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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3212
 一つ上から考える。どういうことか?と言えば、絵を描くための人生だというのは案外簡単なことのように思う。例えば「LOVE&PEACE」「世界に平和を!」とか簡単に口に出して言う。確かにそうなんだけれど、だれも反対はしない言葉なんだけれど、お題目のようで何の実もない、まがい物だ。

 世界に平和をというのであれば、例えば身近なことでボランティアに参加する方が、実があるというものだ。

 話が違うところに入ってしまった。「絵に命を懸けました」というのも簡単だ。言葉だけならね、何だって簡単だ。でも、実際に絵だけを描いて生きている人がいたら、周りの人はすごく迷惑だろうね。自分は少しは満足かもしれないけれど、巻き込まれる家族や周りはすごく迷惑だな。でも、それだって仕方ない、彼は芸術家だからって言うかもしれない。そうかな?芸術は突き詰めれば哲学とか、宗教になる、人の幸福のためにならなければ意味ないなぁ。自己満足の発露だけじゃ、子供のお遊びみたいなものだ。そんなものなら、人が一生賭けて追求する価値もない。

 「芸術のために生きる」のではない「生きるための芸術」であらねば意味がない。

 最初に戻って一つ上から考えるというのはそういうことだ。

 つづく
 
 
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はる 3211
 今日は久しぶりに学校に出かけた。新学期の準備をするためでもあるのだが、新学期早々私事で休講しなければならない、そのことの手続きをするための用件を片付ける。

 昨日突然話があったことなんだけれど、ひょっとして三ヶ月という、長い期間作品を貸し出すかもしれない。それは個展ではないのだけれど、まぁ限りなく個展に近い。具体的に決まればここでまた案内します。

 新しい作品は個展のために取っておかねばならないので、今回の話は旧作でいいということなので、額さえ間に合えば何とかなるのじゃないかと考えた。お店のディスプレイとして、まぁ私の絵がそういった場にマッチするかどうか危惧するのだけれど、私の関知することではない。

 作品は持っていても仕方ない。具体的にどこかに飾って観てもらえるチャンスは多い方がいいわけだ。こうやってお声がかかるだけありがたい話だと思う。



 
 書いた記事か消えてしまった。もう一度書く気になれないのでお仕舞い。また明日。



 
 今日は勝沼の方のぶどう畑でピクニックと洒落込んだ。↑の写真は冬場に剪定したぶどうの枝の束です。こうやって冬場に剪定したり肥料を与えたりして手をかけて、やっとまともなぶどうが出来るらしい。ぶどう棚は結構急な斜面にあってこれを上ったり降りたりするだけで結構な重労働に思われる。それゆえに後継者が少なく、どんどんぶどうが作られなくなっているようだ。私のようにただ見るだけなら、美しい風景の中で仕事できるのはいいなぁなどと思うのだけれど、実際はもっと厳しいようだな。

 県内産の農産物やワインなどもそうだが、需要があってもそれを作る担い手が育っていないのが現実だ。確かにコンビニで時給で働いた方が現実的に手っ取り早く収入が得られるからね。だれも体を動かす肉体労働をやろうとはしない。作るより買った方が良い物?が手早く手に入るならだれも作り手にはならない。

 何が「いいもの」なのか。安ければいいのか、見た目がよければいいのか、この「良い」という価値判断が難しい。もっと言うなら我々は古来持ってきた、教えられてきた「良い」という価値観を壊して今のこの『便利で、効率的で、清潔な」生活を手に入れて来たんだな。

 例えば地方の町中が荒廃している。一つの原因は若い人たちが都会に出てしまって活気がなくなったということがあるだろう。仕事がないということもあるかもしれない。面白いことがないということが原因かもしれない。ただそういった原因も突き詰めていけばこの「何がいいのか」ということを教えてこなかった、教えられてこなかったということに突き当たる。

 もう少し考えてみたい。明日はまた東京です。



 
 今日は教室があった。生徒である彼は80歳を越えている人生の大先輩でもある。普通は小さなバイクに画材と何枚か描きかけの絵を一杯持ってやってくる。今日は80号やら100号を含めて赤帽さんを頼んで教室まで来た。古いよれよれのコートを着て絵を描く姿は大道芸人のようで絵になるなぁ・・。絵が好きですきでたまらない、入選とか受賞とか全く関係ない。ただ描きたいから、好きだから、絵を描くことの醍醐味はそこにある。いつもそう思います。ありがとうございます。

 思想家とか芸術家、哲学者とか詩人とか、ある意味そんな職業はない。共通することは考える人だということか。何の役にもたたない極つぶしということでもある。

 今の自分はここ10年ほどの私の集大成である。そう考えるいまさら何を考えることがあるのか、私はれっきとしたくだらない極つぶしでしかない。



 
はる 3206
 午前中は春の嵐のようで雨も風も強かった。予定していたので北の方へ桜を見に出かけたが、まだ少し早かったようだ。熊出没注意!だと。

徒然に・・

 いまさら人生をやり直すわけには行かないのだが、まぁもう一度やれといわれてもやっぱりこういった行者のような生活をするのではないかと思う。いや、実際は色んな欲にまみれて日々の暮らしを送ってはいるのだが、それはどう生きたらいいのか、どういった生き方が私が望んでいる生き方なのか、それでは、私とは本当はどんな人間なのか?という問いかけの奇跡でもあるわけだ。答えなど出るわけはないのだ。

 30年前に絵描きになりたいと思った時に、私は絵さえ描ければ幸せだという人間ではないことを知った。そのことに気づいてショックを受けたな。例えばゴッホのように無我夢中に描かざるを得ない衝動に突き動かされて、やむにやまれず描き続けている、そんな人間であったらどれほどよかったか。まぁ人間はそんなに単純ではない。

 天然であればどれほど楽か。あちらの世界に行きっぱなしの人を芸術家とは言い難いのだけれどね。

 どうなりたいか?やっぱりまだもう少し考えたい。



 
はる 3204
 メセナとか奨学金とか補助金とか、私も若い頃は随分利用させてもらっていまさら言えた義理ではないのだが、もらった本人は嬉しくて有頂天になって後は何とか使い切ることばかりを考えている。どうもこの感覚というのは政府の予算の配分に似ていて、使い切ってしまうということに意味があって、それを何かに役立てるということに目的が置かれていない、本末転倒型が多いように思うなぁ。

 奨学金や補助金をもらうと、何かしらの報告義務があって、確かにこれこれのことを実際にやりましたという、ある種の体裁ばかり、カッコばかり、つけることに始終して、確かに見た目はすごく内容があるように見えるけれど、実際は見てくれだけで内容は薄っぺらというのが多い。これも野球の消化試合のようで気の抜けたものだ。

 人間というのはある意味ものすごく利巧でね、目の前に餌があるとそれを獲得するために一生懸命になるけれど、餌をもらってしまうと急速にやる気、モチベーションが落ちる。ほかの事にその能力を使ってしまう。この場合だとみばのいい報告書を書く事だな。

 まぁ何が言いたいのかわからなくなった。また明日。

 
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