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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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千葉滞在2日目
 
 明日、画廊には寄らないでそのまま帰ります。展覧会は明日で最終日です。まだご覧になってない方は是非見てやってください。よろしくお願いします。では
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千葉個展滞在一日目
 明日も一日、画廊に滞在します。せっかくですから、もし時間が取れましたら是非話をしに来てください。 結構楽しい時間をすごせると思います。



 
美術館前のコンビニについて
 
 県が肝いりで造った施設で、現在もなおうまく使われているものは多分県美ぐらいではないでしょうか。後のいわゆる箱物はすべて知事の名前を残すためだけに造られたようなところがあります。
 
 県美の周り一体は春には新緑が、夏には濃い緑が木陰を作り、秋には銀杏並木が独特の雰囲気をかもし出し、冬は富士山を借景に築山が盆地をイメージさせてくれる美しい庭を造った。県内外からも未だに多くの来館者があるわけだから、唯一の、たった一つの成功例ではないかな。美術館の最近の企画はノーコメントですが。
 
 しかし、多くの施設もそうですが、作ってしまえば後はどうでもいいようです。そこにあるということだけで満足してしまう、何か新しく企画するとか面白くするとか、県民のために何かをするという発想がそもそもないのです。これがお役人根性という元凶です。
 
 ミュージアムショップとかレストランは利用者の大いなる楽しみであるはずが、だれもそんなことは考えていません。ただのファミレスです。すごくいい宝をもちながらが誰も利用しない、させないのはどうしてでしょう。
 
 さて、美術館前の施設は随分と前から色々と変わってきました。一等地でありながら、どんな商売も上手く行きません。で最後はスラム化したお店が並んでいました。寂しい限りです。
 
 県が何も要望しないから、指導しないから、方針がないから、場当たり的にしか仕事をしないから、結局無難なだれがやっても変わりないような、コンビ二しか誘致できないのです。
 
 最低でも何かしら「芸術の森」の雰囲気に似合ったような意匠にする。そのことを「意識した」ということが大事なような気がしますね。そこから何かが変わるかもしれませんね。



 
 二十歳前後のことはあまりくわしく書いていない。まぁその頃は一番荒れていた頃かもしれないなぁ。高校を卒業して、何とはなしに大学には入ったのだけれど、どうにも面白くなくて学校に行くよりアルバイトに出かける方が楽しかった。まだ絵を描いているわけでもなく、何をやればいいのか、将来の仕事のこと、色んなことが何も見えなくて悶々としていた。まぁ誰でもが、たぶんそうだと思うのだけれど、二十歳前後というのは危ない季節でもある。

 高校時代にでも美大にゆくとか、何かしらそういった方向に行くといった指針が立っていればまた違ったのだろうけれど、その頃はまったくそんなことは考えてもいなかった。

 少し前に書いたけれど、その頃はジャズ喫茶が出来ればなぁ・・と漠然と考えていた。何の特技もないなら実際に自分では演奏などできないのだから、少しでも好きな音楽のことを勉強して、そこそこの知識をもって喫茶店でも出来ればいいかなぁ浅はかにも考えていた。夢と言えばちっぽけな夢だけれど、まぁそのくらいしか考えられなかったな。

 で、なぜやめたたかといえば、バイト、バイトで時間の切り売りをしているうちに段々とむなしくなってきた。仕事が単に時間をお金に変えているだけじゃつまらんだろう。今はいい、だけど今のうちに一生かけられる仕事を探さなきゃ。人生そんなもので終わってしまう。何よりも、今はもっと誰にもまねの出来ない技術なり芸なりを習得すべきなんじゃないか、勉強するべきじゃないかと強く思った。誰かに言われたのかもしれない。

 で考えたのは、小さい時から何か物を作るのが好きだったので、何かしらの職人しごとがいいかなと思ったんだな。たまたま求人広告を見ていたら、京都で焼き物の絵付けの職人を募集していたので、とりあえず学生のままアルバイトで働くことにした。おかしな話だが、大阪の学校に通いながら、住まいは京都と大阪の境で今の八幡市のもっと田舎の方に農家の離れを借りて住んでいた。駅までバスで30分くらいかかる辺鄙なところだ。

 学校を卒業してそのまま就職して、ここには二年ほどいた。住み込みでやれと店の人に言われたけれど、かたくなに通いで通した。焼き物の修行をやるならここじゃ物足りないし、まぁここで一生やるつもりはなかったのかもしれない。まだ根性が定まらなかった。ここをやめたきっかけは親父が死んだからだ。どうにもこうにも続ける気力がなくなった。こんな御みやげやのような品物を作って一生終わりたくない。漠然と自分の芸を売りたい、作家になりたいという夢が出てきた。まだ言葉にはならなかったけれどね。

 そこからがけっこうきつかった。もう一度受験勉強を始めたからだ。一年だけやってみようと思った。それでだめなら他を考える。午前中は八百屋の倉庫の下働き。朝市場から仕入れた野菜や果物がやってくる。それを倉庫に仕分ける仕事が主なしごと。大きな八百屋さんだったのでバイト学生など常備10人前後はいた。最後の頃はそういったバイトのまとめ役みたいなことをしていた。年も上だったけれど、時給も少しは高かった。社長にかわいがってもらった。受験するなどと言うことは言わなかったけれど、薄々気がついていたようだ。最後に受かってやめると報告に行ったときは、ご祝儀をくれて本当に喜んでくれた。

 午後からは京都の関西美術院という岡崎公園の近くにある美術研究所にデッサンの勉強に通った。後で知ったのだが、ここはかなり由緒ある研究所で、明治の頃、黒田清輝と張り合って負けた浅井忠が起こした聖護院美術研究所が前身だった。受験の予備校ではなかったのね。だから不思議とほとんど誰もいない教室でゆっくりとデッサンできた。まぁ反対に指導された覚えもないけれどね。

 疲れたので続きはまた。



 
 「あるものでなんとかする」というのをブリコラージュというらしい。そんなしゃれた言葉があったなんてね。
「猫の後姿」より
http://ameblo.jp/e-no4765/
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http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10558067481.html

 最近驚いたことが一つ。少し前にコメントいただいた人が、私が最初に絵の手ほどきを受けた教室の同じ生徒だったということ。もう40年近く前の話になるのですが、私がそのことをブログに書いたことがきっかけで、訪ねてこられたそうです。

 私のことを知らなければ誰も来ない閑古鳥サイトでありながら、実はコアな関係でつながっているんだなと感心したしだい。どんな言葉で検索されるか、引っかかるかということが、これからはとても大事な要素になりますね。まぁだからといってカウンターの数字が上がるからいいサイト、ためになるサイトとは思いませんがね。




関係する展覧会 
第20回スクエア展
山梨県立美術館
6/17~6/23 21休館
第51回・榎並和春個展・千葉
2010年 5/26(水)~6/14(月)
タイトル「こえをきく3」
山口画廊
千葉市中央区春日 2-6-7
Tel.&Fax. 043-248-1560

第84回国展大阪巡回展
2010年6月8日(火)~6月13日(日)
9:30~17:00(入場は閉館の30分前まで)
大阪市立美術館
〒543-0063 大阪市天王寺区茶臼山町1番82号
  tel:06-6771-4874

阪急梅田メンズ館3F
メンバーズサロン展示
6月末まで 



 
 つれづれに

 こういったブログにしてもほんのしばらく前にはなかったシステムで、今流行のツィッターというのがどういうものか参加していないので全く分からないのだけれど、これからどんなシステムが現れるか想像も出来ない。

 ipodが電子書籍を発売してこれから何年か後には週刊誌や雑誌、コミックなども本屋で買うことなく販売されるかもしれない。紙の本なども昔のように何千部他単位で印刷されるのではなく、ネットを通じて情報交換すれば10冊単位で注文できるようだ。

 まぁどうなんだろうか、今後ますますこういった個人の表現が発信可能になってゆけば、まさに玉石混合で何が優れているのか、必要な情報なのか区別、えり分ける、ことが難しくなるなぁ。いまでも個人のブログなどほとんどのものが発信者かその周辺しか相手にしていない。

 HPを始めた頃、もう10年前になるのだな、誰にでも書き込める掲示板を始めてつけたら、誰彼となくいたずら書きも含めてて書き込まれてこまるだろうなぁと幸せにも危惧していた。しかし、実際にはじめt見るとほとんどの人は素通りで掲示板に見知らぬ人が書き込むということはない。

 今でも、HPに作品を展示さえすれば購入者が殺到するような錯覚をもっている人がいるようだが、はっきり言って訪問者がそのページにとどまる時間は10秒もない。ましてコンタクトを取ってくる人などまれだな。

 そこから分かることは、多くの人は自分の事は見てほしいけれど、他人のことにはほとんど関心がないということだ。そこのところを踏まえてブログなりツィッターなりHPを始めることだ。でないとがっかりする。



 
 近所の大きな家がつぶされて何軒かの分譲住宅になったことは前に少し書いた。私たちが住んでいる古い町はアラカンである私たちが一番か二番目に若い夫婦である。ゆえに後は推して知るべしである。何処にも子供の声は聞こえなかったし、何をやってもまったりとした時間が流れるだけだった。

 ところがその新しい分譲地には見かけないような若い夫婦が引っ越してきて、まぁそれなりに活気が出てきたのはいいのだけれど、どうにもこの人たちとはかってが違う。けっこう遅くまで路上でサッカーの練習をしていたり、子供たちの声はうるさい。何処にでも入り込んでくるしボールは飛んでくる。どうにもこうにも小さなギャング集団のようだ。

 振り返って自分の子供時代を考えると、やぱり何処にでも入り込んでいたし、他人の家と自分の家の区別はあまりなかった。近所は全て隠れ家だったし、ヒトの家の庭でボールを投げて駆け回っていた。そう考えると、まぁ時代はめぐって同じようなものかなと思う。

 本当は町には色んな世代が、色んな障害を持った人も、若い人も年老いたひとも同時に住んでいる方がいいのだ。

 眠い。



 
 昼間はかなり気温が上がってきた。夜は涼しい。
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