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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 はる 3013
 さて、今日は恒例の美術協会の裸婦デッサン会だった。有志で月一でやっているクロッキー会とは違って美術館の実習室でやるもので人数も多く、モデルも二人呼んでいる。次から次とポーズするモデルも大変だけれど、それを描いてゆく方もなかなか疲れるものだ。

 クロッキーは随分と長くやっている。20過ぎの頃、絵を描き始めてデッサン力の必要に迫られて大阪の肥後橋近くの絵画研究所に入会した。そこには専属のモデルさんがいて毎週裸婦クロッキーをやっていた。狭い教室にほとんど立錐の余地がないほどカキテがいて熱気もあったように思う。大阪に住んでいた頃は毎週そこにかよっていた。京都でもどこかの教会の地下でクロッキーをやっていたな。あれはチケット制だったかな。

 何がそんなに面白くて続けているのだろうか。クロッキーというのは楽器とか運動能力に似ているところがある。しばらくやらないとまるで出来なくなる。けれど一度腕に覚えさせていると、しばらく復習すればそこそこは復活する。もと通りにはならないのだけれどね。

 クロッキーといえど絵画の大道に通じているところがあって、いつも思うのは小手先の線はどんなに上手くかけていてもいいとは思わない。精神がたっていて生き生きとした大きな線がひけた時はすがすがしい気分になる。それは何だろう、剣豪の一振りとか、禅僧の一筆にたいなものかな。ためらいがないおおらかな線がひけた時は気分のいいものだ。そんなのは一回のクロッキー会でも一度あるかないかの確立だ。

 本画と絵柄は全く違うけれど、精神的には同じだ。どこが同じかといえば、表現するというところだな。クロッキーの要領はと時々聞かれるのだけれど、そこのところが難しいのだけれど書いてみる。

 モデルを見てただ漫然と筆を走らせているだけでは絵はかけるけれど、絵にはならない。絵にしようとすればそこに自分の「意識」をこめなければならない。そこが表現というわけだ。絵を描くという行為はどういうことかというと「私はこう見ました、見えました」ということを報告している訳で、もう少し具体的に言えば、左足に体重がかかっていますよ、とか下から見上げているから上半身は縮まって見えますよとか、胸の左右の位置は右が少し上だよとか、そういうことを無意識のうちに意識しなければならない。そう意識するだけで絵はかなり違ってくる。

 で、問題は実際に描く場合はそのことを忘れなくてはならない。意識して意識していることを忘れた時がいい線がひけた時だ。
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はる 2987
 明日から仕事が始まる。長い休み明けは特に嫌だなぁ・・。辞めるのは簡単だけれど、困るのは見えている。不定期のパートとはいえ確実に収入が見込めるのはありがたい。絵はみずものだからね、やってみないと分からない。まぁこんなことをもう30年近くやっている。生徒には申し訳ないけれど、それが私の生き方でもある。

 下手くそなクロッキーを毎回晒している。素人が見ればそこそこかも知れないが、プロがみればなんでもない。これが自慢で載せているわけでもない。誤解しないでほしいね。これが日常だから載せているだけだ。

 本画とまるっきり違う。見て書けばだれでも訓練すれば描けるようにはなるだろう。見ないでもすらすら描ける達人も居る。犬や馬や人物がどこかで見てきたようにすいすいと描ける人もいる。そのことは別にうらやましくはない。人は自分にあった絵をかけばいい。何も見ないで自分の心の中のかたちが描ければいいと思っている。だから上手くなくてもいいのだな。

 ものを見て描く場合は出来るだけ無心にそのままを描くようにしている。

 
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今日は一日クロッキーでした。疲れました。明日は二学期の準備のため学校へ行こうかと考えていますが、嫌です。


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 Tさんへのメール
 まぁそうですね。あえて芸術である必要はないかもしれませんね。芸術家という職業はありません。作画家とか似顔絵描きとかイラストレーターなどという商売画家は職業ですけれど、芸術家という職業はないように思いますね。
 
 作詞家という仕事はありますが、詩人という職業はありません。芸術家も詩人も自分でいう言葉ではなく、人様が表して「あいつは詩人だから、芸術家だから」というふうに使いますね、良くも悪くも。
 
 仕事でありながら、職業でないそんなあやふやなところのいます。売るために絵を描いていますが、売っているのは私自身の生き方、生き様なんですね。傲慢ですが。だから人様に恥ずかしいような生き方は出来ませんし、常に前に進みたい修行の過程だと考えています。
 
 どちらかと言えば、ストイックな行者とか僧にあこがれます。だから私の絵はそんなすがた、かたちをしています。それでいいように思います。といことで、また


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 はる 2912
 全盲で聴覚もない東大の先生がテレビに出ていた。印象に残った言葉。「生きていることに意味があるのか?」「絶望+意味=苦悩」

 昨日、我々のDNAの元はどこかの天体からやって来たのではないか?と書いて思い出したのが、超新星爆発のこと。私のHPのbbsのところにリンクしておいたけれど、これを読むと私が言ったことも満更ほら話ではないな。

 この宇宙のほかの天体に知的生物が我々と同じ時間に存在する可能性はほとんどない。またもしいたとしてもその彼らと交信できる可能性はもっと少ないね。なぜなら光の速度で何年もかかる遠方にいる相手とまともに話が出来るとも思われない。まぁそのことは御伽噺だとしても、我々の体の構成要素がそういった超新星爆発の結果宇宙から飛散してきたものだということらしい。
  
 眠いので又明日。


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  まったくの素人の発想で書くので間違いはご愛嬌。

 遺伝子的にはサルや他の動物と人はさして違いはないらしい。ほんの最後の数列が変わることで、類人猿になったりサルになったり、はたまた蟻やハトにになったりする。これは全く不思議な手品をみているような気がする。そういえば今先端の科学ではどんなものにでもなれる細胞があるそうだ。それを使えばやがては耳や目が不自由になっても自分の細胞で新しいものに替えることが可能になるかもしれない。

 そんなことを聞くと、ふと考えついたことがある。例えばこの世にあるありとあらゆる生物は、実は一つの親遺伝子から出来ていて、色んな生き物もその親遺伝子の変形したバリエーションに過ぎないのではないだろうか。

 その親遺伝子が何ゆえにこの地上に現れたかということは計り知れないのだけれど、思考するサルをこしらえたのにはそれなりの理由があるのではないかな。でなければ親遺伝子にとって我々人類は邪魔者でしかないわけだからね。

 遠からず生物学的な生命は存続が危ういと感じた親遺伝子は、人類に電気的な頭脳コンピュータを作り出させて全てを人工的な電脳空間に移し変えることで生き延びようとしているのではないか、そうすることが少なくともDNAとして生物に運ばせるよりはるかに効率よく遠くまで遺伝子を運ぶことができると考えた。

 地球上に生物として残せなかったとしても、例えばその情報を凄い頑丈な集積回路として宇宙空間にばら撒くとか、素粒子そのものが遺伝子情報になって他の天体にその遺伝子の種を届けるとかすることが可能になったとすると面白いことが考えられる。

 ここのところが重要な秘密なんだけれど、実は人類のDNAの親はこうやって他の天体から届けられたものではないだろうか。どこかの天体で平和に暮らしていた親遺伝子君はやがてその天体の終焉を予測する。で滅んでしまう前に素粒子に自分たちの遺伝子情報を載せて宇宙空間に放出した。そのDNAのかけらが原始の地球にたどり着いて今まで生き延びてきたというわけだ。

 それと同じ事がまた何十年後かにこの地球上で起こる。そうだな、カビやキノコが胞子を空中に放出するように、当ても無く多量に素粒子の遺伝子を放出する場面を空想する。これは多分正解だろう。どう思う?
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はる 2910

 サルやその他霊長類がどれだけ自我があるのか、あったのか推測するしかないのだけれど、「ことば」が無ければものを考えることは不可能なように思うな。

 文字が無い未開の土地に行ってもそこの原住民は言葉を話しているわけで、そう考える言葉のない人類というのはいないのかもしれないな。

 原始的な言葉の最初というのは自己と他者を分けることから始まったように思う。数学的にいうなら二進法だな。あるかないか、是か非か、いいか悪いか、私かそうでないか・・。

 多分原始的な遺伝子も二進法だったのではないかな。遺伝子も随分と解明されて今では何種類かの塩基の組み合わせということが分かっているのだけれど、言葉も何種類かの基本的な音の組み合わせであると考えれば言葉は遺伝子だというのも満更間違っていないのではないかな。 

 話が展開しないので、話題を変えましょう。

 今日はクロッキーでした。これはいつもの我々のグループが主催する会ではなくて県の文化協会の主催です。まぁなんだっていいわけで、無料でこういったチャンスがあるならそれに越したことはない。大いにたくさんの参加者があって結構盛況でした。

 風景写生などをやっていても感じることなんだけれど、実際にものに対峙して描写するというのは案外本能に近いものかもしれないね。鉛筆を持てば何か落書きしたくなるわけで、ものを見ればそれをそっくりと写したくなるというのは心情的にはよく分かるな。

 この話題も面白くない。また今度。

 
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