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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3687
 どうやら本格的な風邪の模様。旅に出て風邪をこじらせるのはつらいので、早速近くの病院へゆく。体がだるい。

 
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はる 3685
 どうやら夏風邪をひいたようだ。何となく一日だるい。花粉症でもないのにくしゃみの連発。鼻汁がでる。夜暑いので窓を開けて寝たのが原因だろう。

 お袋の新盆のため、明日から帰省します。少し更新が滞りがちになるでしょう。あしからず。

 



 
はる 3683
 中国の高速鉄道の事故はすごい。何が凄いかといえば事故後の対応のすばやさだな。事故を起こした列車を検証もそこそこに現場に穴を掘って埋めてしまうという大胆なことを恥じらいもせずやるおおらかさだ。多分死者の数もいい加減なんだろうと推測する。

 なんせ国家の威信をかけた大プロジェクトだったからね。いたずらに検証してほじくり返して何か異なもの、例えば致命的な欠陥とか、手抜きとか、官僚の賄賂とか、が出てきて責任問題になると簡単に抹殺されてしまうお国柄だから、目の前から消えてもらう、ないものにするのが一番手っ取り早い解決方法だからね。

 こういった事故というのは大事な教訓が隠れているもので、それを全く無視しては進歩と言うものがない。亡くなった方には申し訳ないけれど、身を挺して国の人命軽視、一党独裁の異常なことを内外に知ってもらうきっかけを作ったと思えば浮かばれるやもしれない。この対応をしくじるとけっこうやばいことになるかもしれない。

 他人事のように書いているけれど、この国の原発も似たようなものだ。対応は後手後手で今頃になって牛肉から放射能が出てきたなんて騒いでいる。そんなことはもう既に三月の原発が爆発した時から分っていたことだ。北関東一円の農産物は明らかに汚染されている。これは嘘でも脅かしでもない、事実だ。

 その事を隠して通れるものではない。もうかなり遅いけれど、その上に立ってこれからどうするのか、子供たちを疎開させるとか、具体的な指針を発表すべきだ。この国の政治も全く信頼できないということが露呈された。少なくともかの国よりこうやって事実を少しでも知る事が出来るということが、慰めではある。少しは望みもある。

 




 
はる 3682
 来週は早々に実家に帰ります。お袋の新盆というわけだ。身内を含めてまわりの人のことは出来るだけ書かないようにしている。褒める事もけなすことも結局は同じことなので、こういっただれが見ているか、読んでいるか分らないものはどこで、どうやって人に迷惑を掛けるか分らないからね。まぁそれでも自然に分ってしまう事は仕方ないけれどね。

 この間のなでしこの選手のプライベートの写真がネットでもれた事件でも、彼や彼女には全く(彼の方はわからないけれど)悪気はなかったように思う。これだけ大きな事件になるとは思っていなかったんだろうな。普通の二十歳の女性が一躍スターになってしまって、公と私が全くない状態になってしまったのだから、今まで通りしゃべって写真撮ったら大きな事件になってしまった。

 特にマスコミはスキャンダル、あら捜しが仕事だからね、完全に餌食になってしまった。考えて見れば二十歳そこそこの娘だよ。インターハイで優勝ぐらいの簡単なのりで身内で大騒ぎぐらいするよな。お酒も飲むだろうし。まぁ馬鹿がそれをネットに載せて自慢したのは軽はずみだったけれど、それも自慢したい気持ちはよく分かる。私だったら自慢しまくるだろう。

 そういった意味では、こういう匿名の誰でもが見ることが出来るサイトというのは怖いところがあるな。だから出来るだけ他人の事は書かない、載せないようにはしているつもりだ。

 そうなると本当に小さい自分の心の中を吐露するしかない。だからほとんどのブログやネットの日記は続かない。書くことがなくなってしまうからだ。

 ではどうやったら続けられるか、一つ教えよう。例えば目の前にある一つのもの、コーヒーカップとしよう。それがなぜここにあるのか、たまたま偶然なんだけれど、それがここにある経緯を手繰ってみる。そうすると、例えばどこかを旅したときに気にってとか、誰かさんの引き出物だったとか、何らかの関わりが必ずあるはずだ。

 その中で、自分との関わりを見つけてゆけば、それは自分を深く見つめなおすと言う事にもなってゆく。たまたま偶然に生まれてからずっとそこにあったというのであれば、反対にそれは凄い必然でもあるわけだな。

 文章を書くことは絵を描くことと良く似ている。特に私の描き方はそうやって心の中を見つめる事であるからだ。こころのデッサンだと思っている。



 
 知り合いの誕生日でした。おめでとう。いい写真ですね。



 
はる 3680
 今日は比較的に涼しかった。涼しいというのもおかしい話だ。台風一過なのにね。普通は湿った空気が入り込んで蒸し暑くなるのだが、秋のようなさわやかな風が吹いていた。このまま終わるとも思えないけれどね。

 本屋さんに立ち読みに出かける。美術雑誌が二十日前後で新刊がでるからだ。昔は芸術新潮をはじめとして、結構色々な雑誌を講読していたのだが、雑誌の定期の購読は一切やめてしまった。すぐに溜まっておき場所に困るというのが第一なんだけれど、別に必要な情報は立ち読みで間に合うし、どうしても欲しい情報ならその巻だけ購入すれば済む事だ。もちろん経費も馬鹿にならないということがあるのだけれどね。

 定期に購読していた大きな理由は、今流行っている美術の動向が気になっていた。それは公募展に出品していたこととも関係する。こういったコンクールは時代の風と言うのを如実に受けるもので、今何が受けるのか、受けているのかということを意識しなければならないと思い込んでいた。

 毎年上半期・下半期のコンクールの大賞受賞者というのが発表される。その時の出品点数や審査員のメンバー傾向などを食い入るようにながめていた。まぁ何だろう、時代がバブリーな浮ついた雰囲気を煽っていたようなところがある。賞金もどんどんつり上がって、否が応でも射幸心を煽って、ほとんど博打のような浅はかさだ。ほんの少し前のことなのに、百年も前のことのように感じる。

 私が浅はかだったということもあるけれど、あれはやっぱり異常だったんだと思う。長い目で見るとバブリーな雰囲気そのものに呑まれていたんだろうな。それがそのまま時代の雰囲気だったきがする。あのまま時代の波に飲まれていたら、多分今のようなスタンスでは暮らしてはいけなかっただろう。結果論ではあるけれど、無名のままでよかった気がする。

 で、雑誌をぱらぱらと見て、今をときめく作家の作品を何百と見ても、私の心に届く作品は何点もない。たぶんもう今の時代の最前線ははるか遠くに行ってしまって見えなくなってしまっているのだろうな。

 けれど、大切なものというものは変らなくそこにあって、時代がどんなにかわっても変らないもの、そんなものを表現したいと最近は思うのだな。



 
 長く一つの仕事をしているとそれなりに色んな役がまわって来る。まぁその事は順番みたいなものだから、出来る事は手伝うし、やれない事ははっきりと言う事にしている。その方がお互い様だろう。

 公の仕事(といってももちろんボランティア)に関係すると、いつも何かむなしいものを感じる。何でもそうなんだけれど、お役人にとっては単に役割分担の仕事であって、それが大事とか面白いとかやる気になるといったものではない。いちいち一つの与えられた役割に価値を求めていたのでは反対に仕事にはならない。与えられた事を過不足なく遂行すること、ただその事だけに関心がある。

 随分と前に市内の活性化というので、空き店舗を活用した展覧会を公の機関が主催した。そのことはいい。けれど、彼らが一番気にしたのは何かといえば、展覧会そのものがどれだけ市民に受け入れられたかとか、どれだけの動員数があったかなどではなく、オープニングのセレモニーに誰を呼んで、どう報道するか、記録にどう載せるかという本来の活性化などどうでも良くて、自分たちの仕事が実績として残ると言う事だけが重要だという風に動いていることだ。本末転倒という。

 公の機関が主催して展覧会を開く。まぁそれはいいだろう。今街中は建設ラッシュで古いビルを惜しげもなく壊して、新しいビルを建てている最中だ。といったわけで会場がない。会場がないなら普通は取りやめにするだろう、けれど彼らにはそういったことが決められない。自分たちの仕事はまず「展覧会を開催すること」であって、取りやめるということは(仕事をやっていない→できない)と評価されてマイナスになると考える訳だ。

 だから重要であろうがなかろうが、彼らには関係ない。兎に角どんな場所でも確保して展覧会を開催してもらおうと必死になるわけだ。我々にとっては奇妙な誰も来ないようなヒナビタ頓珍漢な場所でやるくらいなら、一年や二年休んでも全然平気なんだが、それが理解できない。

 もう一つは展覧会のネーミングだ。一度聞いただけでは理解できない、よく分からない、ワザと分らなく難しく表現しているのではないかと疑りたくなるようなネーミングだ。例えば本のタイトルは滅茶苦茶重要だ。大体タイトルで売れるか売れないか分る。展覧会のネーミングも同じだと言う事が理解できないようだ。

 例えば「強制避難地区」「計画的避難区域」「緊急時避難準備区域」などと言われても何がどう違うのか理解できない。それと同じようなものか。

 はっきり誰が見ても聞いても分るような展覧会の名前にして欲しいと、何年も前から指摘しているのだけれど、いっこうに変る様子がない。

 まったく、原発と同じだな。一度決まったものは変えられない。変えるのにものすごくエネルギーが要るという事だ。馬鹿馬鹿しいけれど、これが現実だ。



 
 なでしこのサッカーを観て感じる事は、一言で言えば「さわやか」であるということか。反対に胡散臭いというものはどこかやっぱり「お金」にかかわるところから匂ってくるもので、例えば男子のサッカーのようにプロが絡んでくると、単に優勝というプライドをかけて戦うというひたむきなところが少し翳ってしまうところがある。

 だからといって彼女たちが一生懸命でなかったかといえば、お金は絡んではいないけれどそのひたむきさというのは、見ていてウルウルするぐらい感動的だ。まぁ今の日本の女性の力強さを良く表しているように思うな。

 閑話休題

 男というのは空理空論、原理原則、机上の話が大好きだ。もちろん個人差もあるのだろうけれど、大体においてそうやって今の社会が作られてきたようなところがある。例えば国を作る時にその国の柱であるところの法を考える。まず全体を統一した秩序みたいなものを考える。そうしないとどことなく心もとなく、不安になる。宗教などもそんなところから男が作ったものじゃないだろうか。

 群れを作る、徒党を組む、社会を作るといった場合、こういった能力というのは多分大切なことなんだろう。

 けれど、ある程度社会が成熟してくると、こんどはそういった規制が決まりが動きの取れない融通のきかない、すごく脆いものに変ってくる。名前だけの組織になったり、既得権を維持するだけの見せ掛けのものになったりする。一度出来たものはなかなか止める事ができない、優柔不断なお荷物になってしまう場合が多い。

 いっそのこと、しばらく女性にこの国を任せてみないか。
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