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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3066
 私の生徒操じゅう法は簡単だ。生徒の声を聞く、声をかける、それだけだ。生徒のアイディアなり考えを頭ごなしに否定しない。まずは話を聞く、あとはゆっくり話す。不思議だが、それだけで半年ぐらい付き合うとおとなしくなる。

 しかし、見た目には何もしていないように見えるけれど、気力が充実していないと逆効果になる。やる気のない態度、おざなりな言動、引いた気力だとすぐに分かるらしい。その点は彼らは敏感で動物のような感覚を持っている。静かだが気力に満ちた態度、一歩も引かない毅然とした態度でなければすぐにうるさくなる。今日よくても明日はだめかもしれない。生き物相手だからしかたない。

 だから40人相手の授業というのは一見静かだが、その実、結構見えない駆け引きをしているように思う。楽そうにみえるけれど、結構疲れる。

 新米の教師というものがどうしてもうまく行かないのは、もちろん経験不足というのが大きいけれど、案外それまでに優等生でやってきた人間が教師になるからだろう。彼らはほぼ上から半分のところにいた人間なんだな。言わないでも分かる、学力やその他のことでも充分目立っていた存在で、あえて「私を見て」と言わなくてもそこそこ注目されていたわけだ。

 世の中の残り半分は学校生活で辛い想いをしている。特に学力というのははっきりと数字で示されるから残酷だな。選別すること順番をつけること、評価すること、それだけを教師の仕事だと考えているならば、ここで大きなしっぺ返しを食うだろう。

 それでも人間が好きなら何とか我慢できる。ものを売ったり買ったり、損だ得だで動かない仕事。そう考えるならば、仕事としてはいい仕事ではないだろうか。
 
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個展の準備ほぼ完了
はる 3064
 「邂逅の森」熊谷達也
 なかなか面白かった。かなり厚い文庫本だったけれど、東京往復の電車のなかでほとんど夢中で読んでしまった。以下は気になった個所
 ・・人間の欲というものは、やっかいなもんでな。欲を消せば抗うこともしなくなる。・・・山の獣は、人間の欲望で獲るものではなく、山の神様から授けられるものだ・・

 ・・山の神様といっても、明確な姿形をもっているわけではない。・・その場その時によっていかようにも姿形を変えるのが、山の神様の本質である・・・・ある時は動物に姿を変え、またある時は木々や森となり、風にも雲にも変化する。ありとあらゆる空間に偏在しつつ、その時のマタギにとって最も分かりやすい姿になって助けてくれるのが、山の神様の実体である。・・

 ・・山の神様に守ってもらうには、人間の性である欲深さを封じ込め、意識や感覚を出来うる限り獣の領域まで近づけなくてはならない。・・

 話を変えて
 昨日は野暮用で東京にでる。そのついでに三箇所ほど個展会場を覗いた。一つは来年早々にお世話になる銀座松屋デパートの画廊。私と同じキュレータ(企画屋さん)の企画で、盛岡在住の版画家兼ギタリストである大場冨生の個展をやっていた。作家が在廊されていてリクエストしたら気軽に応じて「黒いオルフェ」を演奏してしてくれた。感激!いずれまたどこかでお会いしましょうと約束して次の会場へ。

 もう一つはネットでどこで見つけたのかはっきりは憶えていないのだけれど、退職されてから精力的に個展を開催されている作家の個展を見た。アクリル、ペンキ?と紙などをコラージュした作品で古いヨーロッパの石壁とか化石の動物や人物、花のようなものが、所狭しと展示されていて作者のエネルギーが感じられて面白かった。ただこれは誰にでもいえることなんだが、「どうだ俺を見てみてみろ」という声が大き過ぎて、本来の絵のよさである慎ましやかな内なる声が聞きつらい気がした。自戒をこめて。

 




 
 
NORTHWIND BROADCAST
大場冨生 木版画展

会期中、大場氏在廊予定。

2009年11月4日(水)~10日(火)
松屋銀座 7階画廊 (最終日5時閉場)

 大場さんはスパニッシュギターの名手でもあります。お願いしたらその場で「黒いオルフェ」を弾いてくれました。遊び心あふれた今回の展示も含めて大場さんの世界そのものを感じさせてくれました。ありがとうございました。又どこかでお会いできることを願っています。




*窪田正昭展
2009 11/6~11/16 
11/11(水)休み
ギャラリーイノセント
甲府市丸の内2-12-3
055-222-4442


*望月澄子銅版画展
2009 11/7~11/23
9・10・16・17休廊
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-223-8393



 
はる 3060
 昨日かな、夜の学校が無かったので早めに帰ってきて、放送大学の番組をコタツに入ってウトウトと観ていた。他に観たいものもない時にはNHK教育が一番面白い。民放は本当につまらない。

 で、教育相談の話をやっていて、非行や反社会的な行動の原因みたいなことを真面目くさったオヤジがしゃべっていた。まぁこれも一概には言えないのだけれど、なかなか面白かった。

 非行の原因というのは「あるときまで与えられていた愛情が、何かの原因で断ち切られたと感じるストレスが原因である場合が多い」例えば兄弟ができるとか、親の失業とか、不仲、離婚みたいなことらしい。離婚家族がみんな非行に走るかといえばそんなことはないわけで、そこのところを勘違いしないように。

 それから面白かったのは、盗癖というのは、色々原因はあるのだろうけれど、突き詰めて行けば「母親の関心を自分に向ける」というのがあるそうだ。それから暴力というのもちょっと屈折しているのだけれど「暴力をふるってもそれに耐えて、忍耐強く待ってくれている母親の愛情が欲しい」ということらしい。何だ、結局はすべてかあさんに見て欲しいというのが根本にあるのだな。自分勝手といえばその通り。けど、あんがい基本はみんなジコチュウだ。

 生徒と接していてもよく感じることがある。彼らにとって学校の教師というのは親に次ぐ身近な大人なんだな。まぁ親とは格段にレベルは低いのだけれど、一般のそこらのオヤジやオバハンとは違うわけだ。だからまぁ反発も凄いのだけれど、それも結局「私を見て」の裏返しである場合が多いな。

 「おいお前!」というより「おいタツノリ!」と一声かけることで態度ががらりと変わる。「おお、このおっさん俺のこと見てんじゃん!」と感じるわけだ。

 大人になっても根本は変わらんな。みんな自分のことを見て欲しいわけだ。
 



はる 3059
 お気に入りのブログに82歳の女性のサイトがある。淡々と「お一人さまの老後」を生きている様子がうかがえて、面白いというのは失礼かもしれないが、なかなか面白い、。普通なら話をすることも聞くことも無いであろう、こういった特別な人でない、何気ない日常が垣間見えるのがブログの面白いところかもしれない。

 何日か前の記事にオムツについて書かれていた。赤ん坊のかわいいお尻をカバーするオムツの話ではない。年取って自由が利かなくなって障害が出てきた時の話だ。いずれ我々自身の話になる。

 基本の姿勢がいい。身体の機能が落ちてそれをカバーするための道具はなんら恥ずかしいものでないというスタンスだ。例えば目の機能が落ちたらメガネが必要でしょう、耳が不自由になれば補聴器が必要だ。それを恥ずかしい、出来たら見えないようにしたいと思うから肌色のおしゃれでない補聴器しかないと訴えていた。メガネを楽しむように補聴器も色々あってもいいのじゃないかってね。

 で、その延長で足が悪くなれば車椅子や杖が必要だ。それを何か隠すような、ないものにするような、見えないようにするのは間違いだな。堂々ともっと言えば反対にそれを楽しむぐらいでちょうどいいのじゃないかってね。オムツもその延長上にあるという考え方だ。なかなか割り切れないものがあるんだけれど、その通りかもしれない。

 いずれ我々もどこかに障害がおきて来る。生きるということはそういったこともひっくるめて生きるということなんだ。死は突然訪れるのではない、生の反対が死ではない、我々は段々に死んでいる。生きて来たように死んでゆくのだな。日常が大事。

 
 



 
はる 3058
「般若心経7」
 絵画というのは何だろうということを考えたのは、絵を描き始めてまもない頃だ。確かに今目の前にあるものをそのままそっくり写し取るということに確かな手ごたえはあるけれど、これを描いたからといっていったい何が言いたいのか?自分自身明確に答えることができないことに苛立ちをおぼえた。

 印象派以降、セザンヌから始まったキュビズムの考え方はよく分かった。絵画は平面の画布に描かれたある秩序に従った色の集合であるという考え方は、純粋な抽象の始まりでもある。そこから絵画は大きく二通りの方向に分かれる。一方は絵画そのものを分解抽象化する方向へ、もう一方は文学や物語、精神世界を表現するシュールリアリズムの方向へ。

 分解抽象化する方向からは、材料そのものを問う方法もある。(モノ派などと呼ばれる)布や紙でなくてもいいわけで、木や石やコンクリートその他色んなものを画布として用いる、絵の具も既成の画材屋さんで売られているものではなく、もっと自由に(色の粉)を絵の具として用いるということも可能なわけだ。絵を描くことがすなわちスケッチブックや油絵の道具を購入するということ自体に不自由さが入り込んでいるわけで、ホームセンターの安物の水性ペンキでもダンボールでも一向に構わない。新聞紙だって使い方次第では充分に画材になる。戦後のアメリカの新しい抽象的な作家はそんなところから出てきた。

 実際に絵を描かなくても考え方そのものが表現だと考えると、少し前にはやったコンセプチュアルアートということになる。出てきたものには大した意味はなく、ギョッとすること、させることだけが主眼になって、身体を使ったハプニングとか、環境や空間を自らの作品と一体にアレンジするインスタレーション(設置芸術)などというものもある。

 最近流行りのフギア(→フィギュアに修正)。もうここらあたりに来れば、近かすぎて何がいいのか、残るのか、同時代の我々には判断できない。50年後100年後の人間の時代のふるいがかっかてはじめて分かる、そんなものだ。

 ちょっと話が飛ぶ

 まぁ、人は偉くなりすぎたね。分けて分けて、分解して名前を付けて、意味をつけて、それなりに分かった気がしてきた。最たるものが生命の方舟であるところの遺伝子情報の解読かな。けっしてそれが悪いわけではない、人というのは与えられると細かく分けて分析して理解しようとする動物なんだな、そうやって人になってきた。とことん最後まで分子の原子の電子のさらにその奥底まで知ろうとするだろう。

 で、探ってさぐってとことん行っても、実はまだその奥があるんだな。だから永久に終わることがない。永遠とか無限ということはそういったことだ。こっれって前にいったフラクタルの法則だな。

 実は我々は永遠の無限大と極小の無限大の中間にいる。だから宇宙の果ても見ることが出来ないし、極小のゼロも知ることができない。まぁ我々はそういった存在なんだろう。

 無限大から無限小まで実際に並べてみたとする。これを図形化すると無限小はどこまでいっても0にはならない。どこまでも永久に続いているわけだ。これってパソコンのとことで出てきた究極の恐竜の尻尾だ。結局永遠に分けるということは元の混沌に戻るってことだな。

 これもまた我々は途中の過程にいる。永遠に分かることはないのだけれど、とにかく途中にいる。遥かかなたに宇宙の地平線に消えかかっている星が見えている。かたや生命の秘密のなぞも見えかかってはいるのだけれど、これもまた永久にたどり着かないだろう。人間とはそんな存在だ。

 いいも悪いもない。

「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」
 
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