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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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 今日は裸婦クロッキーの日だった。上の写真は右側が私が描いている椅子と鉛筆三本に練りゴムとスケッチブックです。たったこれだけの道具で一日遊べます。スケッチブックも色々なサイズがありますが、私はほぼ毎回同じサイズで、標準的なクロッキーブックですね。色々持ってゆくのが面倒なので、随分前からこのスタイルに落ち着きました。

 小さい頃から絵が好きだったですか?と時々聞かれる。もう何回ともなく書いたけれど、絵を描くことが特に好きだったわけではない。それに特に上手だったという記憶もない。ただ小学校の図画専科の先生が私の絵や工作をやたらとほめてくれたという記憶がある。傲慢にも専科の先生には分かってもらえると思い込んでいた。そう考えると学校の先生の存在はかなり大きいものだ。

 学年が変わってその先生が転出して専科の先生がいなくなって担任の先生が図画を教えるようになって急にやる気がうせた。当時でも漫画をいとも簡単にすらすらと描ける奴がいたな。鉄腕アトムとか鉄人28号とか、何も見ないで、短い鉛筆をクリクリまわしてまるで手品のように描いていた。まぁ子供心にこいつらにはかなわないといつもおもっていた。ところが美術で絵を描くということになると、彼らはその才能が出てこない。あれほど自由自在に鉛筆を走らせていた彼らが、何も描けないのだ。

 子供心に不思議におもったのだが、どこがどのように違うのか今でもよくは説明できないのだけれど、明らかに違う領域なんだと思う。今でも漫画とかイラストのようなものは全く描けない。
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 昨日引用した文章のブログを書き忘れましたので、ここです。

 この間スローフードの集まりがあって、その時はそんなに気にしなかったのだが、帰ってきてから少し気になったことがある。まぁ今の時代の構造不況みたいな話かな・・。

 蒸気機関の産業革命があっていろんなものが手工業から機械化された。やがては電気がそれに替わって飛躍的に効率がよくなった。そして戦後はパソコンがでてきて、さらに無駄を省くオフィスのオートメーション化がすすんだ。それはそれで、人類が目指してきた結果ではあるんだな。

 じゃあ、こうやって効率よく無駄を省いて最適化を勧めて行って、最終的に何を目指しているのかといえば、まぁ昔の漫画のように、人はただ単に寝転がってテレビでも観ているそんな状態を考えていたのじゃないかな。今実際に昔に比べて多くの仕事がなくなっている。それは人類が良かれとおもってやってきたことが、反対に今首をしめている感じだな。

 自動販売機ひとつでもそうだ。便利だけれど全国のタバコ屋をほとんどすべてつぶしてしまった。タバコ屋の看板娘は歌だけの話になってしまった。仕事を誰でもできる簡単なマニュアル化したために、確かに効率はよくなったけれど、仕事に創造性、工夫というのがなくなった。パートタイムはいかに仕事をしないかに知恵を絞る。

 ごく一部の優れた頭脳労働とすごく単純な労働だけになってしまった。これは多くの人間、特に若い人には気の毒だ。魅力ある仕事がない。

 多分これからは、仕事を与えられるのではなく、新しく作って行く必要があるだろう。昔はよかった的な、過去に戻ることはできない。いつの時代も前に進むしかないのだな。
 



 
はる 3136
 あるブログを読んでいたら次のようなことが書かれていた。以下無断引用します。

「・・略・・たとえば、絵を描く人がいるとしますと、純粋に絵を描くのを楽しむ心と、それを人に売って暮らそう、という心は違うものだということです。

絵がうまくなる、よくなる、というのは無限の道のりです。そこで、この絵はどうしたら売れるかな、と考えるのは邪念でしかありません。

・・略・・山にいれば、聖人であり、修行者ですけれども、山を降りてしまえば俗人です。そして、山で学んだことを高く売りつければ山師です。山にいて真理を求め続けることは誰も利さない行為です。

 しかし、十分に機が熟さないうちに、半端な知識を売りに山から降りてきたらただの商売人です。どれくらいのものを持ったところで降りてきてしまうかで、器や志が見えてしまいます・・略・・

 あらゆる教祖というものは、中途で山を降りてきた人たちだと思えば間違いないのです」

 まぁ、絵を売るというのはある種後ろめたいところがあるのは否めないなぁ。中途半端な、宗教者の教義を聴かされているようで、片腹痛いと想っている人も多いかもしれんな。

 まぁ言い訳をさせてもらえば、私は宗教者ではないし、悟った人間になりたいとも思ってはいない。まず悟れることもないだろう。

 表現者などというものは最終的な覚醒者になってしまえば、悩むこともなくなってしまうわけで、そこに人間としての面白みもなくなってしまうわけだ。我々の仕事はあちらの世界とこちらの世界の境界にいる。行ったりきたり自由に渡り歩けることが、現代の表現者としての仕事ではないかな。

 まぁ山師、詐欺師といえばその通りかもしれん。本来芸人というのはまともに生きてゆけないそんなどこか欠陥のある人間が、最後の最後に残された生きてゆくための方便のようなきもするな。

 原点は、命がけで、身をさらして、生きてゆくことで辛うじて許される河原ものでしょう。

 



 
はる 3136
 今回の個展は今までの延長上にはあるのだけれど、少し演出を変えた。それは松屋の会場がひろいということがある。あの会場にただ絵を並べただけでは、来ていただいたお客さんがすっと見てそのまま何の感慨もなく帰ってしまうのではないかと思ったからだ。

 それとこんなことを示唆されたことが大きい。会場が大きい、それを埋めるのが大変だというけれど、確かにそうなんだけれど、あの会場を無料で一週間貸してもらった。自由に使っていいといわれた。そう考えたら、これほど恵まれたことはないのではないか。

 生活の中のアートを提案すると考えたならば、私の日常生活を含めた生き方を紹介するといった展示にすれば、作家の紹介にもなるし、より深く作家を知ることで共感してもらえるのではないか。と言われたこと。

 それから、こんなことがある。自分の絵にはある種の通俗性がある。まぁそれは自分で言うのもおかしいのだけれど、それが一種の魅力といえば言い過ぎか。嫌いな人にはそれが鼻持ちならない俗っぽさになるのかもしれないけれどね。

 で、思ったのは、私の絵は美術館でありがたく鑑賞する絵ではない。どちらかといえば日常的な空間で、生活の中で楽しんでもらえたら、それはそれで存在意義があるのではないか。そんな風に思ったこと。

 けれど、まぁそこそこに有名な作家であればこんな工夫をする必要はないのかもしれない。もっと絵に圧倒的な存在感があればこんな小細工をする必要はないのかもしれませんがねぇ・・。まぁこれだけの人間でしかない。

 というわけで、今回は見てのお楽しみですが、最後の壁一面はこの一年間の日常生活の写真と、このブログからの抜粋です。恥かきもここまでやれば居直るしかない。これはまぁ冒険といえば冒険かな。 

 来週はもう御江戸です。

 松屋の展覧会紹介記事

 



 
はる 3135
 今日は一日仕事。来週の今頃は松屋の個展が始まっている。いつもは意気揚々、まな板の鯉状態で楽しむだけという雰囲気なんだけれど、今回はなんとなくプレッシャーを感じる。なんとなく憂鬱だな。
 




↑を見ていると ↓が出てきた。何だろうこれは。祝人かな?

NEC_0030.jpg



 
はる 3133
 二三日前の水道の検針のときに漏水の疑いがあるとメモがあった。そういえば先月と比べて五千円も高かった。普通何も特別なことをしない限り水道料がそれだけあっぷすることはない。

 でメーターを調べてみると、パイロットメーターがわずかにゆっくりと回っている。人間とは不思議なもので、分からない時は一ヶ月も放っておいても全く気にならなかったのが、知ってしまうとそのままというわけにはいかず、朝飯、昼飯、晩飯とお風呂の時にはバブルを開ける。それ以外は閉めておかなければという脅迫観念にとらわれる。一日や二日放っておいてもあまり変わりはないのだがね。

 で、水道局に連絡すると、漏水検査官なるものが出張で無料で回っているということだった。というわけで今日午後から彼らが来るということで待っていた。まぁこれがなかなか来ない。待って待って五時近くになってやっときた。

 漏水の検査というのはどうやってやるのかご存知か?これまたこんな時代に超アナログなんだけれど、聴診器の金属棒のようになったもので「音を聞く」んだな。何場所か蛇口のある場所にその棒の先をあてて、その音の強弱で判断するのだな。

 聞かせてもらったけれど、水が流れている音がする。そして、確かに場所によって音がちがうのだな。昔インデアンが地下水のありかを知るのに確か地面に耳を当てて聞いていたような気がするけれど、今回確かにその一番大きな音がしたところが漏水していた。

 まぁそんなことで、今日は一日水道待ちの日でした。


 
 



 
 吉田秀和の「セザンヌ物語」を読み始めた。どこかのブログを読んでいたらこの本の話が出てきて、あれ!あれほどセザンヌのことを気にしていたはずなのに、それから吉田の爺さんの話もよく書く割にはこの本のことはまったく認知していなかった。そうなんだ、吉田の爺さんがセザンヌについて書いていたのじゃ読まずにはおれない。文庫本になっているので簡単に手に入れることができた。

 なかなか難しい本で、まず最初と最後のあとがきから読んだ。まぁこれはセザンヌに興味があるか、絵を書いたことがある、絵に興味がある人しか面白くないだろうなと推察する。絵を描かない吉田の爺さんがここまでよく考察できたなぁと妙なところに感心する。一芸に秀でたものはすべてのことにつながって行くものなんだなと思った。中身のことはまた読み終わったら書きましょう。

 あとがきのところでパドバのスクロヴェーニの礼拝堂のジョットの壁画のことが書かれていた。感動的なのでそのまま引用する。

「パドヴァにあるクスロヴェーニのチャペルの内部をほとんど全面的に塗りつぶし、壁という壁に、いくつもの描き続けられたジョットのフレスコ画は、その一つ一つの絵のすばらしさだけでなく、その全体において、私にひとつの強大な真実を啓示した。
 それは、「すべては絵画として描かれることができる」あるいは「人間は天地を貫いて目に見えるものはもちろん、目に見えない精神心的出来事でさえ、すべて、絵に描くことができる」ということである。・・・・略・・
 建物全体を覆ったジョットの絵は、それでひとつの天地をつくり出し、その色と形だけでできた天地は、建物の内と外にある天地と全く等価の天地だった。そこには音楽さえあった。・・略」 
吉田秀和「セザンヌ物語」より

 



 
はる 3130
 パソコンは今のところ調子よく動いている。ただひとつ問題があって、リメイクした業者が提携したウィルス制御のソフトが時々必要ないCMをポップアップで立ち上げる。これが目ざわりといえばそうだな。しばらく我慢すれば消えるのだけれど、何だか安っぽい宣伝でがっかりする。これを消す方法はあるのかしらん。

 しかし、パソコンも色々だけれど、我々のような素人が使う分にはこれで充分で、他に色々入っているソフトもすべて捨ててしまっても問題ないように思うな。ありがたいことに昔使っていたソフトがそっくりそのまま使える。このことはここだけの話。

 さて、大きな絵を描かねば。

 
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