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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 こういった風景を見て懐かしい気持ちになるのは私だけだろうか。よくわからないのだけれど、自分の中にある原風景みたいなものかもしれない。舗装されていない砂利道が延々と遠くまで続いていて、はるか向こうに穏やかな山が見える。途中に崩れかけたような小屋がある。

 毎日何かしらの写真を撮るとということになると、自ずからその人の趣味と志向が出る。そんなところからも何か読み取れるかもしれないな。最初はそれなりにかまえて撮るのだけれど、そのうちにかまっていられなくなって地が出てくる。

 保護されたものというのは弱いなと思う。何でもそうだけれど、例えば文化事業などでも補助金が出たとすると、それを目当てに色んな人が右往左往する。本来そこには存在しないようなものまで無理やり登場したりして場を盛り上げる。それでその場は大喝采で大成功のように見えるわけだ。ところが根付いていない行事は時とともに跡形もなく消えてしまう。

 芸能や文化のようなものは保護するとたちまちのうちにその魅力は消えてしまうように思う。本来そういった芸事というものは大衆と共にあって、大衆に支持されて始めて存在できるようなものではないのかな。芸術の名の下にどうもそこらあたりが勘違いしているように思う。反対に大衆に受けたからといってそれが何年も先に芸事として残っているかどうかはわからない。

 奨学金とか補助金、助成金などというものは百害あって一利なしと思った方がいい。「本当に凄い奴は放っておいても出てくる」ということかな。
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無題
南アルプス、でしょうか。こういう景色はくすぐったいくらいに懐かしい。でも私の原風景は、東京郊外の夜の国道沿いのさびれた自動販売機(ハンバーガーとか成人雑誌とかの)だけのパーキングとか、そんな感じです。それがもっと奥の領域になると山奥のさびれた神社の境内のような景色が出てきたりする。

能も江戸時代になって武士の嗜みとなってからつまらなくなったそうですね。いま残っている名作といわれるものはすべて、能楽者たちが卑賤視されていた時代のもの、とか。

いまの時代。かれらのようにやむにやまれぬ表現が噴出する場にいる人たちとは、いったいどこにいるだろうかと、ときおり考えたりします。
まれびと 2010/09/25()07:14:05 編集
無題
こんばんは。

 表現というのはどうにも不思議なもので、食うに困らない、切羽詰ったものではないところからは人を心の底から揺さぶるようなものは出てこないような気がします。

 もう後がない、やむにやまれぬ、土壇場のところから、本当のものが出てくるのでしょう。多分いまの日本じゃ難しいでしょうね。

 心の中のもっともっと奥深く掘り下げれば、本来の何も変らない人間として、動物として、一つの命として、ぎりぎりに生きて希求する何かにぶち当たるとは思うのですが、なかなかそこまで自分を追い込むことは出来ませんね。

 残された時間も段々少なくなってきましたが、少しでも近づきたいとは思っています。まぁ無理でしょうけど・・。
はる 2010/09/25()22:25:33 編集
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