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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 2704
 自己保身というのがあらゆる欲の中で一番強いものだ。所詮人は欲の塊だから無欲などということはありえない。生きるということ自体がある種の欲だからね。自分の欲求に正直に従えば、弱肉強食というのか、強いものが勝つというまことに分かりやすい世の中になる。

 ところが、面白い事に必ずしも強いものだけが生き残るのかといえば、そうでもないということが分かる。強いというのはある一面に対してであって、全ての面において強いなんてことはありえないわけだ。強く固まってしまったものは変化しにくい。ダーウィンの説によれば結局環境に合わせて変化できるものが最終的には勝ち残ると言っている。

 血統とか家柄みたいなものをありがたがる伝統というのはどんな人種にもあるのかな。調べてみた事はないのだけれど、ある種の純血種みたいなものは異端で、保護しなければ生き残れないようなものは自然に淘汰されるなだな。正統は雑種にある。

 閑話休題

 最近の子供たちと接しているとまぁ我々も大した者じゃなかったけれど、我がままというのか「好き嫌い」がハッキリしている。これも親の育て方だろうとは思うのだけれど、正直と言えば正直だ。ダメだということを平気でやるものが多いな。

 世の中はやりたい事だけでは出来ていない訳で、嫌な事もやらなきゃならない。そこのところをどうやってやらせるかということだな。

 いつも思うのだけれど、これをやれ!と強い力で強制するのはある意味簡単なんだな。乱れてしまった場合そういった大きな力が必要な時もあるけれど、そうやって強制された仕事はつまらないし、すぐに飽きてくる。

 自分の中に何かしらの「向かう力」を芽生えさせる事だな。とっても抽象的だけどね。「こうありたい」と思う力育てる事だな。そうすれば人は勝手に努力する。

 眠くなった。
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 はる 2703
 今日は寒かった。

 作品集といった大げさなものでなく、簡単なカタログのようなものを考えている。正確さをいえば美術館に入っている作品とか、その他色々公の場所にあるものが中心になるのだろうけれど、はっきりいって面倒だ。頭下げてお願いして、相手の都合聞いて、考えただけでも億劫になる。

 最初考えた通り、今手元にある作品で、お手盛りで充分だ。本格的なものはもっと後にしてくれ。それもだれかにやってもらいたい。まぁそれにしても我々のようなものでも意外に簡単に本が出せるのは、こういったネット出版みたいなもののおかげだな。昔なら到底出来なかったことだ。

 前半が昔の大きな作品で、後半は今年の小品という構成にする予定。絵だけずらずらと並べるのではなく、ちょっとした話も入れたいな・・などと考えると、けっこう楽しい。

 東京の個展には間に合うようにしたい。お楽しみに。



 疲れた。

はる 2702
 ブログを引越しして一週間ほど経った。何の影響もないけれど、確かに初めて来る人は少なくなったかもしれないなぁ。前は一日に数件検索で引っかかってくる人がいたから、そういう人が全くいなくなった。

 ブログというのは不思議なシステムだね。今借りているこのサイトもどうやって利益を上げているのかしらね。それからカウンターなんかももそうだけれど、全て無料だからね。前に借りていたアメブロも最初はかなり控えめだったけれど、グーグルと組むようになって俄然広告がめだつようになった。その分色々な遊びの試みがいっぱいだっただったけれど、私のようにそういった遊びに興味がない人には場違いだったかもしれないな。

 考えてみれば凄く不思議な世界でね。実際には存在しない空間なんだよな。それが今や多分稼動していないブログを含めると人口と同じくらいのサイトが存在するのではないだろうかね。それが実在しない架空のものだというのが不思議だ。

 私のサイトも個人の美術館をうたっている。これはどこにもないこのバーチャルな空間でしか存在しない。まるでSF小説のようだけれど、いまやこれが現実だ。映画「マトリックス」で主人公は電脳の世界と現実の世界を行き来できる特殊な能力を持っているという話だったけれど、実際の話、この電脳の世界は現実をはるかに越えて大きくなっているきがするな。

 今後さらに仮想の世界は広がって、我々の遺伝子のDNAの世界から、宇宙の果てまで縦横無尽に広がって、コントロールのできないひょっとすると、この電脳の世界から新しい有機的な生物が生まれるかもしれないな。

 まぁ疲れている頭は何を考えているやら、、。



はる 2701
 今日は東京へ。午前様。つかれました。


はる 2700
 切りのいい番号になりました。この調子で行けば来年の夏ごろには3000番の大台に乗りますね。一口に三千といいますが、毎日続けるということも難しいけれど、まぁ似たような記事だけれど、これだけの数を書くのは、もっと難しい。ネタを探していると続かない、ネタは必ず尽きるから。どうでもいいことを思いついたまま書くこと。校正も修正も考えない。やたら書く。コツはそれだけ。

 いいことは書くことが億劫にならなかったこと。いいか悪いか別にして、短い文章なら3分で書いてしまう。考えては書かない。書いてから考える、書きながら考える。アイディアはどんどん出す。絵になるかどうかは後で取捨選択すればいい。だから絵を描く事と似ている。文章を書くことは「言葉のデッサン」みたいなものだ。

 閑話休題
 このところ体調がいまいちだと思っていたら、帯状疱疹というやつになってしまった。やたらと体が痒いと思っていたんだ。兄貴が少し前になったからそのうち私もなるかと思っていたら、少し早めになってしまった。

 不思議な湿疹でね。みんな子供の頃に水疱瘡をやったと思うのだけど、その菌が身体に残っていて、50過ぎて免疫力が落ちてくると再び活動し出すらしい。

 ネットで調べて分かったことなんだけれど、今日は日曜で大体の病院は休診でしょ、まぁ救急に行けば何とかなるかと思って県立病院にゆく。たまたま当直医が皮膚科のドクターでなんとラッキーな事。人によっては入院騒ぎにもなるらしい。私のはそんなにひどくはないようだけれどね。まぁ早めに医者にかかった方がいいようだよ。

 明日は午前中にもう一度病院に行って、そのまま野暮用で東京です。更新は出来ないかもしれませんね。



2008個展によせて
 「いつかみたところ1」       榎並和春
 例えば色んな雲の形から何かしらの形を見つけ出して話を作るとか、壁のシミや木目からヒトガタを見つけ出したりして遊ぶとか、そんなイメージ遊びは子供の頃に良くやったものだ。人は今までにみた風景や出来事を心の奥底にしまっていて、普段は何事もなく暮しているのだけれど、ふとした拍子にどこかで見たような不思議な感覚に捕らえられることがある。
 
 人は何度もなんども同じようなシーンに出くわす。もう慣れっこになってしまって、何の不思議も感じなくなってしまっているけれど、実際は今日一日で一生分の出来事があったと同じなのでは無いかな。「博士の愛した数式」ではないけれど、数時間前の出来事を全て忘れてしまえば、日々が真新な驚きに満ちているだろう。
 
 私の絵はいつも新鮮だ。というのはいつも壊して終っているから、次の日は新しいところから始まる。このまま永久に仕上がらないのではないかと毎日不安になる。ところがちょっとした機会にスーット絵が出来上がる。これが毎回不思議に思う。今回もそれを待っているのだが、ひょっとすると今回は美の女神は舞い降りてはくれないかもしれない。
 
絵を描く面白さは、ぶっつけ本番の真剣勝負だと思っている。自分の心の中に浮かんだものが何なのか、具体的になってくるまで自分でもわからない。もうすでに分かっていることを描いても面白くない。それよりも私は何故それに引っかかりを感じたのか、そんな心の中を知りたいと思う。
 
今年もそんなことを考えながら「いつかみたもの」を拾い集めてみました。ご高覧、ご批評よろしくお願い致します。



はる 2698
 連休といえば聞こえはいいけれど、ほとんど休職状態なので家にいることが多い。今週も実際に働いたのは一日だけで後はぷらぷらとしていた。とはいってもそれが私の仕事みたいなもので、勘違いしないで欲しいのだが、暇なのではないわざわざ自由な時間を命がけで確保しているのだ。とちょっとハッタリをかましてみました。

 私の絵はいつも新鮮だ。というのはいつも壊して終っているから、次の日は新しいところから始まる。このまま永久に仕上がらないのではないかと毎日不安になる。ところがちょっとした機会にスーット絵が出来上がる。これが毎回不思議に思う。今回もそれを待っているのだが、ひょっとすると今回は美の女神は舞い降りてはくれないかもしれない。でも前に進むしかない。


はる 2697
 午後からちょっと来客があるので、アトリエの掃除をする。アトリエは普段ごたごたと色んなものが散らかっているので掃除機で掃除する事が難しい。それに人の目につかない聖域なので、次第に生活の中でいらない物が集まってくるという悪循環に陥って、来客でもなければにっちもさっちも行かなくなる。

 アトリエといえばイメージとして北窓の高い天井で、大きな据え置きのイーゼルがどんと置いてあって、大きなパレットに山のようにしぼり出した絵の具が固まっている。昔描いた作品がそこそこの壁に掛けられていて、部屋の真中には古い大きな達磨ストーブがオブジェのように据え置かれている。映画などで画家のアトリエを描くならそんな感じかな。

 前にも書いたけれど、結局アトリエもその作家の一部であって、作品がすべて自画像だとするなら、アトリエは作家の巣のようなものだ。いずれにしても作品と重なって来るのではないかな。作品を見ればそのアトリエを想像することが出来るだろう。

 その論理をもっと推し進めてゆくと、例えば本の内容は多分に表紙にあらわれるし、作家のコンセプトというのか心意気というのか、どう見せるかということが少なくとも読み取れると思う。反対にいえばそこのところに気を使わない本は、内容はともかくとして人目に触れることはない。

 例えばブログなんかにしても、表現行為である以上、意識するかどうかを含めて確実に作者の意識が出るもので、特にトップページをどう見せるかというのは大切なコンセプトであるように思う。

 私の場合、本人がガサツなのでブログぐらいシンプルに見せたいという逆の仕掛けが埋め込んであるので、そこのところ騙されないようにしないといけない。



何じゃこれは!オモロイ。
 はる 2695
 例えば色んな雲の形から何かしらの形を見つけ出して話を作るとか、壁のシミや木目からヒトガタを見つけ出したりして遊ぶとか、そんなイメージ遊びは子供の頃に良くやったものだ。人は今までにみた風景や出来事を心の奥底にしまっていて、普段は何事もなく暮しているのだけれど、ふとした拍子にどこかで観たような不思議な感覚に捕らえられることがある。

 人は何度もなんども同じようなシーンに出くわす。もう慣れっこになってしまって、何の不思議も感じなくなってしまっているけれど、実際は今日一日で一生分の出来事があったと同じなのでは無いかな。「博士の愛した数式」ではないけれど、数時間前の出来事を全て忘れてしまえば、日々が真新な驚きに満ちているだろう。

 あぁこんなことを書こうと思って始めたのではない。

 絵を描いていても段々につまらないものになって行くことが多い。最初のイメージは新鮮だった。絵の具のシミやムラから何かしらの物語が立ち上がってくる。そこを上手い具合にかすみ取るわけだ。これは面白いぞ!とやや興奮気味に声を出す。

 けれど面白いのはそこまでで、後は描けば描くほど興味はなえて行く。仕上がりに近づいた頃はもうどうでもよくなっている。

 理想をいうならば、何も考えずに無作為にどんどんいたずら書きをしていて、何時の間にか出来ていたというのがいい。そんなことは無理なんだけれどね。

 またちょっと横道にそれてきた。続きは又。
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