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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2916
 村上春樹の「1Q84」を読んだ。彼の作品は大体読んでいるけれど、本当の意味で文学趣味のない私には難しすぎて理解できなかった。けれど、この作品は面白かった。というのか、今の私のフィットする作品だったなぁ。テーマが信仰とか宗教、宇宙とか遺伝子の話、おおいなるもの、そんなことだったので、今の私には身近なテーマだった。

 普通日常で読んでいるのが馬鹿な剣豪小説か、歴史ものが多いので、こういったフィクションというのか全く違う世界を見せられると最初は戸惑ってしまう。現実にはありえない彼の頭の中の世界が実にリアルに描かれているわけだ。嘘も八百並べれば本当らしく見える。

 いつもいっている「あちらの世界」と「こちらの世界」、現実の世界と虚構の世界、常識と非常識、そういったパラレルワールドが不思議なリアリティをもって描かれている。天国へ行って見てきたような嘘を言いとはいいえて妙だ。

 閑話休題
 「方舟6」
 生物は実によく出来ている。それだけではなく、その遺伝情報の伝達の方法もこれ以上は考えられないほど完璧なものだ。

 遠い将来地球上にどんな生物もいなくなる時が必ずやってくる。それはまぁ人間の認識の範囲を越えた宇宙的な時間の中での話だが。多くの他の天体と同じようにこの星の最後がやがてはやってくる。大きく膨張した太陽に吸収合併されるのか、はたまた自ら超新星爆発を起こすのか、それは空想の世界でしかない。

 けれどもそうやっても物理的にこの世から全てがなくなってしまうのではなく、その何かしらのかけらがこの宇宙空間を漂うことになる。そのかけらは私の体の一部だった元素だったかもしれないし、DNAの塩基を形作っていたものだったかもしれない。確実に言えることは、けっして全てはなくなりはしないということだ。何かしらの形で次の新しいものの要素になっている。

 いいたかったことはそんなことではない。我々生物の遺伝の方法は独自のものではないだろう。反対にいえば、こんなに完璧なものが独自に作られるわけがない。どこかの、何かを真似している。多分それは宇宙の成り立ち、生成流転の方法を真似したものだ。

 神は自らの形に似せて人類を作ったという風な話をどこかで聞いた。そう考えると神は自らの中にいるのだと思う。 

 まだ続くかな?
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はる 2915
 「方舟5」
 どうも、これで書き切ったというきにならないので、うだうだと続いて書いてしまうこの話、どう決着をつけるのかわかりません。またまた今日も考えながら書いて行きますので、とばしてもらってもかまいません。

 まぁこの前の「永遠の故郷」の話とダブルところがあるようにもおもうのだけれど、基本的に「人は何故存在するのか」といった問いから始まっている。

 存在するには存在するための理由が必ずあるはずで、物事には必ず原因と結果がある。何の理由も無く人が偶然にこの世界にあらわれて来たとは思えないのだ。

 もし生命の遺伝子を次に伝えるというだけであるならば、人のこの意思とか思考とかは全く無駄というのか、反対に邪魔であるような気がするのだな。

 少し話題を変えて、生物のこの遺伝子のシステムというのは実によく出来ている。もっといえば生命そのものが実に絶妙なシステムで出来ている。人は最も単純な単細胞アメーバでさえ作り出すことができない。でどんな生物も過去からの情報が無ければ決してこの世に生まれることは出来なかった。虫一匹でさえ連綿と続いたその先端にいる。

 ではこの遺伝子のシステムというのは全くの独創なんだろうか。前に「永遠の故郷」のところで書いた「フラクタルの理論」を思い出してほしい。これは自己相似性という話で、雪の結晶みたいなもので、どんどん拡大していってもまた縮小していっても同じ法則で成り立っているという話だ。

 そこから発想して、実は人というのか生命のこの遺伝子のシステムというのは宇宙の生成流転の成り立ちを真似ているのではないかということなんだな。けっして生命だけがこんな絶妙なシステムを作っているのはおかしい。その大元は多分この宇宙の星たちの一生の真似をしているだけなのではないか。だから反対にこの生命の不思議を解明することは宇宙を知ることでもあるわけだ。まぁそれが超新星爆発の話と上手くリンクして益々その根拠を確かにした。

 で、もう一つは、こうやって意思をもった人類を発生せしめた本当の理由は、実はこういったことを考えて欲しかった。誰がといえば「おおいなるもの」がだ。このおおいなる宇宙の話を実は密かに考えて誰かに発表して欲しかったのじゃないだろうか。出なければ人が発生した理由が上手く説明できない。で、たぶんその考えは失敗だったんだな。

 これで終わりか?まだわからん。

 



 
はる 2914
 星の最後は超新星爆発してその成分を宇宙に撒き散らす、今地球上にある一部の元素もそうやって他の天体からやってきたものもあるらしい。

 人の人生に意味があるのか?ということを考えていて、さて我々ひとり一人は単にDNAの運び屋に過ぎないのではないか、もっといえばあらゆる生物は一つの「源」のバリエーションにすぎないのではないかと思い至った。でその「源」あらゆる手段を使って少しでも自らの分身を遠くに運ぼうとしているのだが、我々人類を作ったのにはそれなりの理由があるはずだと考えた。

 普通もし、単にDNAを遠くまで運ぶだけと考えたなら、こうやって意思ある生物を作ったのは間違いだ。我々人類はそういった意味では遠いところに運ぶ邪魔をしている。作為、意思、思考そのものが「源」の考えとは反対のことで、より遠くへ運ぶというだけならば人類を誕生させたのは間違いだった。

 それでも尚且つ、人類を誕生させたのには「おおいなる源」の意思だったとするなら、その意味は何だろう。少し前に考えたようにDNAを電脳に移し変えて宇宙に発信するというものなかなか面白いはっそうだけれど、たぶんそれは違うだろうな。そんなことをしなくともちゃんと情報は伝わるようにはなっているのだろう。もしそのためだとしたら、それはあまりにも危険すぎるだろう。

 最初に戻るのだけれど、この地球の物質には他の天体からやって来た元素も含まれているといったことを考えると、一つの星の滅亡は次の星の誕生に関わっている。この話は何だか我々生物の運命と似ている。

 眠くなった。続きは又。

 


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 Tさんへのメール
 まぁそうですね。あえて芸術である必要はないかもしれませんね。芸術家という職業はありません。作画家とか似顔絵描きとかイラストレーターなどという商売画家は職業ですけれど、芸術家という職業はないように思いますね。
 
 作詞家という仕事はありますが、詩人という職業はありません。芸術家も詩人も自分でいう言葉ではなく、人様が表して「あいつは詩人だから、芸術家だから」というふうに使いますね、良くも悪くも。
 
 仕事でありながら、職業でないそんなあやふやなところのいます。売るために絵を描いていますが、売っているのは私自身の生き方、生き様なんですね。傲慢ですが。だから人様に恥ずかしいような生き方は出来ませんし、常に前に進みたい修行の過程だと考えています。
 
 どちらかと言えば、ストイックな行者とか僧にあこがれます。だから私の絵はそんなすがた、かたちをしています。それでいいように思います。といことで、また


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 はる 2912
 全盲で聴覚もない東大の先生がテレビに出ていた。印象に残った言葉。「生きていることに意味があるのか?」「絶望+意味=苦悩」

 昨日、我々のDNAの元はどこかの天体からやって来たのではないか?と書いて思い出したのが、超新星爆発のこと。私のHPのbbsのところにリンクしておいたけれど、これを読むと私が言ったことも満更ほら話ではないな。

 この宇宙のほかの天体に知的生物が我々と同じ時間に存在する可能性はほとんどない。またもしいたとしてもその彼らと交信できる可能性はもっと少ないね。なぜなら光の速度で何年もかかる遠方にいる相手とまともに話が出来るとも思われない。まぁそのことは御伽噺だとしても、我々の体の構成要素がそういった超新星爆発の結果宇宙から飛散してきたものだということらしい。
  
 眠いので又明日。


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  まったくの素人の発想で書くので間違いはご愛嬌。

 遺伝子的にはサルや他の動物と人はさして違いはないらしい。ほんの最後の数列が変わることで、類人猿になったりサルになったり、はたまた蟻やハトにになったりする。これは全く不思議な手品をみているような気がする。そういえば今先端の科学ではどんなものにでもなれる細胞があるそうだ。それを使えばやがては耳や目が不自由になっても自分の細胞で新しいものに替えることが可能になるかもしれない。

 そんなことを聞くと、ふと考えついたことがある。例えばこの世にあるありとあらゆる生物は、実は一つの親遺伝子から出来ていて、色んな生き物もその親遺伝子の変形したバリエーションに過ぎないのではないだろうか。

 その親遺伝子が何ゆえにこの地上に現れたかということは計り知れないのだけれど、思考するサルをこしらえたのにはそれなりの理由があるのではないかな。でなければ親遺伝子にとって我々人類は邪魔者でしかないわけだからね。

 遠からず生物学的な生命は存続が危ういと感じた親遺伝子は、人類に電気的な頭脳コンピュータを作り出させて全てを人工的な電脳空間に移し変えることで生き延びようとしているのではないか、そうすることが少なくともDNAとして生物に運ばせるよりはるかに効率よく遠くまで遺伝子を運ぶことができると考えた。

 地球上に生物として残せなかったとしても、例えばその情報を凄い頑丈な集積回路として宇宙空間にばら撒くとか、素粒子そのものが遺伝子情報になって他の天体にその遺伝子の種を届けるとかすることが可能になったとすると面白いことが考えられる。

 ここのところが重要な秘密なんだけれど、実は人類のDNAの親はこうやって他の天体から届けられたものではないだろうか。どこかの天体で平和に暮らしていた親遺伝子君はやがてその天体の終焉を予測する。で滅んでしまう前に素粒子に自分たちの遺伝子情報を載せて宇宙空間に放出した。そのDNAのかけらが原始の地球にたどり着いて今まで生き延びてきたというわけだ。

 それと同じ事がまた何十年後かにこの地球上で起こる。そうだな、カビやキノコが胞子を空中に放出するように、当ても無く多量に素粒子の遺伝子を放出する場面を空想する。これは多分正解だろう。どう思う?
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はる 2910

 サルやその他霊長類がどれだけ自我があるのか、あったのか推測するしかないのだけれど、「ことば」が無ければものを考えることは不可能なように思うな。

 文字が無い未開の土地に行ってもそこの原住民は言葉を話しているわけで、そう考える言葉のない人類というのはいないのかもしれないな。

 原始的な言葉の最初というのは自己と他者を分けることから始まったように思う。数学的にいうなら二進法だな。あるかないか、是か非か、いいか悪いか、私かそうでないか・・。

 多分原始的な遺伝子も二進法だったのではないかな。遺伝子も随分と解明されて今では何種類かの塩基の組み合わせということが分かっているのだけれど、言葉も何種類かの基本的な音の組み合わせであると考えれば言葉は遺伝子だというのも満更間違っていないのではないかな。 

 話が展開しないので、話題を変えましょう。

 今日はクロッキーでした。これはいつもの我々のグループが主催する会ではなくて県の文化協会の主催です。まぁなんだっていいわけで、無料でこういったチャンスがあるならそれに越したことはない。大いにたくさんの参加者があって結構盛況でした。

 風景写生などをやっていても感じることなんだけれど、実際にものに対峙して描写するというのは案外本能に近いものかもしれないね。鉛筆を持てば何か落書きしたくなるわけで、ものを見ればそれをそっくりと写したくなるというのは心情的にはよく分かるな。

 この話題も面白くない。また今度。

 


 
 はる 2909
 今日は忙しかった。

 人の一生など簡単なものだ。訳なく過ぎてしまう。過ぎてしまえばはやいものだ。例えもう一生あるとしても代わり映えのしない一生になるだろう。私という人間が変わらない限り変化もない。

 我々ひとり一人はDNAの乗り物に過ぎない。どう生き様が彼らの知ったことではない。善人もいれば、何故こんな人間がこの世に存在したのかという極悪非道の人間もいる。善人だけ、必要な人間だけこの世に存在するとすれば、人類などすぐに滅びてしまったのではないかな。面白いことに善がそこそこあるように、悪も適度に必要だということだ。

 細胞は日々新しくなってゆくわけだから、ほぼ永久に生き長らえて行くように思うのだけれど、どれだけなのか分からないのだけれど個々の細胞には寿命が決められていて、ある程度永らえたら再生できないようにプログラムされている。DNA君は古くなった乗り物を捨ててさっさと新しい快適な物へと乗り換えてゆく。

 この地球上にとんでもなくバラエティに富んだ生物が存在するというのも、実はありとあらゆる場合を想定してDNA君が死に絶えてしまわないようによく考えられたシステムのように思う。一度途絶えてしまったDNAは多分二度とは復活できない。

 個々の我々に存在の意味や意義ははっきりいってない。トータルとして少しでも遠いところにバトンを渡すそれだけのことだ。

 DNA君の大きな間違いは人に考える脳を生じさせてしまったことだ。これは多分予想外のことだったのではないかな。この頭脳をもったことで、DNA以外の遺伝子(言葉)を人は持ってしまった。DNAは思考しない。考えることがない。それに比べて頭脳は迷う、悩んで、ゆらぐ。生物学的な遺伝子と作為的な我々の意思がどこかで対立して、両立できないとこに不幸があるように思うな。
 
 まぁ、それもこれも神の配剤だといわれればそうかもしれないけれどね。

 
 ラフマニノフ・ボカリーズ
キャサリン・バトル
 
 日曜の夜遅くこれがラジオから流れてくると何故か泣けてくる。そんなラジオ番組があったような気がするな。明治チョコレートが提供していた。学生の頃は深夜放送をよく聴いていた。ところが日曜の夜は深夜放送がなかったから余計に寂しさが身にしみた。そんなことを思い出す。

 ラフマニノフはロシアのクラッシック界の巨人だけれど、こんな美しいセンチメンタルな小品も描いている。
  
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