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これは町内会の主催で近所の親父が交代で夜店をやっている。健全だけど何もおもしろかない。あれは非日常のどこからとも流れてくる、ちょっとあぶない系のお兄さんだから面白いのだ。こんなお祭りが本当の祭りだと思っている子供たちはかわいそうだね。もっとこうスリルのある違う世界を覗き見たような興奮があるもんなんだよ。お祭りと言うのはさ、今のは形だけ真似したただの催し物でしかない。まぁいいけどさ。
山口画廊の画廊通信を無断で転載します。
http://home1.netpalace.jp/yamaguchi-gallery/top.cgi
画家と画商というのはある意味同じ船に乗った志を同じくした仲間だと思います。作家だけではなかなか世の中を渡って行くのが難しいし、画商もまた同じ。画商は作家が作家として精進できるように世間とのパイプ役に徹する。そんなうらやましい様な関係がつづられています。作家の最後のメッセージがこころ打ちます。
「画廊通信 Vol.80 名もなき草のように(第5回佐々木和展)
「ちょっと体が悪くなってしまったので、6月の個展は旧作も入ってしまうと思いますが……」という電話が入ったのは、昨年2月の事である。「胃ガンなんです。来月、手術の予定です」と、やけに明るく話される画家に、私
は何とお答えしていいのか分からなかった。
翌々月、京都で開催される個展案内が届いて、見ると “Ever Green NeverDie” というタイトルの脇に、こう書かれてある。 「二俣川ガンセンターから、ガン研有明に移りました。ガンバります」、早速お電話を入れたところ、開腹したが転移のため閉じて、抗ガン剤による治療に切り替えたとのお話、「ところで、案内状に載せる作品は、いつまでに送ればいいですか?」と、電話口の声はいつもと変わらずお元気であった。
翌5月の中旬、私は画家のアトリエにお伺いした。今までと趣向を変えて、今回は「密陀絵」でやりたいとの意向だったので、しばし作品を見せて頂いたり、技法の説明を受けたりのひと時、佐々木さんは随分とやせられた感じだったが、次々と作品を運んで来ては手際良く並べてくれたりと、いたって快活な振る舞いである。おかげで私はお話をしながら、目前の人の大病をつい忘れかけたりしていたのだが、今にして思えば、それは画家の思いやりだったのだろう。佐々木さんは最後まで、そんな人だった。 その日、打ち合せを終えて辞去する前に、ふっと微笑んで語られたひと言が、私は忘れられない。「来年は出来ないかも知れないので、高島屋は断ったんです。山口さんの所でやる時は、もういないかもね」、本当にいなくなってしまうとは、思いもしなかった。
佐々木さんと初めてお会いしたのは、5年前の秋である。ある美術誌をめくっていて不意に出会った、一枚の作品写真がきっかけだった。「八月の凪」と題された絵で、画面の下半分いっぱいに大きな魚が描かれ、精妙な色あいに染まる穏やかな海の彼方に、一艘の小さな釣り舟が浮かんでいる。一目見て、なんて気持ちのい、伸びやかな絵だろうと思った。これぞ天啓と確信した私は、早速連絡先を調べてその日の内に電話を入れ、数日後には作家のアトリエへと向かった。常日頃、優柔不断の私としては、異例の速さである。
JR横浜線の十日市場駅で下車、10分ほども歩いて住宅街を抜けると、突如緑豊かなエリアに入り込む。坂を降りて脇道にそれた一角に、目指す作家宅はあった。折しも晩秋の寒々とした日で、ちょうどストーブの石油タンクを下げて、物置から出て来られた画家にご挨拶申し上げ、こたつで暖まりながらゆったりとお話をさせて頂いた事が、ありありと思い出される。 以前は釣りが大好きで、房総方面は何度も行った事がある、あの絵は釣り上げた魚を描いたもの、楽しく釣っておいしく戴き、しかもその絵を買ってもらう訳だから、こんなにいい事はない、アハハハ、しかしここ数年は陸に上がって、付近の谷戸を描いている、谷戸は自然の宝庫でね……。 初めてお会いした画家は、モジャモジャの頭で見るからの自然体、とてもソフトで飾らないお人柄でありながら、一本妥協のない芯をさりげなく秘められた風、要は思っていた通りの人であった。
翌2006年春、「四季彩譜」と題した初めての個展を開催させて頂いた。 この時は会期中に2日ほどご足労頂き、両日共にあまりお客様には来て頂けなかったので、おかげで様々なお話を伺う事が出来た。「私の絵にはすべて、その時の出来事が入ってるんです。どうせだから端から行ってみますか」と、それぞれの作品にまつわるお話を、イキイキと語ってくれた佐々木さん、深閑とした画廊に響いた朗らかな声が、鮮やかに今も耳に残る。「これは林道に咲いていたカタクリの花、これは名前は知らないけど、道端で踏ん張っていた雑草、これは近くの森に住んでいる鷹で、こちらは雪の日見た野うさぎの足跡、一度うちの庭でバッタリと遭遇した事があってね、でかいくせに気絶しちゃったんですよ」、そんなお話を聞いていると、あらためて画家の描く谷戸の自然が、決してモチーフとして使われているのではない事が分かる。例えば佐々木さんは、飽かずに繰り返し描いて来た雑草達を、「絵の題材」とは微塵も考えていなかっただろう。それは画家にとって、まずはかけがえのない尊き生命であり、溢れる様な共感を覚える同胞であり、限りない敬意を捧げるべき、谷戸の象徴であった。おそらく画家は、描かずにはいられなかったのだ、独り大地に毅然と根を張って、けなげに生きる名もなき草達を。
佐々木さんは、見るからに壮大な絶景を、豪奢に描き上げるような作家ではなかった。人が見晴るかす大自然に嘆声を上げる時、独りそのまなざしは、徹して足下にあった。ましてやそれが、取るに足らないものであればあるほど、いよいよその眼は慈しみに溢れた。何でもいい、画家の描いた小さきもの達を、一目見て頂ければ分かる、そこにはどんなきらびやかな花も及ばないような尊厳が、凛として静かに湛えられている事だろう。
展示会を終えた春の盛り、私は作品を返却に、再び横浜のご自宅までお伺いした。庭への急な坂道を登ると、まずは「ワンワンワン」というけたたましい出迎えがあって、ガラガラと玄関のガラス戸を開ける音と共に「こら!」という飼主の声が聞こえて来る。そして「あ、どうも」と爽やかな笑顔を見せる佐々木さん、いつも同じだった。くだんの庭番は、ボサボサに毛の垂れた、何となくみすぼらしい犬だったので、私はてっきり老犬だとばかり思っていたのだが、後日お聞きしたところ見かけよりはずっと若いのだそうで、いつも谷戸まで散歩に連れて行くんだと話されていた。 この日は、良い結果報告が出来なかったにもかかわらず、翌年の展示会を快くご了承頂いたばかりか、裏の竹薮で今掘ったばかりという、大きなタケノコまで戴いてしまい、何やら晴れ晴れと千葉への帰路に付いたのである。両手で受けてもズシリと重い、丸々と太った見事なタケノコで、春の谷戸に育まれた新たな命が、満々とみなぎるようであった。余談になるけれど、あんなに甘くて美味しいタケノコは、後にも先にも食べた事がない。
翌2007年夏、第2回展「野原詩(のはらうた) 」を開催、続いて2008年夏の第3回展「君がいた時」、そして昨年の第4回展「密陀絵(みつだえ) の世界」、こうしていつまでも毎年の展示会は、続いて行くものとばかり思っていた、お互いに段々と齢を重ねながら。会期を終えた昨年の七夕、私は作品を返却するため、いつものようにご自宅へ伺わせて頂いた。佐々木さんは普段と何ら変わりないご様子、実は近々私も小さな手術を控えていたものだから、それに備えた食事療法の記事をコピーしてくれたりと、かえって私の方が病人のようである。
「日頃の食生活が大事なんです」と、簡潔に説明をしてくれた後、画家はにこやかにこう言われた。「山口さんが倒れちゃうと、困っちゃう人がいっぱいいますから……」、分に過ぎたるは言わずもがな、この優しい励ましの言葉を、私は決して忘れまい。 月が変わった夕刻、画家宅へお電話を入れたところ、「今呼んで来ますね」
という奥様の言葉である。しばらくお待ちしていたらまたお戻りになられて、「散歩に出ちゃったみたいです」とのお返事、受話器を通してではあったが、私にとってそれが最後の画家の姿となった。「和さんが亡くなりました」という連絡が、地元横浜のギャラリーから入ったのは、それからわずか2ヶ月ほどを経たばかりの10月上旬である。私の脳裏には、真夏の夕暮れに長い影法師を引いて、愛犬と谷戸へ向かう画家の後ろ姿が、いつまでも残り続けた。
谷戸(やと) ──里山の森に囲まれた谷あいの地。谷津とも呼ばれ、人と自然が豊かな生態系を保って来たが、現在は乱開発のためその多くが失われつつある。そんな時勢の中、佐々木さんのこよなく愛した谷戸は、横浜という都市の中に、奇跡的に残された境域であった。 先月末、私は画家宅の傍らを過ぎて、その先に鬱蒼と広がる里山を目指し。満倉谷戸・旭谷戸・やまんめ山・梅田川、佐々木さんの作品におなじみの地名は、すべてこの周縁に位置する。とりわけ「満倉(みちくら) 」と呼ばれる谷戸は、画家の繰り返し描いた舞台だった。
初回展に「満倉の独り草」という作品があって、ご購入頂いたお客様のお店に伺えば、いつも目にする事が出来るのだが、私は特にその地を訪ねたいと思った。画面の真ん中に、一本の野草がすっくと立ち、気持ち良さそうに風に揺れている。後方には森に囲まれた野原、彼方の丘には小さな納屋、その上に青々と広がる夏空……。その日は折からの猛暑で、道には人っ子一人いなかった。徐々に緑の深くなる山裾を歩きながら、「佐々木さん、来ましたよ」と呟いてみる。きっとこの野路は、幾度も画家の通った道だろう。山陰に入ってふと目を落とすと、繁みの中の小さな路標に「満倉谷戸」と読める。その脇に伸びる小道を分け入ると、丘の上に突如畑地がひらけた。その真ん中には寂れた納屋、きっとあの絵に描かれていたものだ。画家の描いたアングルを探しながら、畑に沿った野道をたどると、たぶん農機具を置くためだろうか、道の脇に薮を拓い
て、小さな空地が作られている。それを目にした瞬間、あの絵を前に語られた佐々木さんの言葉が、ふいによみがえった。「ここにはちょうど、人が一人座れるような場所があってね、そこから描いたんですよ、すっぽりと森に囲まれてね」。 そうか、ここだったのか……。カメラを構え、ファインダーを覗いてみると、どうもアングルが高い。腰をかがめてもまだ高い。地面すれすれにファインダーを下げると、初めてあの絵と同じ視線になった。その角度から眺めると、目前の畑は彼方へと広がる丘であった。今は茶色の畝が見えているが、あの絵を描いた時分には、作物が植えられていたのかも知れない。ならば畑は、一面緑に染まる野原に見えただろう。後方をぐるりと囲む森、丘の上には小さな納屋、遥かなる夏の大空……、「満倉の独り草」は、正に野草視点で描かれていた。 帰り際にふり返ると、画家の姿がふっと見えた気がした。佐々木さんは空地にしゃがみ込んで、地面すれすれに顔をくっ付け、一心にスケッチブックへ線を走らせている。目の前には、時おり吹く風に身を揺らす、一本の野草。画家はそれを脇目もふらず描いている、なんだかとても楽しそうに。その横には、あの老けたボサボサの愛犬が寝そべり、ハアハアと舌を出して涼んでいる。それほど遠くもない日、確かにここにあったひと時……。
あの日、すべては柔らかな風に抱 (いだ) かれ、谷戸の森に包まれていた。そして今、画家は独り夢のように去って、この地には戻らない。しかし、かつて名もなき草となり、描き残したあの里山には、画家の確かな魂が刻まれている。だから、もう二度と戻らない時ではあるけれど、私は描かれた永遠の谷戸の道を、幾度も幾度もたどり直すだろう。佐々木さん、また会いに来ますよ。
ゴオーッと、風が谷戸を吹き渡った。私にはそれが、画家からの爽やかな返信に思えた。
(10.08.05 ~ 生前、最後の電話を入れた日に) 山口雄一郎」
転載終わり
中学生になった甥っ子がブログを始めたということで、ちょっと覗いてみた。そう50年も前の、我々の中学生の頃には全く考えられなかった世界で、自分の趣味のプラモデルの記事などを書いている。彼らは、生まれた時からパソコンがあって、ネットの環境が整っていたわけだから、テレビとかCDとか携帯と同様に、違和感なくこの世界に入ってゆけるのだろう。考えて見ると私がHPを立ち上げたころに生まれたわけだから、なんだか面白い。
ネットのいいところは、そういった年齢とか性別、職業、今までのキャリアなどが全く関係なく対等に記事が並ぶわけで、彼の訪問者の数と私の数にはキャリアほどの差はない。まぁがんばって続けて欲しい。何か得るところがあるでしょう。
勝手引用「放蕩息子の帰宅」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~nobpar/colum/colum04-0501.html
「・・・略・・
あるとき、取税人や罪人たちがキリストの話しを聞こうと集ってきた。それを見ていたパリサイ人や律法学者たちが「この人は罪人を迎えて食事をしようとしている」と非難した。そこでキリストが彼らにたとえ話をする。その話しの1つが‘放蕩息子の帰宅’といわれている上記のお話だ。
この話の中で父はずっと彼の元で働き、言いつけを守っている兄には冷淡であるのに対して、家を出て放蕩の限りをつくし、父の財産を食いつぶしてしまった弟には温かい。普通では考えられないことではあるが、父を神、兄をパリサイ人や律法学者、弟を取税人や罪人をすると何となくわかってくる。
兄は確かに父のもとでその言いつけを守り暮してきたが、父のありがたさがわかっていない。特に何の思いもなく、ただそれが世間の常識だというだけで父のもとで働いているに過ぎない。彼の体は確かに父の近くにはいるが、その心には不満があり遠く離れているように思える。
一方、弟も最初は父などどうでもよかったに違いない。だから、財産を分けてもらった後、家を出て好き勝手な暮らしを始める。しかし、放蕩のあげく、身を持ち崩し、悲惨な暮しを余儀なくされたとき、初めて父のありがたさがわかり、出ていった家がいかに温かい場所だったかを知った。ボロボロになって家に帰って来たとき、弟は心から父を慕っていた。
この話はどんな罪を犯そうとも、悔い改めるのなら神は門を開き受け入れるというたとえ話だ。しかし、そういったキリスト教の教えだけに止まらず、この話にはいろいろな真実が隠されているように思える。
常識的で利口な生き方をしているが、不満でいっぱいになっている兄。失敗を繰り返し、遠回りの生き方をしながらも、それ故に何かしらを見出した弟。形ではなく、真実の心を重要視した父。
効率的に無駄なく生きるだけでは何か物足りない気がする。時には間違い、失敗を繰り返しながらも何かがそこに見つかれば無駄も無駄ではなくなるように思う。そしていつか帰りたくなるような家が見つかればいいと思う。」
おぉぞろ目の3だぜ。毎日更新して約10年かかる。悔しかったらやってみな。出来るようでできないぞ。まぁだれも褒めやしないから、自分で自分を褒めておこう。こういうほぼ毎日やるというのは、けっこう利くんだな。何がって?文章を書くにしても、楽器をやるにしても、そうそう、絵を描くことでもね。兎に角毎日やること、そうすれば何かが見えてくる。いや、見えてくることが多い。理屈じゃないんだな、色々言う前に毎日やること。そうすれば自然に取っ掛かりが見えてくる。自分の姿がおぼろに見え隠れしてくる。借り物でない自分の言葉でかけるようになるし、唄えるようになるし、描けるようになる気がする。
昨日の続きだけれど、宮崎進の話。舞踏の亡くなった大野一雄氏などもそうだったけれど、晩年は体の自由が利かなくなって、アルツハイマーも患っていたように聞いた。ほぼかすかに動く手を動かしながら、それでも表現しようとしていた。その姿は異様で見るものを圧倒するものがあった。
ご本人はどう感じているのだろうか、昨日の宮崎さんを見たときにも同じような神々しさを感じたな。宮崎さんは80歳ごろまで元気で元抑留されてたシベリアに行ったりした映像が放映されていた。ダンディで高名な画家という雰囲気だった。何年か前のサンパウロのビエンナーレに招待された様子もそうであった。だけど、そこにはまだ演じられた画家がいただけのように感じた。シベリアに行っても説得力はなかったな。
あのパーキンソン病を併発してからの姿はそのものが表現者であった。ダンディでもない、おしゃれでもない、カタカタと震える指と、絶え間なく口をもごもご動かしている老いた、衰えた醜い老人の姿が、かっこいいとおもった。ご本人はどう思っているのだろう。普通元気な自分を、かっこいい自分を映して欲しいと望むでしょう。老いて醜くなった自分なんて、全国に放送して欲しくないでしょう。
「自分の老い様をみろ」「死に様を観てくれ」「生きて老いて死んでゆくというのはこういうものだ」もっとぼろぼろになっても表現し続けるぞ!と言う声が聞こえた。人の、表現者の業なんだろうな。
そうありたいと思う。
明日はカウントがオール3のぞろ目になる。べつに何の祝い事もしないけれどね。3500ぐらいになると何かプレゼントを考えましょう。
日曜美術館で宮崎進の特集をやっていた。ほとんどテレビは観ないけれど、彼の生き方は一人の表現者として共感できるし、どんな風に老いてゆくのか見とどけたい作家でもあった。多くの作家はそこそこの年齢になると巨匠風になって作品が停滞してしまうか、後退してしまう。大体作品も小さくなって適当なところで満足してしまう作家が多い。
しかし、まぁ今日の宮崎さんには驚いたな。元気な時の彼しか知らなかったから、老いて病気を併発して体の自由がきかない、老人特有の微妙な体のふるえとか、歯の抜けた顔の表情とか、一変した容貌にまずカウンターパンチをくらった。
普通、ある程度の年になると、スタイルは大きく変えない。それから段々に分かりやすい、穏健な、表現のスタイルになる場合が多い。具象的な作家が、若い時のようにこれからどうなるかわからないような抽象的な作品になってゆくことはまれだな。彼の最近の作品を見ていると20代や30代のまだこれから何とかしてやろうという若い造形作家のエネルギーを感じるなぁ。姿かたちはまるで老いさらばえて、今にも朽ちてゆきそうな枯れた感じなのに、表現は充分若々しい。エネルギーに満ちている。
男性の作家は晩年は面白くない。大体大きな団体のトップになったり、会長になったりで、肩書きがつくことで満足してしまうのだろうな。それに比べて女性は老いて益々破天荒に面白くなる。子育てや、家事から解放されて、どんどん自由に描きたい様に、作りたいように作る喜びに満ちてくる。
晩年のいい男性作家は最近では土牛さんとか高山辰夫さん、山口薫、香月泰男、木村忠太、松田正平、須田剋太かな。好きな作家といった方がいいか。
(これは飛ばして下さい)そうそう、大学の夏休みは帰省せず、図書館から出来るだけ厚い借りて足をバケツに突っ込んで本だけ読んで暮らしている奴がいた。学食も閉じられてしまう夏休みは大学の山の寮に二週間ほど閉じこもって絵を描いた。一人合宿。
村上春樹はあまり好きではなかった。好きではない割りにほぼ全ての本を読んでいるのは家人がファンで新刊が発売されると必ず購入するからかな。何が触手を刺激しないかといえば、どうにもこうにも理論的でない何物かが前後の脈絡と関係なくでてくるからで、おいおい見て来たような嘘を描くなよ、と突っ込みをいれたくなるんだな。
けれど、そうだな、ここ最近はそれもありかなと許せるようになってきた。少しは文学が分かるようになってきたのだろうか・・・わからんけどね。いいじゃないか、見て来たような上手な嘘が書ければ、それも面白いじゃない。これ(1Q84)けっこう面白い。こんな言い方失礼だけど。
午後は久しぶりに髪をカットしに行きつけの美容院に行く。一度カットすると何ヶ月も放ったらかしになる。散髪は嫌いだ。美容院も過当競争で、ちょっとおしゃれなお店が出来たと思うと、ほとんどが美容院だったりする。これほどたくさんのお店があるにもかかわらず、やってゆけるのは技術があればほとんどお金はかからないからかな。
今日は珍しく夕立があった。少し涼しくなった。
例えば百貨店でも、土曜日は最上階の食堂で家族そろって食事して、屋上の遊園地で遊んで帰りましょう、というのが、ある意味ステータスであった頃は一番やりやすかったわけだ。ところが今はそんなことで満足するお客は一人もいない。
例えば、これが流行りそうだからこれを、あれがいいからあれを、というのであれば、いつしか疲弊してしまう。小さな商売ならそれでもいいだろう、でも百貨店という大きな商売をかんがえるなら、右往左往したくない。百年先を見据えた仕事をしてほしい。
創業時代、まだ時代が貧しかった頃、まず郊外を開発して住宅を分譲した。やがてそこで育った住民が鉄道を利用してターミナルの百貨店を利用する。そんな具合に彼らは長いスタンスで考えて仕事をしてきたわけだ。単に物を売るだけではなく生活そのものを開発して需要を生み出してきたのだな。
ハングリーに替わる新しい価値感を持ち込むということだろうか。いつまでも物販にこだわらない、新しい仕事を開発するということかな。
ここからはある種企業秘密になるのだけれど、教えてしまおう。例えば昨日話したものを教えるということにも共通する話なんだな。教える側が手取り足取り教えている状態というのは、教わる側は受身なんだな。確かに分かりやすいし、教える方もハウツーがマニュアル化しやすい。モチベーションでいえばまだハングリーな状態だ。
ここからが本当の教育なんだな。教わる側の気持ちに火をつけること、自ら進んで学ぶ姿勢に、能動的な状態まで持ってゆくことだ。そう考えると、物を売っているのはまだまだなんだな。何が幸福であるのか、自らが考えて生活を作ってゆく。そういった能動的な生き方の方法、考え方、生き方、遊び方、生活の仕方、アイディア、もっといえばそれらをひっくるめたライフスタイルを提案して啓蒙しながら、売ってゆくということかな。
こんな話に乗ってくる企業はいないかな。