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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3153
 昨日の天声人語から
「・・どんな死も悲しいけれど、若い母親のそれは切ない。お母さんは風になり木になって、わが子の声援を送り続ける。他の母親より少し短い、真珠のような思い出を抱きしめながら。
 乳がんに侵された先の女性は、幼子にも走り書きを残していた。(男の子はやさしくなければいけません。まわりの人の言うことをよくきいて。いっぱいおでかけにつれていってもらうんだよ。本もいっぱいよんで、音楽もいっぱいきいて・・・)つらなる「いっぱい」に母性の叫びを聴く」・・

 自然に泣けてきた。こういった話には弱いな。

「嚢中の錐」(のうちゅうのきり)の話。ある本を読んでいたらこの話が出てきた。嚢というのはまぁカバンのようなものか、で持っているカバンに錐を隠し持っていると自然に外に現れてくるという意味だそうだ。いい意味で隠し持っている人格や品格が外ににじみ出ているというのであれば、それはすばらしいことなんだけれど、反対に腹に一物を持っていると自然人柄にも出てくる。そんなことか。なかなかこれはいい得て妙だ。馬鹿は隠しおおせるものでない。何か悪巧みは自然にばれる。自らの身辺、心持をいつも清廉潔白にしておけということか。まぁそれも難しい。

 これもどこかのブログより。山に登って悟りを開くために修行しているうちは仙人だ。山から下りてしまえばただの俗人だな。多くの教祖といわれている人間はほとんどが途中で「山から降りた人」何らかの理由で修行を止めた人ということだな。

 芸術家など山に登りもしない。山の周りでその雰囲気を楽しんでいるだけの俗人だな。人畜無害で人様に迷惑をかけなきゃ、まぁそれはそれでいいかなとも思う。

 もう一つ、これは今日あっと気づいたこと。私が人物デッサンを続けているのは人物をより正確に間違いなく描くためではない。ここのところはすごく難しいところなんだけれど「デッサンに囚われない」ためにデッサンをしている。

 普通デッサンの勉強は物の形と陰影を学ぶためにする。ごく当たり前に時間をかければそれなりに上手くなる。もちろん程度の差はあるのだけれどね。

 私はものの描写に囚われないためにデッサンする。
 
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