忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[94]  [95]  [96]  [97]  [98]  [99]  [100]  [101]  [102]  [103]  [104
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 
 今年の夏から来年の春にかけて個展が3つある。これが多いか少ないか作家によるのだろうけれど、私にとってはこれが限界だな。特に来年の頭にある個展は銀座のデパートの前回と同じでかい会場が計画されていて、この時期にあの箱でやるのはけっこうプレッシャーがかかる。本来それほど大衆的受けする絵柄ではないので、大入り満員は期待できないな、まぁ淡々と今まで通り自分の仕事を見せてゆくしかない。それでだめなら仕方ない。

 私の作品はキャンバスに描かれたものではない。よく誤解されるのだが、油彩画ではないのだ。日本画のようにパネルに綿布や麻布を直接水張りしたものを使う。これが又数が多いので、けっこうな作業ではあるのだな。やる時には一度に50枚ぐらいの水張りをする。

 この間、阿修羅像が乾漆造だというのを読んで調べてみる。漆という自然素材を使ってはいるけれど、その上に麻布を何枚も貼りこんで、さらに木の粉やオガぐずを漆に混ぜて形を整える。これって今のミクスメメディアではないかと思った。
PR



MSK
はる 2905
 「心の拠り所3」
 今日もまた徒然に、結論はありません。あしからず。

 「幽霊の正体みたり枯れ尾花」この歌の意味はけっこう真相をついている。幽霊に限らず、お化け、霊、怨念など、こういった類のものは人の作り出した幻にすぎない。「怖い、こわい」と想う心がそういった幻影を生み出すわけだ。

 自分の鬱気質や強迫観念症がどこから来たのか、たぶんに遺伝的なものがあるのだろうけれど、だから仕方ないと考えるのではなく、表面的なものではない深層のところまで降りて意識下に持ってくればコントロールが可能になるように思う。というのかそういったことに興味がある。

 「医者が必要な者が医者になる」という伝でいけば、私には絵が必要だったのか?どうも「絵」ということになるとそうでもないきがするんだな。どちらかと言えばこうやってノートやパソコンに向かって心の中を探りながら文章を書いている方が向いているような気もする。こういうのを何というのかなぁ。私の絵のタイトルで言えば「思索家」だけれど、だからといってこれが文学として鑑賞にたえるものかといえば、全くの×だ。くだらないぼやきみたいなものだ。

 ただ何かしら具体的な「心の拠り所」がほしかった。それは「ことば」でもよかったし、「もの」でもよかった。音楽や文学や絵画でもよかった。何かしら変わらない真実とか真理とか理のようなものが欲しかったんだな。無我夢中で手探りでやって来たけれど、それが今の絵の形になってきたわけで、そういった意味では「絵が必要なものが絵描きになる」というのは意外にあたっているかなと思う。

 恐怖というのは想像のなせるわざだ。想像力のあるものだけがそれにおびえるのだ。具体的に脅かされたり襲われたりしたわけではない。多分その恐怖の種は自分の作り出した幻影なんだ。

 ではその幻影の正体は何かということだな。で話は元に戻ってくる。古今東西、人は安住の地というのをいつも求めている。実際にはこの地上にはエデンの園のような安住の地は存在しない。母親の胎内から滑り落ちた段階から、イバラの道が待っているのだ。けれど少しでも自分にとって居心地がいい環境に居たいと思うのは本能に近いものだろう。

 いつしかその居心地のいい環境が破られて着の身着のまま放り出されるのではないか、楽園を追放されるのではないかというのが潜在的な恐怖の源だ。実際はそんな楽園も安住の地も幻に過ぎないのだな。 

 またまた迷路に入ってしまいました。ではでは。

 



 
はる 2904
 この間の心の拠り所の続きかな。もう少し考えてみたい。徒然に書くので結論のでる話ではない。

 人はというのか万物はと言っていいかな。我々のような意志をもったものも、また自然や生命をもたない無機物でさえ、ある一定の方向性を持っている。それは物事は一番安定したところに向かうということだろうかね。

 命があることは、ある意味凄く不安定な状態にある。ちょっとしたことで傷ついたり、また病気になったりしてその命そのものは消えてしまう。消えてなくなってまた無機的な状態に戻ってゆく。それがまだ知りえる形では一番安定している状態だからだ。

 時空を短縮したり伸ばしたりを考えに入れれば、物質そのものもそんなに安定したものではない。前に話したように宇宙は猛烈なスピードで膨張しているように見えるわけだから、他の星から見えれば我々も光のスピードでこの宇宙ー空間をぶっ飛んでいることになる。最終的には素粒子になってまさに宇宙の塵となってばら撒かれることになるだろう。千の風どころの話ではない。

 そうは言っても、生命をもったものの第一の使命は「①自己の個体を維持することであり②自己の遺伝子を残す」ことにある。この世に雌雄が存在するのはそういったことを踏まえて、出来るだけ柔らかに変化しながら、自分の遺伝子を残してゆけるからにしぎない。強いものが残るのではない、変化できるものが生き残るという大きな法則があるからだ。それもまた不安定なゆらぎの中で微妙にバランスを取りならが存在している。そんなところがはかなくて美しい。

 そろそろ本題に入ってゆこう。やってはいけないとか、なってはいけないとか、こうなったらどうしようと意識することは、こうありたいとか、こうなりたいと願望することとほとんど変わらない強い力だ。負の力(オーラー)が強い分天秤にかければこちらの方が勝つだろうな。

 人は人間になる前に(自己の意識が芽生える)かなり多くの禁止事項学習する。あれはいけない、これはだめだ、それもこれもだめだめだめ。言葉にはされなくても物心ついた頃はそういった柵の中に閉じ込められている。多分意識はされないかもしれないけどね。あまりこれはいい、こうしよう、と誉められておだてられて育つことはないのだな。親とか家庭と社会とか組織とかいうものはそういったものだろう。私の家はそういった意味ではかなり放任主義ではあったのだけれど、だからこそ反対に目に見えない大いなる力で説き伏せられているような妙な圧迫感があった。

 不安とか心配の大元は自分の心の中にある。それは天が落ちてきたらどうしよう、明日のパンがなくなったらどうしよう、こうなったらどうしよう、おろおろするだろうか、恥をかかないだろうか、そんなところから出てきているように思う。なんとも暇な話だ。

 とりとめもない話の展開になってきた。今日はここまでかな。
 
 

コン・テ・パルティロ
アンドレア・ボッティチェリ
 
・・横文字に随分と間違いがあったようで、家人に注意されました。お詫びして訂正します。しかし気にしていると書けなくなるので、これからも間違っても許してくださいな・・・
 
 日本人は随分と昔からイタリアの歌が好きだった。我々が小さかった頃訳もわからずイタリアのサンレモには世界的に有名な音楽祭があって、日本からザ・ピーナツや伊藤ゆかりが参加したなどということを聞いて、サンレモがどこにあるのかさえ知らないのに彼女たちは大したものだと感心したりしていた。私が子供の頃だったからもう4、50年も前の話だ。

 ところがこの音楽祭が日本でいえば紅白歌合戦のように毎年未だに続いていて、その音楽祭のCD]も発売されている。日本でいえば札幌音楽祭みたいなもので、一地方の冠をつけてイベントをやるというのはもう随分と昔から行われていることなんだな。

 美術で言えば、ベネチア・ビエンナーレ「現代美術の祭典」はもう100年の歴史が有る。我々はすぐに効果が出ることしかしないからすぐに行き詰まってしまう。この間の給付金なんかもそうだけれど、今すぐ効果が出るカンフル剤のようなものは、その時は元気になるけれど、すぐ又前よりも悪くなる。息の長い支援みたいなものが本当は一番必要なんだろうな。

 ところで、この「コンテパルテーロ」はオペラなのかカンツーネなのかよく分からないのだけれど、最初に聴いたのはどこだったろうか。このお兄さんはかなり濃い顔をしている盲目の天才テナーだ。なかなかハンサムだな。段々に盛り上がって行進曲風になってくるところからがいいぞ。最後歌い上げるところはパバロッティーの歌声を思い出させる。「あんたと一緒に行く」ってなことだろうかね。何度聴いても感動的だ。聴いてみてくれ。



 「そのひとが最も関心があることを
その人はやろうとする。

医者が必要な人が医者になり
教育が必要な人が教育者をめざす」

 ということが書かれていた。なるほどなぁ・・そういうことか。自転車にまだよくなれていなくてよたよたと走っていた頃にこんなことは無かったか?向こうに障害物が見える。そちらに行ってはいけないと思えばおもうほど吸い寄せられるようにそれに向かってしまう。やってはいけない、なってはいけない、と意識すればするほどやってしまう。これって何なんだろうか。不安や心配事は結局自分の中にある観念に縛られているに過ぎないのだな。

 私のこの憂鬱な気質がどこから来ているのかと考えると、親や兄弟との関係に行き着く。五人兄弟の末っ子というのは非常に無責任な立場にいる。ほとんど何にも期待されないし、何か責任あることを任されることもない。反対にある一定のルールさえ守っていればそこそこに保護される立場である。それゆえに立場を守るというのか、分をわきまえるというのか、でしゃばった事はしないという非常に保守的な態度を自然に身に付ける。

 それゆえに、私の不安や心配事の原点はそういった保護された、安住の場を失うのではないか?という不安ではないかと思う。どっちつかずのあやふやな立場を快く思うのもそんな日和見的な保身から出てきているように思う。

 長じてこんなでたらめな生活になってしまったのだけれど、多分子供頃からなってはいけない、やってはいけない生活をいつのまにかしてしまっているのだな。その不安から逃れたいために絵を描いているのかもしれないな。
B1081.jpg
バーミヤンの壁画

2010.jpg
敦煌の壁画

NEC_0253.jpg
 ロシアイコン1(13C)ギリシャ・アトス山の修道士による

NEC_0255.jpg
ロシアイコン2(板絵)

NEC_0256.jpg
ロシアイコン3

torini.jpg
ジョット「鳥に説教」アッシジのフレスコ画
 
はる 2900
 何と切りのいいカウントになりましたね。3000の大台ももうすぐです。少しずつ一日一日積み重ねてゆく。このことの意味は大きいですね。往々にして何とか盛り返そうと一日で一週間分など書こうとするともうだめです。こういった日々のメモの意味が無くなってしまうのですな。たった一言でいい。何か残すことです。それが続けるコツです。

 表現というのはそうやって日々何事かを刻みこんでゆくことの中から生まれてくるように思う。絵を描く事でもいいのだけれど、デッサンやスケッチみたいなものは運動みたいなもので、何も考えないでやってもあまり意味が無いように思うな。運動能力はつくかもしれないけれどね。心を耕すというのかな、思索するというのか、茫茫と考えることも必要ですな。一気にやってもだめなんです。継続することに意味がある。

 矛盾するようだけれど、クロッキーなどをやっていて思うことは、これは運動とよく似ている。ずっとやっていないと忘れるというのか、確かに能力が落ちる。楽器なんかもそうだけれど、昔盛んに練習していた時は簡単に弾けたものが、しばらく弾かないと全く忘れていることに愕然とする。で、また少し練習すると感覚は戻ってくるのだけれど、しばらくやると又飽きてきてやらなくなってしまう。そんなことの繰り返しだ。

 まぁ頭を練るというのと腕を鍛えるというのと両方必要ということかな・・。ついついサボってしまうので、偉そうなことはいえませんが。

 閑話休題
 前から何度かさらした画像もあるけれど、まぁ観る人がみれば私の絵のソースがどこから来ているのか分かると思う。どんな作家も全くオリジナルということはありえなくて、どこからか自分のお気に入りの作品を心のどこかに溜め込んでいる。それが具体的に誰だということはできないかもしれなけれど、確かにあるんだな。それをはっきり意識する、潜在意識に有るものを意識下に呼び戻す必要がある。

 この間の村松さんのメルマガに書いてあったことなんだけれど、例えば作家としてどういう人が有望か?てなことがあった。よくやるのが例えば村上春樹のような文章を書く人はたくさんいる。大事なことは「・・・のような人」はいらないということなんだな。今流行っている作家を真似しても寿命は短い。

 真似するなら最も古いものからもってくることだ。そこにはオリジナルなもの、変わらないもの、またどこにでも有る普遍的な宝物が隠れている。


 そんなことが書かれていて、うんうんとうなずいた。そこのところが大事だな。

 私がこうやって種明かしをしてもいっこうにかまわないのは、そこから何を感じ何を選び取るのかは人それぞれで、それがまた作家そのものだからだろう。真似するならどうぞ御随意に・・。

 
1236517540.jpg
 
 地塗りが終わって、布や土や絵の具を何度か重ねた状態。まだ何を描くのか決まっていない。しかしそうは言いながら、ぼんやりと敦煌の莫高窟やバーミヤンの壁画などの仏や菩薩、もう少し西に出かけてキリスト教のイコンやフレスコ画などがいいなぁと想っている。人が動物から「にんげん」になって、空いてしまった心の内側を埋めるには、どうしても「おおいなるもの」の存在が欠かせない。それがアラーの神なのかイスラムの神なのか古代ギリシャの神々なのか、仏陀や八百万の神なのか知らない。何かそんなものが出てこないか待ち構えている。
 


「ひみつのことば」F30
 で、ゆっくりと現れたのが、こんな人だった。雷が鳴り出したのでここで一先ず終了。

 再開。まぁ途中で泊り込みの仕事があったりしたけれど、ほぼ一ヶ月作品を観ていたことになる。色んなシーンが出てきたり引っ込んだり。人物も10人は出てきた。どれも今の私にはピンと来るものでは無かった。それでも諦めないでからかっていると、突然というのか、偶然と言うのか、形が具体的に見えてくるときが有る。往々にしてあまりに強いイメージは説明画になってすぐに飽きが来る。そんなことを描きたかったのかと自問する。

 まぁそんなところかな。次にタイトルを考える。出来るだけ絵の説明から離れる。離れるのだけれど、それしかないというタイトルが必ず一つは世の中に存在すると信じる。それを見つけるのが作家の仕事でもあるのだ。「私の絵は護符とかイコンのようなもの」ということをどこかで書いた。その言葉が頭に残っていた。それを言葉で言えば何と言うのだろうと考えた。「おまじない」これさえ唱えれば「安心」するというような「秘密の言葉」があればいいなぁ、、などと想ったのだな。そんなところからこのタイトルととなった。
P5240008s.jpg

P5240006s.jpg
 
 「スラムドック・ミリオネラー」を観た。期待はしていなかったが、つまらない映画だった。私に面白さがわからないだけなのかもしれないけれど、昨年度のアカデミー賞がこれだったとはどうしても思えない。テーマというのか何が言いたいのか、インドの混沌とか貧困とか運命とかそんなことが言いたかったのかな。

 そう言えばここではおなじみの義さんの息子さんが映画監督メジャーデビューしました。この夏公開予定だそうです。ちょっとここでリンクしておきますので、観に行けたら是非お願いします。

映画『美代子阿佐ヶ谷気分』公式サイト
P5240007s.jpg


P5240010s.jpg
 
 裸婦ばかりでは飽きる。時々顔の描写を試みる。顔は面白いけれど、一番難物かもしれん。
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)