忍者ブログ
画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
[652]  [651]  [650]  [649]  [648]  [647]  [646]  [645]  [644]  [643]  [642
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。




 
 このコンポストには約半年の間に野菜くずがはいっている。昨年の11月から始めた。それまでは穴を掘って埋めていたのだけれど、これが段々に面倒になってきた。それでコンポストの話を聞いた。家族の数にも夜のだろうけれど、約一年ためても一杯にならないそうだ。二台用意して一年ごとに堆肥として使うらしい。これから真夏にかけて虫とか悪臭がどうなるのかちょっと心配のところがあるけれど、昨年作った刈り取った草などを積み上げて堆肥にしたものを上からぱらぱらとふりかけると結構匂いも抑えられるようだ。今のところ上手くいっている。

はる 3247
 「自分にないものは伝わらない」という話はけっこうショックだった。確かにそういったことってあるなと感じていたからだ。

 青山二郎の「美は観た人の発見である、創作である」というのもなかなかに衝撃的ではあったけれどね。確かにいえることは『分かる」というのはその人のレベルでしかない。どんなに高尚な高等なものでも、その人がそこまでのレベルに達していなければ『分からない」のだな。

 「今分かる」というのは案外大したものではないのかもしれない。ひょっとしたらもっと数段すばらしいものが、今の私には理解できない大きなものがあるのかもしれない。今の私に見えないものが、他の人には見えていてそれを堪能しているというのは結構悔しいな。でもまぁ見えないのだから仕方ない。

 そこまでは考えていた。これはインプットだ。「自分にないものは伝わらない」というのはアウトプット、表現について
言っている。そうかそうだよな。どんなに綺麗な高尚な言葉でも何だかうそ臭い、恥ずかしいような気持ちになることがあるよな。例えば政治家の公約みたいなもの。

 一級の役者とか、芸術家、政治家とか、セールスマンとか、宗教家とか詐欺師なら、自分にないものもあるように語ることができるかもしれん。それはまぁすこぶる怪しい、危ない人物ではあるけれどね。平凡な凡庸な人間にはそれは難しいね。

 「自分にあるもので何とかする」というのもその続きであった。ないものをねだっても始まらない。あれがないから、これがないから、自分には無理だと諦めるのではなくてね。今もっている材料や技術で何とか伝えようとするんだな。ぺらぺら余計な話が出来るより、伝えたいという気持ちがあればボディラングエイジの方が良く伝わる。

 続きはまた明日。
 
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
**
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]


(Design by 夜井)