画家・榎並和春 2011/3からHPアドレスが変ります。
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はる 3058
「般若心経7」
絵画というのは何だろうということを考えたのは、絵を描き始めてまもない頃だ。確かに今目の前にあるものをそのままそっくり写し取るということに確かな手ごたえはあるけれど、これを描いたからといっていったい何が言いたいのか?自分自身明確に答えることができないことに苛立ちをおぼえた。
印象派以降、セザンヌから始まったキュビズムの考え方はよく分かった。絵画は平面の画布に描かれたある秩序に従った色の集合であるという考え方は、純粋な抽象の始まりでもある。そこから絵画は大きく二通りの方向に分かれる。一方は絵画そのものを分解抽象化する方向へ、もう一方は文学や物語、精神世界を表現するシュールリアリズムの方向へ。
分解抽象化する方向からは、材料そのものを問う方法もある。(モノ派などと呼ばれる)布や紙でなくてもいいわけで、木や石やコンクリートその他色んなものを画布として用いる、絵の具も既成の画材屋さんで売られているものではなく、もっと自由に(色の粉)を絵の具として用いるということも可能なわけだ。絵を描くことがすなわちスケッチブックや油絵の道具を購入するということ自体に不自由さが入り込んでいるわけで、ホームセンターの安物の水性ペンキでもダンボールでも一向に構わない。新聞紙だって使い方次第では充分に画材になる。戦後のアメリカの新しい抽象的な作家はそんなところから出てきた。
実際に絵を描かなくても考え方そのものが表現だと考えると、少し前にはやったコンセプチュアルアートということになる。出てきたものには大した意味はなく、ギョッとすること、させることだけが主眼になって、身体を使ったハプニングとか、環境や空間を自らの作品と一体にアレンジするインスタレーション(設置芸術)などというものもある。
最近流行りのフギア(→フィギュアに修正)。もうここらあたりに来れば、近かすぎて何がいいのか、残るのか、同時代の我々には判断できない。50年後100年後の人間の時代のふるいがかっかてはじめて分かる、そんなものだ。
ちょっと話が飛ぶ
まぁ、人は偉くなりすぎたね。分けて分けて、分解して名前を付けて、意味をつけて、それなりに分かった気がしてきた。最たるものが生命の方舟であるところの遺伝子情報の解読かな。けっしてそれが悪いわけではない、人というのは与えられると細かく分けて分析して理解しようとする動物なんだな、そうやって人になってきた。とことん最後まで分子の原子の電子のさらにその奥底まで知ろうとするだろう。
で、探ってさぐってとことん行っても、実はまだその奥があるんだな。だから永久に終わることがない。永遠とか無限ということはそういったことだ。こっれって前にいったフラクタルの法則だな。
実は我々は永遠の無限大と極小の無限大の中間にいる。だから宇宙の果ても見ることが出来ないし、極小のゼロも知ることができない。まぁ我々はそういった存在なんだろう。
無限大から無限小まで実際に並べてみたとする。これを図形化すると無限小はどこまでいっても0にはならない。どこまでも永久に続いているわけだ。これってパソコンのとことで出てきた究極の恐竜の尻尾だ。結局永遠に分けるということは元の混沌に戻るってことだな。
これもまた我々は途中の過程にいる。永遠に分かることはないのだけれど、とにかく途中にいる。遥かかなたに宇宙の地平線に消えかかっている星が見えている。かたや生命の秘密のなぞも見えかかってはいるのだけれど、これもまた永久にたどり着かないだろう。人間とはそんな存在だ。
いいも悪いもない。
「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」
「般若心経7」
絵画というのは何だろうということを考えたのは、絵を描き始めてまもない頃だ。確かに今目の前にあるものをそのままそっくり写し取るということに確かな手ごたえはあるけれど、これを描いたからといっていったい何が言いたいのか?自分自身明確に答えることができないことに苛立ちをおぼえた。
印象派以降、セザンヌから始まったキュビズムの考え方はよく分かった。絵画は平面の画布に描かれたある秩序に従った色の集合であるという考え方は、純粋な抽象の始まりでもある。そこから絵画は大きく二通りの方向に分かれる。一方は絵画そのものを分解抽象化する方向へ、もう一方は文学や物語、精神世界を表現するシュールリアリズムの方向へ。
分解抽象化する方向からは、材料そのものを問う方法もある。(モノ派などと呼ばれる)布や紙でなくてもいいわけで、木や石やコンクリートその他色んなものを画布として用いる、絵の具も既成の画材屋さんで売られているものではなく、もっと自由に(色の粉)を絵の具として用いるということも可能なわけだ。絵を描くことがすなわちスケッチブックや油絵の道具を購入するということ自体に不自由さが入り込んでいるわけで、ホームセンターの安物の水性ペンキでもダンボールでも一向に構わない。新聞紙だって使い方次第では充分に画材になる。戦後のアメリカの新しい抽象的な作家はそんなところから出てきた。
実際に絵を描かなくても考え方そのものが表現だと考えると、少し前にはやったコンセプチュアルアートということになる。出てきたものには大した意味はなく、ギョッとすること、させることだけが主眼になって、身体を使ったハプニングとか、環境や空間を自らの作品と一体にアレンジするインスタレーション(設置芸術)などというものもある。
最近流行りのフギア(→フィギュアに修正)。もうここらあたりに来れば、近かすぎて何がいいのか、残るのか、同時代の我々には判断できない。50年後100年後の人間の時代のふるいがかっかてはじめて分かる、そんなものだ。
ちょっと話が飛ぶ
まぁ、人は偉くなりすぎたね。分けて分けて、分解して名前を付けて、意味をつけて、それなりに分かった気がしてきた。最たるものが生命の方舟であるところの遺伝子情報の解読かな。けっしてそれが悪いわけではない、人というのは与えられると細かく分けて分析して理解しようとする動物なんだな、そうやって人になってきた。とことん最後まで分子の原子の電子のさらにその奥底まで知ろうとするだろう。
で、探ってさぐってとことん行っても、実はまだその奥があるんだな。だから永久に終わることがない。永遠とか無限ということはそういったことだ。こっれって前にいったフラクタルの法則だな。
実は我々は永遠の無限大と極小の無限大の中間にいる。だから宇宙の果ても見ることが出来ないし、極小のゼロも知ることができない。まぁ我々はそういった存在なんだろう。
無限大から無限小まで実際に並べてみたとする。これを図形化すると無限小はどこまでいっても0にはならない。どこまでも永久に続いているわけだ。これってパソコンのとことで出てきた究極の恐竜の尻尾だ。結局永遠に分けるということは元の混沌に戻るってことだな。
これもまた我々は途中の過程にいる。永遠に分かることはないのだけれど、とにかく途中にいる。遥かかなたに宇宙の地平線に消えかかっている星が見えている。かたや生命の秘密のなぞも見えかかってはいるのだけれど、これもまた永久にたどり着かないだろう。人間とはそんな存在だ。
いいも悪いもない。
「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」
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