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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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「猫の後ろ姿」さんがエールを贈ってくれた。どうもありがとう。
http://ameblo.jp/e-no4765/entry-10681353203.html
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    「花であること」   石原吉郎 
 
     花であることでしか
  拮抗できない外部というものが
  なければならぬ
  花へおしかぶさる重みを
  花のかたちのまま
  おしかえす
  そのとき花であることは
  もはや 一つの宣言である
  ひとつの花でしか
  ありえぬ日々をこえて
  花でしかありえぬために
  花の周囲は的確にめざめ
  花の輪郭は
  鋼鉄のようでなければならぬ

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 携帯を替えてから利用料金がやたらと高くなった。前は普通に使って3000~4000円ぐらいだったのにいきなり7000円以上になった。携帯で家族以外と通信することはほとんどないのに、私の何倍も利用しているカミさんと変らないのはどう考えてもおかしい。

 料金明細が送られてくるのだが、色んな名称がついてはいるのだけれど、ほとんど意味が分からない。この明細を見てすんなり理解できる人は相当変った人ではないだろうか。生命保険の但し書きのように、あえて分からないように、理解できないように書いてあるのではないかと疑ってしまう。分かってしまうと何か不都合が生じるのだろうかね。

 と言うわけで、またまたネットで検索してみた。そうするとやはり私と同様によく分からないで疑問に思っている人がいるものだ。

 今までの携帯のシャメは古いものだから画素数がとても少なくて、言ってみれば凄く荒い画像だった。まぁそれが幸いしていたのだけど、今の携帯の画素数は昔のデジカメぐらいの画素数があって、すごく綺麗だけれどフルサイズで送ると時間もかかるし、何よりも通信料が掛かるという事らしいことがわかった。

 メールとか画像の送信は電話のように時間に対してその料金が掛かるのではなく、大事なのはその情報量で掛かるということなんだな。パケットというそうだけれど、文字のメールなどは大した情報りょうではない、問題は画像だな。私は綺麗になった大きなサイズの画像を毎日、何枚も送っていた。これが凄い情報量だった。

 普通1パケットに0.2円の料金が課せられるのだけれど、私は一ヶ月に132,946パケット使用していた。単純に計算すると26,000円掛かることになる。新しい携帯になった時にパケホーダイ ダブルという契約をしていたおかげで定額の4,200円以上はかからない契約になっていたので助かったのだが、もし、そういう契約にしていなければ思わぬ高額の請求がくることになっただろう。それにしても本来の電話としての利用料金より高い通信をしていたということで、知らなかったというだけでは済ませられないな。

 まぁシャメの画素数を落としてそれでどうなるか、それでもだめなら少しシャメはひかえることになるかな。



 
 今日は人が来ると言うので、朝から掃除をする。接客そのものより掃除で充分疲れてしまった。ということで、その報告はまた。



 
 まぁ人のこし方行く末なるものを考えてゆくと、どうやっても最終的なあり方というのかね、老い方、そんなことを考えてしまう。

 それで、ホスピスの語源などを調べてみた
「・・・中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指した。そうした旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたことから、看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになった。教会で看護にあたる聖職者の無私の献身と歓待をホスピタリティ  という・・」

 ターミナルケアのところで書いたと同じ。この巡礼者というのが特に気になった。洋の東西を問わず、人はある時に巡礼に旅立つんだな。

 このところ年金の問題で高齢者の所在不明が問題になっているけれど、確かに残されたものが不正に年金をごまかすためということもあるかもしれないが、もっと本質的なことがあるのではないかな。

 動物は自らの死期を悟ると、どこかに出かけていなくなるというようなことを聞いた。案外人のDNAの中にそういった情報が書き込まれていて、ある時ぷいと漂泊の旅に出る。巡礼の業に出てそのまま行き倒れていってしまう。そういった生き方の方がある意味正しいのではないか。

 インドのバラモン教のなかに人生を四つの時期に分けて説いているのをみつけた。
1、学生期・・・あらゆることを学ぶ時期
2、家住期・・・家庭を持って子育てする
3、森棲期・・・森に住んで隠棲して修行する時期
4、遊行期・・・一定の住居をもたず乞食遊行する。漂泊期

 私はなぜか小さい頃から漂泊する修行僧に憧れるような、妙にませたガキだった。何がそうさせるのか分からないのだけれど、だから今もこのバラモン教の遊行期の話を覚えていた。意味もよく分からずに何となく漂泊の旅に出るんだなと思っていたのだけれど、何となく納得したな。

 何故「一輪の花」を持つか?ということなんだけれど、私などは旅芸人のようなものでね、芸を見せて生きている。だからどんなになっても、飄々とね歌を唄って生きてゆきたい。花はある種の自分たちの生き方の象徴のように思うんだな。



 
 今の制作方法になって、最初の頃は随分と自家製の絵の具を作った。色んな色粉を買ってきてはメジュームを混ぜて絵に具にした。面白いように絵の具の数は増えた。それは画期的な発見のように思った。そりゃそうだ、今までは絵の具は画材店で買うものだと考えて疑わなかったわけだから、それが簡単に色の粉で絵の具を作ることが出来ると知って驚いた。

 しかし、そういった新しい発見で喜んでいる時は案外つまらない仕事しか出来ていない。絵の具は絵を描く材料でしかないということに気がついた。そして随分と絵の具の数は少なく整理されてきた。少し前に書いたけれど、今は基本的な色はアクリル絵の具を使う。そしてどうしてもアクリル絵の具ではかえ難い、例えば胡粉とか砥粉とか弁柄とかその他土せいの顔料などの絵の具は自分で作ることにしている。

 そう、特別な赤は絵の具にはないから作るしかない。



 
 自分は大きな作品、例えば100号をこえるような作品はどうも苦手なところがある。アトリエが小さいということも関係しているのかしれないが、今まで上手く描けたと納得したことがない。自分の身体能力的には162cmx162cmぐらいまでで、それをこえた大きさのものは若干無理して描いているところがあるように思う。公募展やコンクールは大体100号前後が大きさの規制で、まぁチャレンジしていた頃は何枚も平行して描いてた時期もあったね。今はもうそれほどたくさんの大作を描くことはない。

 小品は失敗作も含めると年間で100点ぐらい描く。その中でまずまずの作品は半分ぐらいだろうか。段々個展が中心になってきたように思う。それはそれで絵描きとして生きてゆくわけだから、当然の成り行きのようにも思う。

 けれど、やっぱり小品ばかりを描いていると、ばかでかい毒にも薬にもならないような、無駄に大きい、間違っても売れないような作品もかきたくなるから不思議だ。まぁ精神衛生上こういった大作も必要かなと思っている。

 小品と大作というのが微妙にずれていて、なかなか同じようには描けない。気持ち的には大きくても小さくても同じように堂々とへたくそに描けばいいのだけれど、どうも大きな絵になると実力以上に見せようとするのか、下手を悟られないようにしたいという、姑息な気持ちが見え隠れするのか、満足できる作品にはならない。まぁそれが実力というものだろう。

 同じように見える絵でも、少しずつ変っている。最近の大きな絵は少し前の具象的な作風に変ってきたように思う。一時はかなりタピエスに影響されてかなり具象から離れていたのだけれど、また少し具象てきな人物が入ってきたように思う。「牧歌」とか「方舟」あたりの感じかな。まぁらせん状にスパイラルしながら繰り返してゆくから、だからどうだとはいえない。また大きく抽象の方に揺れることもあるわけだからね。そうやってどんどん深みに舟をこいで行くのだろうと思っている。
bubunn1s2.jpg

ターミナルケア(一輪の花)部分
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より勝手引用
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%A2
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ターミナルケアTerminal Care)とは、末期がんなどに罹患した患者に対する看護のこと。また、とくに重篤な病状や疾患がなくとも、老衰により死期に面した高齢者の処遇を巡って、在宅もしくは病院または介護施設のいずれであれ、そのあり方について議論のなされる概念である。終末医療終末ケアともいう。ターミナル(Terminal)は終末という意味である。

主に延命を目的とするものではなく、身体的苦痛や精神的苦痛を軽減することによって、人生の質、クオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life、QOL)を向上することに主眼が置かれ、医療的処置(緩和医療)に加え、精神的側面を重視した総合的な措置がとられる。

ターミナルケアを専門に行う施設はホスピス(Hospice)とも呼ばれる。Hospice の原義は、聖地への巡礼者や旅行者を、小さな礼拝堂を持つような教会が泊めた巡礼教会hospice の意味が転用されたものである。




 
 少しは秋らしくなってきた。

 甲府の個展のDMが出来ました。一度個展にこられた方は展覧会一週間前(11月)になりましたら送るつもりです。いま少しお待ちください。それから遠方の方で是非DMが欲しいというひとはここに住所、氏名を書いて送って下さい。



 
 人は長生きし過ぎたのかもしれないな。普通生物は子供が巣立ったら自らの寿命は尽きる。DNAを無事に運んだわけだから生物として一応の義務を果たしたというわけだ。ところが人類は子供がひとり立ちしても尚長く生きている。ある意味子供の足を引っ張る可能性も大いにあるわけだ。親の世代が子供世代に負担をかける生物など他にいないのではなかろうか。

 私自身がもう孫がいてもおかしくない年齢になってきた。この先のことを考えるとまぁ安穏とはしていられないのだけれど、さてさて、こればっかりはどうしようもない。どういう結末が待っているのか、楽しみでもあり、恐ろしくもある。だからあまり考えないことにしてきた。

 絵のテーマとしてそんなことがちらりと浮かんだ。終末医療というのは違うのかもしれないけれど、いずれ自分たちが面と向って対峙しなければならない問題だな。今はまだ頭でっかちで考えているだけだけれど、一度は死病と対峙した経験はあるのだけれど、この老という問題は初めてのことだ。どうやって付き合ってゆけばいいのか皆目見当がつかない。

 今回そんなことを考えながら作品にしてみたけれど、どうもまだまだ消化不良で上手くはいかない。そうやって周りを眺めてみてもあまりそういったテーマで絵を描いている人もいない。不特定多数の幸せな風景や情景は「「ラブ&ピース」のようなもので絵にしやすいのだけれど、こういった深刻な話は一般化しにくいのかもしれないな。

 どうも眠くて話がピーマンになってきた。またそのうちに。おやすみなさい。
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