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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3029
 徒然に結論もありません。

「こえをきく3」
 物事を知るとか分かる理解するということは、一つ一つを区別して差別化して、自分にとってどうなのか価値があるのかないのか並び替えを行う。多くの人の営みはそうやってある種の序列化することでもあるわけだ。「私を見て」というのが全ての物事の動機だとすると、その価値体系の中心には「私」というものがいる。で、意識するかしないかは別にして、今まで生きてきた経験なり体験なり知識なりでもって一番から無限大までの序列が自然に出来ているような気がする。

 「美は発見である」という基本的なものさしで考えるならば、何もなかったところに自分の物差しを持ち込んで、これが一番だと価値付けるわけだ。芸術の流行とかブームとかいうのもまぁそういったものだろう。だから今まで見向きもされなかった作家がなにかのきっかけで一躍スターになったりする。

 絵を描くことは多分修行の一種ではないかと思っている。こころの中が不安になったり心配事が増えたりそうやって何か憂鬱な気分になるのはまだまだ修行が足りないせいだろうと考える。で、最近ちょっと考えついたのは自分を集発点にした序列をつくること自体が間違っているのではないか、いつまでも「私が、僕は・・」というものさしで計っていたのではここから抜けだせないのではないかと考えるようになってきた。

 何を言ってるのか良く分からないが続けます。

 この間ネットで数少ない本を注文して購入したときに思ったのだが、多分物事というのかこれからは何が価値が高くてこれは低いというような一元化にはならなくて多くの物事が並列に並んだようなものになるのではないかと思ったんだな。

 個というものを追求して行くと段々に他との境界が分からなくなって行く。これはオリジンということにもつながってゆく。他とは異なる個性というのではなく、誰にでも共通にあるものその源という意味の方なのだが。この考え方も面白いと思う。

  「あるがまま」という。しかし、そうあることはなかなか難しい。勝とか負けるとか、美と醜、善と悪など、人は何かと区別し価値付ける。けれど本来、物事には善も悪もなくただそこにあるだけなのだ。

 ただその理に従った「こえをきく」だけだ。


 
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