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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3092
 昨日のクロッキーの期日は全て12/5→12/6です。腕時計の日にちを11月がすんでも、そのままにしてあったため一日ずれてしまったようです。すんません。

 私の腕時計は30年ほど前に就職祝いに贈ってくれたもので、クオーツ時計としてはやや骨董品になってきている。最近になって少し不都合が出てきた。付属の純正電池が、現在の環境基準に合わないために製造中止になっていて、手に入らない。デジタルなら幾らでも正確な時計があるのだが、まぁ思い入れのあるものだから簡単には替えられない。だからまぁ時々手をかけて調整してやる必要がある。
 
 しかし、昨日のモデルさんは頭が非常に小さくてファッションモデルのような体型だった。見た目には非常に美しい人だったけれど、描くには難しかった。自分と同じような胴長短足寸胴の方が描きやすい。親近感があるせいだろうか。
 
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今日は一日クロッキーでした。



 
 朝から三時まで教室で生徒の絵を見る。その頃から大粒の冷たい雨が降り出した。家人を結婚式の会場まで車で送って、五時に人と待ち合わせる。六時から会合があるのだが、少し時間があったので美術館近くの画廊で展覧会を一つ観る。

 写真とインスタレーションの現代美術といわれる分野の作品。美しく華奢な繊細な作品というのは何となく理解できるが、私には全く面白みが分からない。こういった作者とは住む世界が違うのかもしれないな。人は自分の物差しで計るしかないという鉄則でいうなら、私にはこの分度器はない。理解できない、面白みが分からないある種の不愉快さが残る。作者には申し訳ないけれど・・。

 絵描きとしてやって行けるかどうかの判断はとても難しい。デパートでやるような売らんかなの作品には正直主催者の商魂が垣間見えてうんざりする。画家としての地位と名誉が幾らあっても、デパートでやられている絵の格をみれば作者の品が透けて見えてなんだか悲しくなる。あぁやはりこうやって「売り絵」を描かねば絵描きとしてやって行けないのか、これだけ高名になりながらも自分らしい絵では食って行けないのかと、正直がっくりとする。自分の絵を描いてそれでもやってゆけなければ絵描きをやる意味がない。

 吐いたつばが全部自分にかかる。こころしてかかれ。



 
 少し知り合いと話をする。県の物産を県外に紹介したり、大きく海外にまで広めたいと上の方は考えているようだ。確かにそれはこれから生き残りをかけた大きなプロジェクトではあるだろうな。地元がこれから生き残って行くにはそこらあたりを重点的に売り込んで行くしかないだろう。

 しかしねぇ、考えてみると葡萄を育てる人手がいないんだよ。いくら製品を売り込んだとしても肝心の葡萄がないのだな。葡萄が無くて仮にどこかから葡萄を買ってワインを造ったとしても、これは本末転倒だよな。そんなニセモノをやっていたのじゃいつかはジュエリーのにのまえだろう。地元の山から水晶が取れたんだな、だからここでは宝石の研磨の産業が根付いた。ところがそれがやがて取れなくなって、海外から輸入して続けたんだな、「水晶の町」は「研磨の町」となり「加工だけの町」になってやがて地場産業として成り立たなくなってきた。工賃だけではとても安い海外と対抗できないからね。これもまた人材の枯渇だな。ゆっくり育てるという時間も度量もないね。

 昨日の話の続きのようだけれど、このまま行けばあらゆることが空洞化してゆくと危惧する。私がこんなことを心配するのもお門違いな気もするけれど、もっと危機感をもって真剣に対処する必要があるのじゃないかな。



 
コンビニやファミレスまでが地産地消をうたい出したので、これはもう一つのブームなんだろう。ブームというのはある種の集団ヒステリーみたいなもので、ある時に誰かが言い始めたら次の日には全国の人が知っていた、そんな風な伝染の仕方をする。いっきに爆発的に繁殖するウィルスのようなものか、時が来れば跡形もなく消えてしまう。

 人材などもできるだけ地産地消がいいのじゃないかな。まぁこれは色々あるかもしれん。
 



 
はる 3087
「小国寡民3」
「人は何処から来て、何処に行くのか?良かれと思っていた(速い、安い、便利)は多くのものを壊してしまいました。多分これからは、ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう。こころ豊かに生きるために、私たちの仕事がホンの少しでもお役に立てば嬉しく思います」

 昔,、家の近くに生協が出来て、100円のものを98円で売ったりし始めた。まだ「主婦の店ダイエー」が出来る前の話だ。関西は薄利多売の伝統があるのか、一円でも安いというのが、他の店と差をつける鉄則でもあった。スーパーマーケットはそうやって一気に時代を味方につけて全国に広まった。ダイエーが出来て、ゆけゆけドンドンで球団を買収して全国区になって天下をとった。その後はご存知のように凋落の一途。おごれる者久しからず、栄枯盛衰は世の習い・・。ダイエーは何故負けたのか?人は豊かになって「安い」というだけでは買わなくなったということかな。

 不思議に思うかもしれないが、昔はどこの町にも市場があって毎日買い物籠下げて買い物に行くというのが、カァサンの仕事でもあったんだな。

 市場は夕方になるとそれは恐ろしいくらいに込み合って、八百屋さんの掛け声や魚屋のだみ声が入り混じって、おっさんとおばはんの丁々発止がなかなか面白かったりした。レトロな昭和の雰囲気だけれど、本来人が生きてゆくというのはそういったことなんじゃないかな。

 大きなスーパーマーケットが出来たために、地元の小さな商店は壊滅的な打撃を受けた。特に個人商店が集まって出来たような市場がかつての面影もないほどうら寂れてしまった。確かに大手のスーパーに太刀打ちできるすべはない。今はどこの地方でも昔ながらの雰囲気が残っている市場は京都の錦市場ぐらいではないだろうか。

 外食産業のファーストフード店や、ファミレスなど、速くて安くてそれなりの味のお店が盛況だけれど、みんな知っているのだろうか、体裁はレストランだけれど、あそこには料理人がいないということを。すでにどこかで大量に調理されたものを暖めたり、解凍して出しているだけだということを。だからあそこはレストランではない。工場の末端施設みたいなものだ。

 コンビニは名前の通り便利だ。これ一つあれば多くの用事が済んでしまう。お惣菜からお菓子、トイレットペーパーなど日常品から、銀行も郵便も振り込みも、宅急便も、コピーもいつでも毎日休みなく営業している。こんな便利なお店がどこの世界にいままであった。けれど、そのために近くの個人商店はなくなってしまった。当然誰も行かない。便利だけで全てをはかっていいのかな。

 100円ショップは魅力的なお店だ。だけどこれを作った人はどれだけの労働を強いられているのだろうか。それを考えると安いということだけではかっていいのか?と疑問におもうな。

 間違ってもらっては困る。次の時代のコンセプトを考えているわけではない。私は学者でもないしねぇ・・。あえて言えば、そういった次の時代はこれだ!ということをそろそろやめないかというようなことだ。

 一つの時代が終わると、次の時代を予想する。それが次の時代の主流となって時代の寵児になったりする。けれどいずれはそれも廃れてしまう。きっと見方を変えた、新しい価値を発見したそれだけに過ぎない。そんなことに一喜一憂したくない。もっと変わらない、普遍的な価値観を持ちたい。

 「ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう」小国寡民、人の幸せとか、生きがいとか、もっと広く言えば文化とか文明というのは、とどのつまりはこういうことを言うのではないだろうか。最近しみじみそう思う。
 



 
藁がこいなど何処でしったのだろうか。本格的なお百姓などしたことも無い。にもかかわらずどこかの記憶の中に冬場イチゴの苗に藁を敷いていたような気がする。間違っているかもしれないけれどね。

 この藁を敷いた景色がいい。素人のやることだから許してもらいたいのだが、例えばビニールハウスは見た目が悪い。あくまでも見た目が全て。何事もそうだけれど、見た目がいいのは自然の理に則っているわけで、とどのつまりは正道であろう。




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イルミネーションのことで思い出した。子供の頃はお金が自由に使えなっかたから、何でも自作した。自作できないものは想像力でカバーしたものだ。もみの木が無かったらヒバの枝をそれに見立てて、厚紙で星型を切り抜いて銀紙を貼り付けた。色んな飾りも色紙で作ったり描いたりしたものだ。それでも充分幸せだった。ものが無いということは不幸せなことではない。それをひがんでしまう心根が貧しいのだろう。

 今回書いた文章の抜粋
「人は何処から来て、何処に行くのか?良かれと思っていた(速い、安い、便利)は多くのものを壊してしまいました。多分これからは、ごく小さな世界を大切にして、誰かのために、誰が作ったか分かるモノに囲まれてゆっくり、丁寧に生きることが望まれるようになるでしょう。こころ豊かに生きるために、私たちの仕事がホンの少しでもお役に立てば嬉しく思います」

 お金やモノはもう充分なんだろう。それよりもゆっくり丁寧に生きて行きたい。そんなふうに思った。

 さて、上の写真はサイレントチェロです。実は10年ほど前に何処でもチェロが練習できる持ち運びが楽な、音も大きくないチョロが欲しいと思った。実際には楽器メーカーが練習用の電子サイレントチェロを販売しているのだが、本物の楽器以上に高価なしろものだ。そんなものが私に買えるはずが無い。というわけで、自作したものです。

 糸巻きの部分は壊れたギターの糸巻きを転用。寸法は実際のチョロと同じです。でもまぁ実際にはあまり使っていません。それでも上の↑写真のようにレイアウトすればそれなり見えるでしょう。ということでどこかでまた見てもらいましょうか。



 
 近所にものすごいイルミネーションで家を飾っているオヤジがいる。このところ毎年恒例になっているから、多分彼はいいと思ってやっているのだろう。電気代も馬鹿にならないだろうにと、他人事ながら心配する。普段とてもそんなことに一生懸命になりそうもない極普通のオヤジさんだから、ちょっとたまげるのだな。電飾といえばトラック野郎のけばけばしいイルミネーションを思い出すけれど、まったくそんな感じで家を飾り立てている。

 というわけであれを見てしまうと自分家にイルミネーションをという気にはならない。小さく星を飾った。



 
今年もいよいよあと一ヶ月になった。毎年のことだが、一年ははやい。個展の片付けなど絵を描くこと以外の仕事が一杯で、やたらと忙しい。まぁゆっくりやるか。
 
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