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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3164
「セザンヌ1」
 昨日はブログのサーバーがメンテナンスで今朝まで接続できなかったようです。何かしらの表示があると戸惑わないのですが、待っていてもつながらないとイライラしますね。すんません。 

 セザンヌの風景や人物を見ていると明らかに傾いている場合が多い。どう見ても実際はこうは見えない。セザンヌという人物はどんな人間だったのか、その作品から推し量るしかないのだけれど、勤勉で実直な公務員か石頭の学校の先生を感じる。ほとんど冗談も言わない、そんな面白みにかける人物を想像するのだな。

 そんな人物であるにもかかわらず、実にまじめに実直に斜めに傾いた人物や風景、静物を何点も何点も飽きずに描いている。ちょっとデフォルメしました、洒落です、冗談です、といった軽いものじゃないのだな。何かしら自分の法則というのか真理、理、を見つけてそれにしたがって、やむにやまれずこういった描き方になったということなんだな。

 子供たちが描く絵をみていると、よく電信棒や立ち木が道に対して直角に寝て描かれている場合がある。これは実際に見た風景ではなく、生活の習慣上体験したこと、電信柱は道に対して直角に空に向かって立っているという経験が描き込まれているんだな。普通、科学的な視覚で言うならば、そんなことはありえないのだけれど、あえて遠近法を無視した色んな視点から見た画面を一つに描いたということなんだな。ここのところが画期的に新しいことだった。

 今でこそ多視点はピカソなどの偉大な作家によって極普通に語られ、先駆的な作家として認められてはいるけれど、まだサロンが大きく権威があった頃はほとんど気違い沙汰であったと想像する。

 それではセザンヌが発見した法則、理とは何だったのか?そんなことを書いてみたい。
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なぜデッサンするのか?という検索で私のところに入ってきた人がいる。それをつたって反対に検索してみるとなるほどなと思う文章にぶつかった。勝手に引用しておきます。気に入ったらたずねてみてください。
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http://kattak.exblog.jp/5357267/
「Dessin : デッサンをすることの意味って何だ?」より勝手引用
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 略・・デッサンを描くというのは現在目の前で起きている現象を突き詰めて考えるということでもある。目の前に宇宙の法則の全てがある。絵を描くというのは感性の問題だと思われがちだが、実はその大部分は物理学的、科学的な思考なのだ。

そして、言わばその副産物として3次元的なものの見方が可能になり、「形」が見えるようになる。「形」が見えればそれは描けるのだ。器用さなど関係がない。だから描ける人は左手に鉛筆を持っても、足でも描けるはずだ。

で、さらにそれらを越えたところに「表現」がある。ここまで行って初めて「良いデッサン」になる。

日本の美術大学の場合、入試にデッサンがあるので大学入学前に皆デッサンをやるのだが、ヨーロッパの美術大学ではどうしているのか?今でもデッサンをやっているのか?と疑問なのでいろいろと検索したら、時の人「佐藤可士和」氏がデッサンについて力説してた(笑)。無断で抜粋しとこ。

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http://www5e.biglobe.ne.jp/~gajuku/artisttalkks.htm
可士和; ぼくは、アートに関わる以上「デッサン力」がないとダメだと思っています。「デッサン力」とは「理解力」のことです。描くこと=理解することですから、見方・把握の仕方の訓練が描くこと(デッサン)なんだと思います。また、広告ディレクションは「視点とセンス」が命です。フツウの人と違う視点でものを見て、センス良く再プレゼンテーションすることが広告ですから、ひとつのモノ・コトをいろいろな見方(価値観)で見れるように訓練しなければいけない。そのためには「デッサン」が有効だと思っています。
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 略・・
引用終わり
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 今日は地元の新聞の取材があった。随分と長くしゃべった気がするのだが、内容はいつもここに書いているようなことだ。二三日のうちに掲載されるだろう。

 もう一つ驚いたことは記者さんの親父と私が同じ歳だったこと。彼のような大きな息子がいてもいいということなんだな。自分には子供がいないので、そういった感覚がわからない。いつまでも子供で困る。
 





209e3b6d.jpg
  昨年の作品も一応組み作品のようなもので、②のように展示するつもりであったがそうしなかったは面倒になったからだ。アトリエが狭いということもあるのだけれど、わたしの作品は一つ一つが独立しているような描き方なので、今のアトリエでは最大でもF130号しか描けない。この一つ一つが独立しているというのはとても大切な要素で、一度に全体を仕上げてゆく描き方といってもいいかな。

 絵を描かない人にはなかなか説明するのが難しいのだけれど、では反対の描き方はというと編あみ物やパッチワークのような描き方といえば分かりやすいかな。全体が一つではなくて部分の集まりが全体になっているような絵ということかな。こういった絵の特徴はどんどん増殖ができていくらでも大きな絵が描けるということだ。

 全体を一つのものとして描いて行く描き方の先駆的な作家はセザンヌだ。またそのうちに書いてみよう。

 で①は今年の組作品。元々は一つ一つ独立してういるものだが、こうやって組にしても違和感がないようにまとめたつもりだ。横の長さが368cmある。



 
はる 3160
 東京の個展が楽しいのは異邦人になれるところであろうか。日本でありながら異邦人というのは少しおかしいのだけれど、あの街は私にとってある意味異国のようなものだ。生活の場でもなければ、何か人間関係が発生する場でもない。仕事場といえばそうなのかもしれないが、普通の意味の職場ではない。

 かつて一度もそこに住んだことはないので、地下鉄に乗っても、街を歩いても顔見知りに出会うことはほとんどない。多くの人が行き交うけれど、私のことを知る人は誰もいない。無名のただの路傍の石のようなものだ。そこのところが心持いいのだな。

 日常的にそこに住んでしまえば、少なくとも何かしらの人間関係が出来て色々と面倒なことに巻き込まれてゆくのだが、それはそれ人が生きてゆくためには仕方のないことだけれど、高々一週間そこで遊び暮らしている分には、まぁ旅人のような、風来坊のような、旅芸人のような感覚で楽しい、終わりが近づいてくると一抹の寂しさがある。

 どこまでそうやって暮らして行けるのか、どこまで行けるのか分からないけれど、いつの間にかだけれど、まぁこれが望んでいた暮らしに近いような気もする。こうありたいと強く志を持っていたわけではないのでね。何となくだな。

 先日の話につながるのだけれど、白黒はっきり付けるとか、理路整然としているというのは一見正しいし、カッコよくはあるのだけれど、反面それは他を認めないという排他的なところもあるわけだ。我々は今までそれが正しいと教わって暮らしてきたわけだけれど、自然それが身についてきたわけだけれど、まぁそんなにカッコよく生きられないなぁとは最近思う。もっとルーズだし、いい加減だ。

 欧米型の効率を考えるなら、これはもっとも不出来な、出来損ないの言い訳にすぎないのだけれど、あえて色々あってもいいという多様な混沌の選択でもいいかなと思い始めた。そういった方がより大きいというのか、宇宙の理に近いのじゃないかと思う。

 国母選手がいてもいいのだ。
 



 
蔵出し
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はる 3051
 「般若心経6」
 「美は混沌にあり」これは新しい概念だな。ここのところ考えていることにぴたりと当てはまる。「美は発見である」というのが私の今までの考えだった。思えばこれはもう十年も変わらない考え方でね。まぁ今も基本的にはその立ち位置は変わらないのだけれど「美は混沌にあり」の方が本質的な気がする。

 「美は発見である」というのはどこから来たのかといえば、よく「絵なんて好き嫌いでいいじゃないか」といわれる。そういわれて、確かにその通りなんだけれど、どうも何かしっくり来ないものがある。子供が好きというのと大人が好きというのではどうも違うのではないかと。本当に「好き嫌いだけ」なのかなとね。

 何でもそうなんだけれど「人は自分の身の丈にあったものしか理解できない」幼稚園生にいくら正しくても高等数学は理解できないだろう。それと同じでいいか悪いかはその人次第、その人のレベル次第というところがあるな。だから、まぁ「これが好き」といえば簡単にいえばその程度の人間だということかな。

 ところがね、ここのところが難しいところなんだが、例えばピカソは子供が見て面白いと思わないか、興味を示さないかと言われればそんなことはないんだな。本物というのは実は子供から大芸術家まで満足させる多くの引き出しを持っているということなんだな。ある程度の教養のある人しか分からない美というのは、まだまだ本物じゃないと言うことじゃないかな。

 ドゴン族のお面とか扉とか鍵とか家そのものも面白い。朝鮮の民芸とか日本の古い猿楽のお面とか、神楽のお面や奉納物なんどもおもしろい、初期の仏像なども面白い。当時の人が特に教養があって美の何たるかを理解していたとか考えていたとは思えない。そういった価値はまぁこちら側の物差しであってね、彼らは「美(うつくしい)」とか「信仰」「道徳」などという概念も無かったように思う。あったのはただ「いい」ということだけだったんだろう。

 この「いい」という概念も様々だ。「美」とかいて(よし)とも読む。「善」も(よし)だし「儀」も(よし)、だし「良」「好」もよしだ。「よし」というのを調べてみるとこれまたなかなか面白いように思うな。

 ある時、ある場所では「よい」であっても時空が異なれば「悪い」になるのであれば、それは普遍性が在るとはいえない。もっと違う概念、普遍的な考え方がないものかと探っていた。

 ところで、また般若心経に戻ってみる、
「「般若心経とは、この世にあるものは、すべて実体のないものだから、生じたということも、滅したということもなく、汚れたものも清浄なものもなく、迷いもなく、老いも死もなく、苦しみもなく、心をおおうものは何一つなく、それゆえ、恐れるものもないので永遠の平安を極めているのです」

 「いい」「わるい」の判断を超えたところに真実があると言っているきがするなぁ。「いいもわるいもない」と言ってしまえばそうなんだけれど、「いい」にこだわって「わるい」を排除すると、いつかまた排除される側になる。

 壊れた物はさらに壊れることはない。死んだものは再び死ぬことはない。なくなった物は二度なくなることはない。正しいものはいつか正しくなくなるかもしれないけれど、元々いいも悪いも無いものは永久にいいも悪いも無いという禅問答だ。

 統一された、これしかない、唯一のというものほど危なっかしいものはない。明日から保身にまわらなければならない。

 「美は混沌にあり」
 



 
↑はとっておきの布地。インド綿のプリント模様。裏地は真っ赤なローズヴァイオレット。どこか昔チベットの仏教寺院を見ていると、まるっきり同じような色の装飾を見た。それからそれから、中国の京劇や韓国の舞の衣装や日本の神社の歌舞、ほとんど同じような配色だな。現代の歌舞伎になるとやや渋い日本人の好みが入ってくるように思うのだけれど、元々のルーツは同じかもしれない。

 西欧の色彩理論というのは極めて論理的で、要するに破調もふくめて、トータルには調和するということを目指しているように思う。現代の我々の感覚もどちらかといえば西欧化してきているんだろうな。だから↑のようなめったやたらな極彩色のようなものは反対にエキゾチックなものを感じてしまう。

 アジアの色彩は混沌だと思うな。ということで少し前の「美は混沌にあり」を転載。

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はる 3046
 「般若心経5」つづき・・これもまた徒然に
 けれど「美は混沌にあり」ということになれば少し違うなぁと感じている。

 そうだなぁ、例えば美術史を勉強する、中世があってやがてルネサンスがあって、バロックの時代があって、古典の時代がきて印象派ができて、現代があるみたいに何かしら理由があって、時代が変わって行くように理解する。学問とか知識というものはそうやって分けて「名前をつけて」分類して行くことだ。

 まぁ普通に勉強して行くと魔法にかけられたように全ての人がそれが正しい唯一の道のように考えるわけだ。確かに、たしかにそうやって人類は色んなものを理解してきたし、効率よく人間に役立つように世界を環境を利用してきたわけだ。

 まぁ世の中の価値というものの体系を作ってきて秩序立てたといってもいい。それが今現在の我々の姿だ。

 「美は発見だ」「これが一番だ」というのであれば結局AがBになっただけで本質的に何ら変わりは無い。根本的な変革ではない。五十歩百歩。いつかはまた新しい価値に取って代わられてしまうだろう。子供が陣地を取り合いしているようなものだ。

 規則のあるものは不規則に、秩序あるものは無秩序にさらに混沌とすすんでゆく。なぜならそれが一番安定しているからだ。

 ところでそれでも宇宙が崩壊せずに存在するのは、ある意味の「無秩序な秩序」というのがあるからなんじゃなかな。それが何なのかよくわからないのだけれど、多分「言葉にできない」「意識されない力」「潜在的な力」であるきがするな。

 宇宙のある部分をとれば他と全く違うように見えるけれど、ある程度の広さで捉えると、それはずいぶんと似通ったものになる。それは例えば地球と太陽では全く違う星である。けれどもっと大きく太陽系と他の系でみてみればどちらも同じような構造を持つことが分かる。

 何もないところと、星たちが集まっているところがあってとても均質であるとは見えないけれど、もっと大きな範囲で捉えれば結局その内容は大きく違わないということがわかる。

 ある場所だけみてそこの構造や組成だけで宇宙を語った気になるのが我々なんだけれど、実はそれ以外のところでは例外だらけでそんな秩序は無かったりするわけだ。

 美術史やスタイルだけでその時代を統計立て考える違うのではないかと思う。世界はもっとアトランダムで混沌としている。

 「美は混沌にあり」
 



 
はる 3156
 今日は一日雨。野暮用で一日つぶれる。

 



 
はる 3155
 例えばネット裏から野球を見るとする。最初はネットがじゃまになる、ところが慣れてくるとネットは存在するけれど気にならなくなる、そしてやがてあることさえ忘れてしまう。

 水道の水がぽたぽたと落ちている。気になって眠れない。しかしやがてつかれて音が聞こえなくなると、眠りに落ちたということ。水の音を聞いている限り眠れない。

 竹刀を持ったこともないのだが、例えば剣道の達人というのは剣をやわらかく持っているのではないだろうか、自在にどんな風にでも対応できる構えというものは、力の入ったものではないし、殺気立ったものでもないだろう。そこの具合が極意なんだ。

 ピカソは90年かけてピカソになった。ピカソの絵をみて誰もデッサンがおかしいとは言わない。彼自身正確な形を表現しようとは思ってないからだ。そんなところに絵の目的を置いていない。自由にピカソのように描いた。だからピカソなんだ。

 ここのところが難しい。絵を指導するのに、こういう人が多い。「基礎も何もいらない、自由に描けばいい」というのは簡単なことだ。けれど基礎がない人が一番デッサンにこだわるのだ、見えたとおり正確に描きたいと思う。

 反対に言えば、自由に形や色にこだわらなく描くためにデッサンが必要なんだな。そこの部分を気にしなくなる、ネット裏の野球でいえばネットが見えなくなるまで、水の音が聞こえなくなるまで、竹刀を持っていると意識しなくなるまで、描く必要があるんだな。で、初めて自在に描けるようになるように思う。

 それでもまだ
「有為の奥山、今日越えて、浅き夢見し、酔いもせず」
なんと奥深いものか・・。

 
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