見た>と思ったものを、見えるとおりに描いてみる。描いたものと、見えているものを較べてみると、<もの>に、いままでとちがった面が見えてきます。

単純に光と影の問題だけをとってみても……自分が見ていると思ったとおりに光と影を描いてみることによって、対象のもっている陰影の状態が、よりはっきりと、正確に見えてきます。で、それを、見えてきたとおりに修正する。すると……また、より深い側面が見えてくる……といったように、<見えているとおりに描いてみる>ことによって、自分のものの見方が、どんどん変化して、対象をより精細に、またより正確に見られるようになってくる……つまりは、<眼の訓練>です。

デッサンは、元来がこういうものだから、デッサン自体をよりうまく描こう……ということはないのだと私は思っています。
プロなら、デッサンを一瞥しただけで、その人の<眼の訓練>がどれだけできているか、簡単に見抜いてしまいます。その人が、どういう<眼の訓練>をやってきたのか、今、どんな状態にあるのか、そして、何が問題なのか……等々。
デッサンは、その人の今の状態をすべてさらけ出してしまう、ある意味オソロシイもんですよね。

油彩なんかですと、デッサンがそのまま本画につながっていくようなところがありますから、「デッサンが必要」というのはだれにもわかりやすい。(でも、実はそれは表面上のつながりしかみていないんですけど)
質問者様のように、直接的なつながりがないデザインに、なぜデッサンが必要なの?という疑問は、ある意味当然だと思います。

しかし……デッサンが、<眼の訓練>であることを考えますと、これはやはり必要不可欠といってよいと思います。
私たちの眼球は、それ自体が高度な情報処理能力を持っていて、その情報処理は、直接脳につながっている……つまりは、眼球は脳の出先機関みたいなものです。
ということは……私たちは、常日頃、<あるがままに>ものを見ているというよりは、<見たいように見ている>、すなわち、私たちが<見ている>と思っているものは、実は、脳にあるイメージのフィルタを通して見ているということです。

デッサンによって<眼の訓練>をしていくと、このフィルタが少しずつ外れてきて、<そこにあるそのもの>の姿が、徐々に見えるようになってまいります
これは、実際にやってみられると良くわかるのですが……脳のイメージのフィルタ一枚一枚がとれていく感覚は、ある種の快感でもありますね。(病気が治っていく……とか、そんな感覚に近い?)

眼を使う仕事においては、常にニュートラル、つまりフィルタがかかっていない裸眼状態から出発しないと、今自分がいる位置さえわかりません。そして、自分の眼をこのニュートラルに近づけていく一番いい方法としては、今のところデッサン以上のものはありません。
ということで、デザインにおいても、やはりデッサンは必要なのだと考えます。
・・略・・
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