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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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映画『美代子阿佐ヶ谷気分』ロードショー
映画の宣伝におつきあい願います。
 ここではおなじみの義さんの息子さん(新鋭・坪田義史)が監督しました
映画「美代子阿佐ヶ谷気分」が
いちょいよ明日7月4日(土)から
渋谷シアターイメージホーラム
ロードショウ公開されます。どうぞよろしくお願い申します。

 
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 昨日授業があって来週は期末テストで授業はなし。無給休暇なので何も嬉しくはないのだが、やっぱり休みはうれしいものだ。その後約一ヶ月半のこれまた無給の夏休みがある。これまた嬉しいような寂しいような話だな。

 写真は美術館の中庭から文学館を見たところ。ここらあたり一体は昔はポンコツヤが並んでいた荒涼とした風景だった。それが美術館がやってきてあたり一体を買い足して大きな森にした。県がやったプロジェクトで唯一成功したものじゃないだろうか。四季折々の木々が美しい陰を落として鬱蒼とした森が市民の憩いの場になっている。まぁ美術館の内容はあまり感心しないけれど、この森を生んだ見識は誉められていいように思う。

 お役人のやることはいつも腹の立つことばかり。今まで管理は県がやっていたのだけれど、お役人というのはトラブルが一番恐ろしいのだな。何もないのが一番いいわけで、そうなると美術館でも厄介な企画は全くやらなくなってしまった。おとなしいやってもやらなくてもあまり変わらないような企画か、お客の入るアニメみたいな作家が目玉だ。この国の文化行政などこんなものだ。そんなんでどにすんねん?というはなし。お金がないからなんだけれど、もともとこういった施設は儲ける為にあるものではないはず。今更急に独立採算にしてこれまた何考えてるんやという感じ。

 面白い企画がないのでこのところほとんど二階の企画室には行っていない。つい最近久しぶりに見せてもらったけれどボナールが二点、それだけだったな、私にとって収穫だったのは。これからどうなるのか、難しいところに来ていると思うな。



 
「 風景画を描いている私」と言うタイトルはどうでしょう。 携帯のカメラは全てに焦点が合うからこんなことが可能になる。ちょっとボケているけれど、遠景の山と筆がほぼ同じピントで合うというのはどういう原理なんでしょう。



 
 昨日は地元の美術団体の審査と飾り付けがあって一日美術館につめていた。もうここと関わりあって30年近くになった。昨日も書いたけれど小学校以来絵を描いて賞状もらったのはここが初めてだった。まぁ良かったのか悪かったのか分かりませんがね。

 何か書くつもりだったが、眠くなったので又明日。



 
はる 2931
 ☆さんへのメール
 そうですね。あわよくばという気持ちは賞を取ったことがある人は必ず持つと思います。あの本当にうきうきするような、華々しい、少し勝ち誇ったような高揚感は、一度味わうと癖になる蜜の味ですね。それは楽しい期待でもあります。

 私が本格的な油彩画ではじめて賞を取ったのもここでした。もう30年も前の話ですがね。やっぱり飛び上がるほど嬉しかったですよ。その後いくらか受賞経験がありますが、あの時の感動以上の受賞はありませんでした。

 賞はいいように働けば励みになります。反対にそれだけになれば何か物欲しげな、そんな気持ちはなくても人様に受けを狙うような、そんな下心が見えてきて自分でも嫌な気持ちになったりします。

 ★さんは嬉しそうでしたね。今回のことを踏まえて、もう次の絵の構想を楽しそうに話してくれました。彼は自分のために絵を描いています。描くことを楽しんでいます。絵がかけることが楽しくて、嬉しくて、ただそれだけで充分だという気持ちが伝わってきます。

 まぁ他の人の評価は無理に無視する必要はないですが、そういったことも含めて絵を描いていることを楽しんでいるんだということでしょうね。これでいいのだと思います。これで充分です。そう思います。

 



 
 アトリエの音響はこれだけです。それもあまり聴きません。イメージとして優雅にバロック音楽でも聴きながら絵を描いている感じですが、全く音は邪魔になるのです。昔から何かしながら他のことは出来ません。このラジオは小さいながら短波も聞けるすぐれもの。


榎並和春個展DM
いつかみたところ
山口画廊
2009 7/15~8/3
千葉市中央区春日2-6-7

043-268-1560
オーナーのコメント
「深い趣を湛える地塗りの上に、亡羊と浮か
び上がる魂の形。風化した岩壁に刻ま
れた、古いイコンの様なその作風は、内
なる瞑想の旅路へと、見る者をいざなう。
思索する画家、榎並和春の世界。激しく
変転する現代にあって、変わらない何か
を希求する、その静かなる祈りの調べを」
 
 三万五千年前の鳥の骨で出来たフルートと、マンモスの骨で出来た女性像が出土した。人類と言うのは何と素晴らしい種族なんだろうか。そういえば人を埋葬したらしい古代の塚からは骨の化石と共にたくさんの花の花粉の化石が出土したと聞いた。食べることや着ること住むことと同じかそれ以上に人は身の周りを飾ったり、悲しい嬉しい時に音楽を奏で、ビーナスに祈りを捧げたのだ。



 
 例えば、老後が困らないだけの蓄えをするべきだ。という前提で考えるとそれじゃ出来るだけいい会社に勤めるべきだし、そのためにはいい大学へ、いい高校へ、皆と何も変わらん発想となる。まぁそれが楽ではあるな。

 何だろう、とりあえずとやってしまうと、次々とつながってみんなと同じでいることが、いいことだ、皆と同じ価値観で生きるべきだという風になる。抜けられなくなるんだな。特に最近はマスコミのせん動に乗せられる。何かが流行れば右へならえ、ワァーとなると訳がわからなくなる。我々は物事を批判的に見る、考えると言う習慣が身についていない。親方日の丸で一つの方向に向きやすいところがある。

 本当は自分の人生は自分で決めていい訳だ。無論その分責任は取らなきゃならいのだけれど、自分で自分の命の責任は取らなきゃね。よく言うのだけれど、「最悪でも死ぬだけだろう」そう思うんだな。それだけ覚悟して生きてゆけばおたおたすることはない。他人と同じでなくていい。

 まぁそりゃ、少しでも蓄えが欲しい。楽に老後は暮らしたい。人情としてよく分かる。もしそう考えるならサラリーマンやって平平凡凡やてばよかった。それを止めたい以上、頑張って意地張って、泣き言いわないで、やせ我慢しなきゃ、ならないのだ。それがダンディズムだろう。インフルエンザが流行ってマスクかいに走るようなことはしたくない。

 大事なコンセプトは「喜捨する」ということだ。全て捨ててしまうのだ。喜んで。命さえもね。保身にまわらない。言い訳しない。それが私の選んだ生き様だったはずだ。今更こんなことでおたおたするんじゃない。絵を描くということは絵を描く生き方を選んだということだ。それ以外はすべて捨てるんだな。それが死ぬまで満足してし尽くして生きる唯一の方法だ。
 
 



 今日は午前中は雨。午後からは快晴となり気温もどんどん上がった。足元がぬかるんでいたら外に出るのはやめるつもりであったが、まぁ大丈夫。来週出れるかどうかわからないので、スケッチに出ることにする。私は学校の自転車で生徒の後をついてゆく。自分で言うのもおかしいけれど、自転車はよく似合うのだよ。間違うとホームレスになる。だからできるだけ真っ白なシャツを着ることにしている。上手いとか下手くそはどうでもいいのだ。彼らの記憶に絵を描いたことが残っていればそれでいい。しかしまぁ疲れるのだな。暑いし。

 
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