画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2873
どうやってもいつも主流にはなれない体質というのか、傍流にいる。例えば学校の仕事もそうだ。非常勤などというどっちつかずの立場にいる。まぁそれは自分が選んだことなんだな。
たとえば病気になる。色んな病気があるけれど、ほとんどは生活習慣がその病気を作っているといえる。脂っこい物が好きでそればかりを食べていると、やがては血栓やコレステロールが血管を詰まらせる。
生活が不規則で朝寝坊の宵っ張り、これを続けるとほとんどが胃腸を壊す。ストレスということもあるけれど、基本的には消化液のせいではないだろうか。消化器官というものはパブロフを持ち出さなくてもある時間になれば消化液が出るように習慣付けられている。それにもかかわらず不規則な食事時間だと、自らの胃を消化してしまう。やがては潰瘍がおきて放っておけば癌になる。
病気に限らないのだけれど、病気が一番分かりやすい。今の自分は過去の私の延長上にあるということだ。病気など突然降ってわいた不幸というきもするが、その種はたねはここにある。
そんなことを考えたのは、つい最近閉じた画廊のクロージングパーティに出た時だ。基本的にこの画廊は有名なS会出身の画家が多かった。むろんいろいろの作家も扱ってはいたけれど、私の属している団体の作家はほとんどいなかった。
いやだから、自由にものが言えて面白かったんだ。自分の属している会ならなかなか会の主流の作家と話をするなどということはできない。多分自分のせいかくなんだろうな。
本当は何でも主流にいたほうが発言力にしても地位やその他のことを考えると楽ではあるようにおもうのだけれど、どうしてもどちらにも属さないような無責任な立場を選んでしまうようだ。
もっと考えてゆくと、その源流は親兄弟との関係まで降りてゆく。私は五人兄弟の末っ子でまぁ言ってみれば味噌っかすなんだな。今でもそうだけれど、兄弟の中では重要な位置にはいない。そんな責任のとれるところにはいつもいない。傍流と言うのかそういった場がここちいいそんな立場に慣れてしまったのじゃないかと思う。
まぁ今更こんなことを分析しても始まらないのだけれどね。
一昨日から六本木で展覧会が始まった。で、名札をぶら下げて一般の出品者のコーナーを観て歩いていると、どこからか忍び寄って批評をして下さいと頼まれる。ゆっくり観たいので途中から名札をはずしたのだが、まぁそれは仕事の一部だとは思って答えてはいる。
何でもかんでも分かっている訳ではむろんない。こんな若造だからね。どう思いますか?って聞かれと、その絵が今のあなた自身でしょうって答える。今までのあなたの集積がそこにあるわけで、絵だけ特別他のものにはなれないし、なっても意味が無い。そのことの意味は大きいと思うんだな。
上手いとか下手だとかはどうだっていいと思う。あぁこれが今の私なんだと気づくこと。だから自分がそのことに気づかなければ絵も変わりようがないということだな。どれだけ一生懸命講評してもそのことに気づいていなければ、馬耳東風なんだろう。
出来るだけ無骨に、わざとらしくない、作為的でない、自分が自分がと言うような絵ではない、下手くそな手わざに頼らないそんな絵が描きたい。描けたらいいなぁと思っている。
そうやって会場全体を眺めると自分の絵を含めて及第点がもらえる作品は少ない。方向は間違っていないきがするのだがな。
どうやってもいつも主流にはなれない体質というのか、傍流にいる。例えば学校の仕事もそうだ。非常勤などというどっちつかずの立場にいる。まぁそれは自分が選んだことなんだな。
たとえば病気になる。色んな病気があるけれど、ほとんどは生活習慣がその病気を作っているといえる。脂っこい物が好きでそればかりを食べていると、やがては血栓やコレステロールが血管を詰まらせる。
生活が不規則で朝寝坊の宵っ張り、これを続けるとほとんどが胃腸を壊す。ストレスということもあるけれど、基本的には消化液のせいではないだろうか。消化器官というものはパブロフを持ち出さなくてもある時間になれば消化液が出るように習慣付けられている。それにもかかわらず不規則な食事時間だと、自らの胃を消化してしまう。やがては潰瘍がおきて放っておけば癌になる。
病気に限らないのだけれど、病気が一番分かりやすい。今の自分は過去の私の延長上にあるということだ。病気など突然降ってわいた不幸というきもするが、その種はたねはここにある。
そんなことを考えたのは、つい最近閉じた画廊のクロージングパーティに出た時だ。基本的にこの画廊は有名なS会出身の画家が多かった。むろんいろいろの作家も扱ってはいたけれど、私の属している団体の作家はほとんどいなかった。
いやだから、自由にものが言えて面白かったんだ。自分の属している会ならなかなか会の主流の作家と話をするなどということはできない。多分自分のせいかくなんだろうな。
本当は何でも主流にいたほうが発言力にしても地位やその他のことを考えると楽ではあるようにおもうのだけれど、どうしてもどちらにも属さないような無責任な立場を選んでしまうようだ。
もっと考えてゆくと、その源流は親兄弟との関係まで降りてゆく。私は五人兄弟の末っ子でまぁ言ってみれば味噌っかすなんだな。今でもそうだけれど、兄弟の中では重要な位置にはいない。そんな責任のとれるところにはいつもいない。傍流と言うのかそういった場がここちいいそんな立場に慣れてしまったのじゃないかと思う。
まぁ今更こんなことを分析しても始まらないのだけれどね。
一昨日から六本木で展覧会が始まった。で、名札をぶら下げて一般の出品者のコーナーを観て歩いていると、どこからか忍び寄って批評をして下さいと頼まれる。ゆっくり観たいので途中から名札をはずしたのだが、まぁそれは仕事の一部だとは思って答えてはいる。
何でもかんでも分かっている訳ではむろんない。こんな若造だからね。どう思いますか?って聞かれと、その絵が今のあなた自身でしょうって答える。今までのあなたの集積がそこにあるわけで、絵だけ特別他のものにはなれないし、なっても意味が無い。そのことの意味は大きいと思うんだな。
上手いとか下手だとかはどうだっていいと思う。あぁこれが今の私なんだと気づくこと。だから自分がそのことに気づかなければ絵も変わりようがないということだな。どれだけ一生懸命講評してもそのことに気づいていなければ、馬耳東風なんだろう。
出来るだけ無骨に、わざとらしくない、作為的でない、自分が自分がと言うような絵ではない、下手くそな手わざに頼らないそんな絵が描きたい。描けたらいいなぁと思っている。
そうやって会場全体を眺めると自分の絵を含めて及第点がもらえる作品は少ない。方向は間違っていないきがするのだがな。
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