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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 「「私がここにいる」ということを認めて欲しいと言うことは人一倍強いと思うんだな。ただそれはストレートではない。すごく紆余曲折してかなり分りにくくカムフラージュされてはいる。良く見なければ分らないようには隠されてはいる」

 多くの場合親と兄弟と自分の関係が少なからず投影しているように思う。五人兄弟の末っ子という存在位置は何かにつけて蚊帳の外、一人前に扱われないというところがある。それが長じてなかなか責任のある立場というのが取れない、どこにも属せない風来坊の性格をつくったように思う。これは全ての人がそうであるというわけではなく、私の個人的な無責任な性格が増長されたということで、普遍性はないのであしからず。

 目立ちたいという願望は少なからずあるのだが、親や兄弟が強すぎるので何となく言い出せなくて引っ込み思案になってしまう。兄貴たちより目立ってはいけないというブレーキが自然に利いてしまうのだな、けっして親や兄弟思いのいい子ちゃんではないのだがそんなところは一歩引いてしまうところがある。けれどそれだけでは自分が消えてしまうので、どこかで虎視眈々と浮上するのを狙っている。

 絵を描くという自己表現の方法は誰かの真似ではない。母親が少し絵を描いていたということはあるけれど、絵を描いて生きてゆくという生き方、芸事で身を立てるという生業は両方の家系からは出ていない。まぁそのことが決心するまで長く時間が掛かった理由のようにも思う。決心さえすれば後はなるようにしかならないと諦めもつくのだがねぇ。

 こんなことを書くつもりではなかった。

 自分の絵のスタイルを考えてみたい。ここにも上の少し斜に構えた性格が如実に出ている。けっしてストレートに表現はしない。どこかでカムフラージュしているところがある。

 例えばどんなところかといえば、何だろうなこうできるだけ「わざ」を見せないようにする。まぁ決して上手くはないのだけれど、筆が走るところを見せないとか、配色の洒脱さをあえて見せないとか、この色とこの色を配置すればお洒落に見えることは分っているけれど、あえて外すとか、上手さを見せるなら徹底して最高に上手いならそれも自分の持ち味になるのだろうが、そこそこ上手い程度じゃどこにでもいる。だから徹底して外すことを良しとしている。それが分ってもらえれば私はとっくに世の中に出ている。未だにこんなところにいるのは方法が間違っていたか、そもそも考え方が違っていたか、才能がないか、世間に見る目がないか、どれかだな。

 だから好みの絵もそういった絵が多いな。上手さが見えると「なぁんだ、あんたはそれを見せたいのか?」と底が見えたようでがっかりする。下手くそな、不器用な、作為の見えない絵がいいな。

 まぁ傲慢な独り言だ。見逃してくれ。
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