画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 2755
年々正月らしさが感じられなくなる。正月が楽しかったのは小学生の頃までかな。絵に描いたように独楽をまわして、凧揚げをして遊んでいた。低学年の頃はテレビもなかったしね。そんなことして過ごすしかなかった。
住宅事情が悪かったのか、暖房設備も充分でなかったので、随分と寒かった。なんせ家には火鉢ぐらいしかなかったからな、寒いはずだよ。
据え置きのラジオがあってね。もちろんスイッチを入れるとすぐには音の出ない真空管だった。大きさは小さな洗濯機ぐらいあった。天井部分が開くようになっていてレコードがかけられるようになっていた。家にあったレコードで覚えているのは誰が唄ったのか、五木の子守唄だった。家族がそろってミヤコ蝶々とナントユウジの「夫婦善哉」なんか聴いていた。休みの日は浪曲の放送なんかがあって親父が良く聞いていた。午後10時になると「ミオツクシの鐘」をあいずに電灯を消して寝るといった生活だった。
まぁそれでも今よりおめでたい感じはあったな。
年々正月らしさが感じられなくなる。正月が楽しかったのは小学生の頃までかな。絵に描いたように独楽をまわして、凧揚げをして遊んでいた。低学年の頃はテレビもなかったしね。そんなことして過ごすしかなかった。
住宅事情が悪かったのか、暖房設備も充分でなかったので、随分と寒かった。なんせ家には火鉢ぐらいしかなかったからな、寒いはずだよ。
据え置きのラジオがあってね。もちろんスイッチを入れるとすぐには音の出ない真空管だった。大きさは小さな洗濯機ぐらいあった。天井部分が開くようになっていてレコードがかけられるようになっていた。家にあったレコードで覚えているのは誰が唄ったのか、五木の子守唄だった。家族がそろってミヤコ蝶々とナントユウジの「夫婦善哉」なんか聴いていた。休みの日は浪曲の放送なんかがあって親父が良く聞いていた。午後10時になると「ミオツクシの鐘」をあいずに電灯を消して寝るといった生活だった。
まぁそれでも今よりおめでたい感じはあったな。
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