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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3443
 つれづれに書きます。結論はありません。

 考えるというのは必ず言葉を使っている。熱いだ、冷たいということさえ言葉なくして人に伝えることは難しい。動物には言葉がないから多分考えているふうに見えるけれど、思考はしていないと思う。

 人類はどんな未開の地に行ったとしても言葉が存在する。これは他の動物との決定的な違いではなかろうか。

 最初は具体的な事柄から始まったのだろう。身の回りにある例えば太陽とか月とか星とか雨や風などなど。そのうちに具体的なことから離れて怖いとか不安だとか心配だとか抽象的な言葉が出来てきたのだと思う。

 DNAはどんな生物にも共通する神から与えられた言葉だけれど、その言葉は思考することはない。DNAそのものはただ言葉の羅列のようなものだ。そうやって考えると言葉は遺伝子とよく似ている。基本的な文字を組み合わせてより複雑な事柄を表示できるところなど。

 その言葉を使って我々は行ったこともないところも、経験したこともないことも、実にリアルに知ることが出来るし、最大の特徴はそうやって得た知識を活用して未来を予測できることだ。こうなりたい、ああであればいいと考えてそれに備えた。

 そして我々は知っている。確実なこと、いずれは消えてなくなってしまうことだ。

 神は多分そこまで予想していなかった。方舟に乗せたのはありとあらゆる生命の遺伝子だった。そこまでは成功だったんだな。ところが人は言葉の遺伝子を考えついてしまった。

 言葉は宇宙だ。無から無限まで自由自在。過去から未来までこれもまた自由自在。二次元でも多次元でも何でもござれ。こんなことを考えられるのは神しかいなかった。この思考する言葉の中に大いなるものの意思があるのではないかな。よくわからんけれどね。

 



 
 私が学生になってもう一度基礎から勉強しようと思った頃は、洋画とか日本画などという枠が随分の古臭いものだという認識が生まれつつあったころだ。ちょうど経済的に凄まじく成長して、戦後自信をなくしていた日本が少しばかりプライドを持ち始めた頃と重なる。

 何故油彩画を描くのか、油彩がなくてはならないのか?そもそも絵を描く動機は何だったのか?とそれぞれがみんな考えはじめた頃だ。確かに西欧の油彩画の技術はすばらしいもので、その堅牢な画面から伝わってくるものは西欧のある意味真髄なんだろうな。絶対に変らないもの。人類の目指すべき理想「真、善、美」そんなものを表現しようとした気がする。西欧の風土が育てた合理的な精神がそんなものを生んだのだと思う。

 我々モンスーンに住む者にはないんだな。変らないものなど何もないというのが、基本的な考え方ではなかろうか。

 また眠くなったので続きは後日。



 
はる 3441
 携帯電話を見ていると、我々はついに神の領域に入ったのではないかとさえ思う。多くの機能はほとんど使えないのだが、今こうやって考えたことが瞬時にどこか誰も知らないところまで伝達できるわけだから、つい最近まではとても考えられない機械だ。

 例えばこんな風には考えられないだろうか。今現在、この宇宙には人類のほかには知的な生物はいない。もし仮に遠い昔にいたとしても今この時点で同じ時間を生きているとは考えられない。宇宙の時間で見れば人類の繁栄など一瞬の出来事にすぎないからだ。

 これから先人類はどこまで総体としての「情報」を伝える、または残すことができるかわからないけれど、その情報を受け取ることが出来るのは人類以上に高度に発達した知的なものでなければ不可能だ。

 反対に、もし仮に人類以前にそういった生物がこの宇宙にいたとして、彼らはどうやって我々にその「意思」をのこしたのだろう。

 我々生物はある意味で遺伝子の方舟であるということを聞いたことがある。ありとあらゆる生物は基本的にはほとんど同じ遺伝子で出来ているらしい。この遺伝子がどうやって作られたのかはほとんど神の采配でしかないわけだけれど、ひょとして我々以前のこの宇宙のどこかの知的生物の「意思」かもしれない。

 今でも星は誕生と消滅を定期的に繰り返している。それはまさに一つの生命体と同じように長い目で見れば生きているということが出来るかもしれないな。で最後に大爆発を起こしてその星の内容物をこの宇宙に撒き散らすらしい。

 我々の体の中核を作っているたんぱく質も実はそういった星のかけらがなくては出来ないものらしい。

 具体的にはよく理解していないのだけれど、もし仮に「おおいなるもの」の意思というものがあったとしたら、そういったかたちで過去から現在そして未来とつながってゆくものかもしれないね。

 普通遺伝子自身は意思を持たない。ところがたまたま人類の遺伝子をもった「人」は考えることをはじめてしまった。多分これは予想外のことだったんだな。

 ・・・まとまらない。今日はここまで。

 



 
はる 3440
 世界の中で東西に今も分かれている国は韓国しかない。かつてはドイツもベトナムもそうだった。日本が戦争に負けたときにひょっとしたら同じように東西に分断される可能性はあった。もし仮にそういうことになっていたとしたら、昨今のことは自分の身の上に起きたことかもしれない。

 どんな戦争もその当事者にとっては聖戦でしかない。今から侵略しますといって蛮行に及ぶ国民はほとんどいない。命を懸けて戦うのは自分の命と家族を守るためであって、それ以外はほんの少しの正義感と聖戦であるという道義だけだろう。

 ほんの少し前の自国のことを考えても、軍事国家、独裁国家が一番恐れるのは自分を含めた体制が崩壊することで、世界の多くの独裁国家の末路というのは実にあっけなくやってきて終わってしまう。

 ヒットラーの国家戦略は非常にたくみで、よく知られた宣伝相ゲッペルスを国家の重要な地位につけたことでもよく分かる。世論を味方につけること、ようするにどんな戦いも「聖戦」にしてしまうことだ。

 そうやって少し冷静にかんがえると、今回のかの国の攻撃を太平洋戦争の「真珠湾攻撃」のように利用しているのではないかと少し危惧するんだな。よくアメリカがやる手口だからね・・。韓国軍は忠実にアメリカのやり方を真似するのではないかと危惧するわけだ。

 



 
 「風の色」さんが個展の感想を書いてくれました。どうもありがとうございました。

http://blogs.yahoo.co.jp/typwb210/6762808.html

HIROA-R君がオープンニングの二胡のライヴの様子を紹介してくれました。どうもありがとう。

http://hiroar.exblog.jp/13688268/

はる 3439
 昨日、今日と何の予定もなく、一日家にいて個展の片付けをする。これがけっこう面倒だ。始まる前はこれからどんな出会いがあるか?とか何が起こるか?などとうきうきわくわくして準備を進めているのだが、終わってしまうと全てが夢のようで、少し寂しいなぁ。

 芳名簿の編集をしている。毎年DMは500枚ほどできるだけしぼってだしている。一度でも来た事がある人はもう1500人ぐらい。全ての人に出すわけには行かないので、結局毎年500人ぐらいになる。これが多いのか少ないのかよく分かりませんが、毎年少しずつ増えてゆくわけだから、消えてゆく人もいるわけだ。これがけっこう迷う。500人出して半分ぐらいの人が来るわけだから、地元の個展は効率がいいということだ。

 いつもは年内にもう一つ東京の個展が入っているので、一休みしている暇もないのだが、今年は年内はこれでお仕舞い。ゆっくり年末が迎えられる。でもまぁ年始早々に銀座の個展が入っているので、あまり変りはないかもね。
resonanceより勝手引用

http://resonance-1111.tumblr.com/post/1638140458#note
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「ついに一人のフォロワーも得ることのなかったユニークさ」には何の価値もない。
「多くのフォロワーを獲得したためにいつのまにか少しもユニークなものでなくなってしまったユニークさ」だけに価値があると私は思っている。
だから、「オリジナリティ」に値札をつける習慣にどうしてもなじむことができないのである。
詩について言えば、詩人がほんとうに求めていたのは読者たちの彼の詩境に対する全面的な共感だろうと私は思う。
理解されず共感されず、それゆえ模倣することもできぬような詩想を有したことでオリジナリティを確立することなど詩人は望んではいない(と思う。詩人じゃないからわからないけれど)。
詩想がひろく共感されるということは、人類の「感受性の財産目録」にそれまでになかった新しい感受性を一つ付け加えるということだと私は考えている」
詩人のコピーライトについて (内田樹の研究室)

同じ文章のここも面白い。賛成できる。

「私は自分のネット上のテクストについては著作権を主張していない。今書いているこの文章も含めて、ネット上に掲載されたものは誰でも使用できる「公共財」であるというのが私の考えである。

ネット上の情報を誰でも自由に利用できるということがネットコミュニケーションの最大のメリットなのだから、そこに「私権」を持ち込むのはつまらないことだ。

自分のブログに「コピー禁止」とか「リンクを張る場合には必ず許可を求めること」とか書いている人が多々おられるが、私のブログは「コピーフリー」「盗用・剽窃フリー」である。

私はべつに私の「オリジナリティ」を誇示するためにこのようなところに駄文を記しているのではないからである。私と「意見」を共にする人を一人でも多く増やしたいがために、このようなものを毎日せっせと書いているのである」詩人のコピーライトについて (内田樹の研究室)

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 はる 3437
 個展無事終了しました。多くの方に来ていただきました。お忙しい中をどうもありがとうございました。楽しい一週間でした。

 なおみの視点」で個展の感想を書いていただきました。ありがとうございました。
 http://ameblo.jp/jewel-stained/entry-10713442946.html

 この時期の太陽は日の入りが早く、三時過ぎになるとはや日暮れの気分になり、五時過ぎると薄暗くなる。日が暮れるとぱたりと客足が落ちる。早く帰ってコタツに入ってテレビでも見てくつろぎたいと思うのかな。絵など観るよりその方が楽しいものなぁ・・。

 学校の卒業生が子供を連れてやってきた。少し前に個展の取材があってテレビに出た。それをみて懐かしく思ったらしい。クラスが違うので実際に教えたこともない生徒だったこともあるけれど、全く記憶に残っていない。年間200人以上の生徒を教えるのだから10年経てば2000人となる。ほとんどだれも覚えていない。知っているようなフリをしたけれど、全く思い出せなかった。情けない先生だ。ごめんなさい。


 
はる 3436
 個展七日目
 明日でお仕舞いです。5時までですのでお早めに。

 私の絵の絵肌がけっこう特徴的なので、その部分ばかりが強調されるきらいがあるけれど、じっくり見て貰えれば分かるように、その部分は本質的なことではない。

 どうやって描くのか、下地はどうするのか、絵の具はどうだこうだ、けっこう質問される。そのことに関してほとんど隠すことなくオープンにしているのだけれど、まったく同じようにしても私になることは出来ない。当たり前だけど・・。

 問題は出きあがる過程で、自分の中に何があるのか、何故こんなものを描きたかったのかをたずねる、そのことのなかにある。

 ミクストメディア(混成技法)という技法がもうすでに出来上がっていて、誰もが知っている既成の事実のように思っている人が多いけれど、例えば水彩画とか油彩画というふうに決まった方法があるわけではない。

 この技法そのものがまだ未完成のものであって、十人の作家がいれば十の方法がある。そういったものだ。どうにか手探りで今の方法を私は見つけてきたわけで、だからと言ってこれが正しいミクトメディアの技法だというわけではない。

 自分の絵の描き方が何も決めないで手探りで絵の中に絵を探すように、技法そのものも探りながら作っているように思う。
 続く
 



 
resonanceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/day/2010/11/19
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作曲の95%は、過去の遺産を糧にしています。作曲家自身の“発明”は、せいぜい1、2%程度で、最大でも5%といったところ。作曲の大部分は過去の作品の引用です。

だから、音楽にかんする知識がなかったら、作曲なんかできるはずがない。言葉を知らなければ小説を書けないのとおなじです。ボーっとしているだけで何かがわいてくるということは幻想です。



 
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