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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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東京のホテルにいる。また明日。
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アールブリュット(生の芸術)1
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アールビュット2

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草間弥生

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オーストラリア原住民 アボリジニの絵画

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デビュッフェ1

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デビュッフェ2

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デクーニング

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バスキア1

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バスキア2

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子供の絵6歳

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子供の絵1
 
はる 2962
 何度も書いたけれど、私は教育学部の美術科という教員養成の専門コースを受験したために、美大の受験のためのデッサンや研究所と言われる予備校には行っていない。

 美大や音大というところは正規の学校の授業だけ受けて、また独学で勉強したとしてもほとんどというのか、絶対に現役では受からないようなシステムになっている。それなりの先生なり予備校にいって専門の指導を受けなければその門前にも立てない。

 だから難しいのだと言っているのではなく、そこに入るためにはよく言えば一定の技術を持たねばならないと言うことだし、反対にどれもこれも同じような型にはまったスタイルになってしまうという弊害もあるな。

 いわゆるそういった予備校は美大芸大出身者の就職先になっている場合が多く、要するに美大出の優秀な学生はその又優秀な?生徒を育てるという、養殖魚がそのまた養殖魚の稚魚を食っているような悪循環に陥っており、段々に血が濃くなっていることが中にいては分からないようだ。

 で、まぁ教育学部の美術などというところは作家を養成する機関ではないわけで、そういった意味では非常にゆるい試験で入ることができる。で、幸か不幸か、そこそこアカデミズム的な描き方の面白さも理解できるし、反対に元々が素人なので、ど素人のアールブリュットなどの絵の楽しさも分かると言うわけだ。絵は結局のところ独学するしかないわけだから、ちょうどよかったのかもしれない。

 人は大体自分の技量でもって他人を判断する。だからアカデミックな技術を持った人はなかなか素人の絵の面白さとかよさを認めたがらないところがある。技術というのはそういった一種有無を言わせない力があるのだけれど、間違えば大道芸の曲芸師みたいなもので、誰も真似は出来ないないけれど、ただそれだけのことだ。

 だから素人が良いといっているのではない。素人芸も一つや二つなら鑑賞にたえるのだが、素人芸が売りになってしまって何度も繰り返しているうちに、最初の初々しい震えるような感動が形だけになっても、素人ゆえにそこから抜け出す方法が見つけられないでいる作家も多い。芸能人出身の作家など反対にかわいそうで見ていられない、まぁ本人が気付かないならそれでもいいのだけれどね。

 



 
はる 2961
 いわゆるアール・ブリュットとかアウトサイダーアートと言われる表現がある。一般に知的障害者や精神障害者の絵画や造形をさすと思われているが、全く伝統的な造形教育を受けていない表現も含めて言うらしい。

 アフリカのプリミティブアートとかオーストラリアの原住民アボリジニの描く絵画なども含まれるのかもしれない。もっと広く解釈すれば韓国の民画とか日本の祭りの仮面とかも近いかもしれない。

 ピカソがアフリカのプリミティブアートである彫刻や仮面などを見て強い衝撃をうけそれを自らの表現に取り込んだのは有名な話だ。これだけ情報が自由に行き来する現代でもあの彫刻を観ればかなりのショックを受けるのだから、当時はそれは凄いものだったと想像する。

 アール・ブリュットの命名者であるところのデビッフェなどもそのくちで、当時の残っているいい作品はほとんどそういったものから真似したものだ。その後彼の作品はその様式から変わってゆく。

 アメリカの抽象主義でもデクーニングなどはアール・ブリュットの絵画に似ている。その後出てきた全く独学というのか落書きアートから出てきたバスキアとかキースヘディングなんかもアール・ブリュットに入れてもいいかもしれないな。

 とにかくこちら側のいいとか悪いとか、芸術であるかないか、のはんちゅうに入らないところから出てきたもので、いきなり本質を見せられるような、我々からみれば一種の衝撃がある。

 子供の絵画などもそうだけれど本人からすればなんでもない普通のことなんだけれど、大人から見ればとても真似の出来ない造形だったりする。これって一体なんだろうな。

 昨日の続きみたいなものだけれど、人は社会の中で生きてゆく場合、生のままではとうてい生きては行けない。何かしらの社会的な約束とかルールを学習してゆく。まぁそれが一人前の大人になると言うことなんだけれど、そうやって行くにしたがって生のままの自分と言うものを失ってゆくわけだ。

 そのまま生のままでいられる環境であればそれはそれで幸せなんだけれど、そうはなかなかいかない。

 あちらの世界とこちらの世界、作為と無作為を自由に行き来できる能力を持ったものは一種の巫女みたいなもので、能の世界でも翁はそういった役割があるらしい。古代から芸能者はそういった能力を修行することで得たようだ。全ての人がと言うわけではなく似非の成りすましがほとんどだったようだけれどね。

 生のままの芸はうらやましいけれど、反対に持ってしまったことを意識しないまでにもってゆくのはなかなかの修行を要する。

 極普通の人間はそうやって修行するしか「生のままの自分」に出会うことはできない。それが私の立場だと思う。

 



はる 2960
 徒然に
 最近ちらちらと頭に浮かぶことはまぁ世の中全般的なことでもいいのだけれど、何もかも何の影響もなく全くの独創などというものがあるかなということ。こうやって言葉でモノを考えること自体何らかの文化的な影響を受けているわけで、これが生まれてこの方誰にも会わず、何処からも情報が入ってこなければ人間にはならんだろうな。宇宙

 動物というのはチンパンジーのような高等なものでもどうなんだろう、自我みたいなものはあるのだろうか。自我があれば他者があるわけで、そこから時間的な過去。現在、未来みたいな概念がでてくるわな。だからまぁ彼らは今しか生きていない。経験といっても自分が体験した恐怖とか美味しかったとかの感覚は学習してゆくのだろうけれど、まぁそれだけで終了だわな。まぁだからそれ以上の記憶みたいなもの、遺伝子レベルの記憶に残してゆくには何世代もの経験が必要だろう。

 人の場合言葉があるために何世代もかけて遺伝子レベルの記憶にしなくても次世代に自分の記憶を少しは残せる。まぁだから人間は学習することで人間になるということだな。

 ところで、例えばシマウマの模様とか虎の縞模様など指紋みたいなもので全く同じモノはないらしい。でもシマウマならシマウマらしい模様に必ずなるわけで、それがヒョウ柄になったりはしない。それには何かしらの遺伝子情報があるわけで、ちょっと違うけれどフラクラル(自己相似形)みたいなものだろう。まぁちょっともう確かな理論があるようだよ。

 一番簡単な自然界の法則としてよく言われるのが1.618の黄金比だな。植物のツルのカーブとか種の並び方、貝殻や卵の形など計ってみるとそうなっていたということなんだけれど、これにもフラクタルの理論の簡単な応用だな。

 この植物の渦巻き形と宇宙の星雲の形って似ていない?多分我々の住んでいる太陽系もそんな大きな銀河のうずまきのなかにある。

 金子みすずのこの詩に感動したのだけれど、そんなことがさりげなく美しく歌われている。これってフラクタルだよな。
***********
蜂は花のなかに

花は庭のなかに

庭は土塀のなかに

土塀は町のなかに

町は日本のなかに

日本は世界のなかに

世界は神のなかに

そして そして

神は蜂のなかに

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 で、ここからは想像だけれど、やっぱり人の頭脳というのは宇宙を真似て出来ていると思うんだな。でなければこんなに上手い具合にちょうどいいものが出来るわけない。頭脳というと物理的な大きさを持ってしまうのだけれど、想像力とか空想力と考えてみるとこれはほぼ無限の広がりがあるわけで、過去も未来も自由に行き来できる。映画マトリックスみたいだけれど、そのうちにイメージの世界が他人共有できるようになれば、まんざら嘘のせかいでもない。

 眠くなった。また。
 



 
どうやって私のブログにやってきたのかその来歴がわかるシステムがある。みなさんもうよくご存知の何とか解析というやつですな。その中で検索の項目があるのだけれど、「画家のなる方法」などという項目で私のところに来る人がいる。

 まぁまるっきり嘘を書いているわけでもないけれど、画家などという職業はないのだ。これは仕事ではない。生き方なんだ。絵を描いて生きて行きたいというのであれば色んな方法がある。漫画家やイラストレーター、アニメーターの作画家とか、そのた色々絵を描く仕事はあると思う。けれど私がやっているのはそういったものと微妙に違うな。

 回答にまず美大に行けとかどこかの会に出品しろだとかコンクールに出して賞を狙えだとか書いてある。それもまぁまんざら嘘でもないけれど、それが画家になる方法だとすれば普通の学校へ行ってサラリーマンになった方が楽に生きてゆける。大体「・・方法」という就職活動みたいなものでなれる職業ではないだろう。多くの職業の選択肢の中の一つではない。根本的に何か違う。そんな「・・方法」などというものを捨てたところでようよう生きているのが我々のような人種なのじゃないかね。間違えてはいけない。

 



 
 高校野球にもほとんど興味がない。ないけれど教え子がテレビに出て炎天下で汗みどろになっている姿をみれば応援したくなるのが人情だ。授業中に見せる態度と明らかに真剣度が違うわけで、眠ったようなあの本性はは、ここに来て花開く。まぁそれもまたいいだろう。結局あと一勝で甲子園に行けたのだけれど負けてしまった。残念だったね。

 ところで、明日から銀座の方では国画会のグループ展をやっている。お近くに寄りましたら是非どうぞ。ちなみに私は最後の8/1~2と当番で在郎しています。よろしくお願いします。

新しい時の会」・国画会新会員展
2009 7/27~8/2
11:00~18:30
銀座・ギャラリー向日葵
東京都中央区銀座5-19-13 2F
03-3573-1680



 
はる 2957
 年間に何とかそこそこの作品を50点用意しようと思えば最低でも100点ぐらい描く。恥ずかしくない作品をモノにするのは結構難しい。いいか悪いかの判断は尚難しい。

 時々学校の正規の先生を続けていたらどうなっただろうと考えることがある。まぁそこそこ仕事にも慣れ教師としての適正も確立したであろう。しかし、確かに言える事は今のような絵を描くことはなかっただろう。描けなかっただろうな。

 何事かの仕事をしようと思えば退路を断たなければ出来ないような気がする。これが上手く行かなくてもまだ他に違う生き方がある限り本物にはなれない。今の絵がいいか悪いか本当のところは分からないけれど、確実に言える事は生きた時間、命を削って描いたということだ。

 生きてゆくのはなかなかつらいものだ。ついつい楽な手っ取り早い仕事でお茶を濁してしまうのだけれど、絵描きである以上絵でなんとか食いつないでゆく方法を捨て身で考えるべきだ。そうやって初めて人は少しは親身に鑑賞してくれるのだ。

 



 
はる 2956
 地元の駅前の路線価が一時の十分の一になったそうだ。100円のものが10円になったということで、まぁこれだけ落ちれば反対に何も怖くないと居直るしかないだろう。何もしないでただ眺めているだけでは多分もっと落ちるだろうな。他人事ながら寂しい。

 東京近郊の田舎というのはどうしても都会の吸引力に負けてしまう。特に活動期の若い人は地元で働くより魅力的な都会に行きたくなるのは止めようがない。かつての自分達がそうであったし、地元の街がどうなろうと知ったことではない。勝手にしてくれ、私は街に出ますということだ。

 今のここには何の魅力もない。何とかしなければという気概もない。街のお役人は自分の給料さえ確保してくれれば、街など放っておいても痛くも痒くもないようだ。まぁ役人が何とかできるものでもないかもしれないけれどね。

 さてならばどうする?

 都会と同じことを志向してはだめだと思う。都会の魅力で勝負すれば、東京にはどう頑張っても負ける。銀座通りと名づけること自体腹を見せているようなものだ。

 一昨日のスローフードの設立総会に参加して、新しい農業を試行している若い人や、ワインや醸造関係の何代目かの当主が集まって都会にはない、ここでしか実践できない生き方を試行するそんな気運が熱く感じられて面白かった。

 単に自分達の領域の利益だけを考えて、例えばワインの売上をどうすれば伸びるかとか、効率よく観光客を呼ぼうとか、そういったことだけを考えると、今までと同じような利潤追求型の便利・効率がすべてという発想と同じことになってしまう。資本は大きい方がいい、儲けは多い方がいい。確かに資本主義社会だからその通りなんだけれど、言ってみればそれで人間は幸せになれたかい?とうことだ。

 これは凄く大きい文化運動である気がしている。ゆっくり食べることはゆっくり生きることであり、食も着ることも住む事も全てひっくるめてゆっくり楽しみましょうよという文化運動でしょう。

 考えてみれば戦後日本は貧しかった。凄く物質的に豊かなアメリカにあこがれた。まぁこれに追いつくために色んなものを捨てて効率と便利を優先して駆け上がって来たんだな。その甲斐あって物は豊かになって、食い物に不自由することはなくなったのだけれど、そのかわり生活に余裕がなくなった。

 人の楽しさは何だろうか。確かにゲームやケイタイでバーチャルなコミュニケーションが成立しているようだけれど、いっせいにケイタイの画面を覗き込んでいる姿は異常ではないか。

 例えば壁に絵を掛ける習慣が無くなってしまった。昔は、そう床の間があったり玄関にちょっとしたスペースがあったりした。四季折々の花や額を飾ったものだ。今はそういった住に関しても楽しむ余裕がなくなった。絵だけ売ろうとしても生活そのものに絵を楽しむ習慣がなくなってしまったのではありえないわけだ。

 まぁ遠大な計画だけれど、意味あること、意義あることのように思うのだけれどね。

 
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