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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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バーミヤンの壁画

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敦煌の壁画

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 ロシアイコン1(13C)ギリシャ・アトス山の修道士による

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ロシアイコン2(板絵)

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ロシアイコン3

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ジョット「鳥に説教」アッシジのフレスコ画
 
はる 2900
 何と切りのいいカウントになりましたね。3000の大台ももうすぐです。少しずつ一日一日積み重ねてゆく。このことの意味は大きいですね。往々にして何とか盛り返そうと一日で一週間分など書こうとするともうだめです。こういった日々のメモの意味が無くなってしまうのですな。たった一言でいい。何か残すことです。それが続けるコツです。

 表現というのはそうやって日々何事かを刻みこんでゆくことの中から生まれてくるように思う。絵を描く事でもいいのだけれど、デッサンやスケッチみたいなものは運動みたいなもので、何も考えないでやってもあまり意味が無いように思うな。運動能力はつくかもしれないけれどね。心を耕すというのかな、思索するというのか、茫茫と考えることも必要ですな。一気にやってもだめなんです。継続することに意味がある。

 矛盾するようだけれど、クロッキーなどをやっていて思うことは、これは運動とよく似ている。ずっとやっていないと忘れるというのか、確かに能力が落ちる。楽器なんかもそうだけれど、昔盛んに練習していた時は簡単に弾けたものが、しばらく弾かないと全く忘れていることに愕然とする。で、また少し練習すると感覚は戻ってくるのだけれど、しばらくやると又飽きてきてやらなくなってしまう。そんなことの繰り返しだ。

 まぁ頭を練るというのと腕を鍛えるというのと両方必要ということかな・・。ついついサボってしまうので、偉そうなことはいえませんが。

 閑話休題
 前から何度かさらした画像もあるけれど、まぁ観る人がみれば私の絵のソースがどこから来ているのか分かると思う。どんな作家も全くオリジナルということはありえなくて、どこからか自分のお気に入りの作品を心のどこかに溜め込んでいる。それが具体的に誰だということはできないかもしれなけれど、確かにあるんだな。それをはっきり意識する、潜在意識に有るものを意識下に呼び戻す必要がある。

 この間の村松さんのメルマガに書いてあったことなんだけれど、例えば作家としてどういう人が有望か?てなことがあった。よくやるのが例えば村上春樹のような文章を書く人はたくさんいる。大事なことは「・・・のような人」はいらないということなんだな。今流行っている作家を真似しても寿命は短い。

 真似するなら最も古いものからもってくることだ。そこにはオリジナルなもの、変わらないもの、またどこにでも有る普遍的な宝物が隠れている。


 そんなことが書かれていて、うんうんとうなずいた。そこのところが大事だな。

 私がこうやって種明かしをしてもいっこうにかまわないのは、そこから何を感じ何を選び取るのかは人それぞれで、それがまた作家そのものだからだろう。真似するならどうぞ御随意に・・。

 
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