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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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この一連の劇中歌は感動する。歌が上手いと言うのは得だな。

 はる 3452
つれづれに・・結論もありません。

 あるブログをよんでいたらこんな意味のことが書かれていた。
「人は必ず死ぬから、芸術や哲学や科学があるのだと思います。とくに人生に意味を見出したいために絵や音楽や文学が生まれるのです。」

 この間の続きのような話だけれど、言葉をもった人は思索を始める、でその結果知ったことは人は必ず死ぬということだ。いずれはこの世から跡形もなく消えてしまう。こうやって今考えていること自体が偶然であるし、長い宇宙の歴史から考えても奇跡みたいなものだ。

 個々人が生きることに本当は意味などないのだ。我々全体が一つの種として生きて生命をつなげて行くということには意味はあるかもしれないが、性格や趣味や思考が全く違う個人がそれぞれに生きているということに意味などない。

 我々がこの世に生まれ出てきた時から二年半ぐらいの記憶はない。ただ生きているというのはそんな感じかもしれないな。記憶や知識が上手くつながっていない状態。まさに混沌だな。

 ちょっと脱線するけれど、中国の荘子の話の中にこんなのがあった。
「のっぺらぼうの薄ぼんやりした「混沌」という神様がいた。周りの神様がこれじゃかわいそうだというので、「混沌」に目、鼻、口、耳という七つの穴をあけてやったら、翌朝「混沌」は死んでしまった」知らない方がよかったのか、知ってそれで死んでしまってもその方がよかったのか。

 
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はる 3451
 ちょうどこのぐらいの寒さが身が引き締まる感じがして好ましい。これ以上でも以下でも快さの範ちゅうからもれる。夕暮れは考えていたよりも早くやってきて、夕暮れの光はあめ色でこれもまた美しいなと思う。

 夕暮れ時はいつも寂しいのだけれど、晩秋から初冬にかけては色々な思いが巡って尚いっそうその感が強い。陽が完全に落ちてしまう前に何かしなきゃといつも追いかけられる気がする。

 子供の頃は日が暮れるまで外で遊んでいて、夕焼けは自分のものだと思っていたね。道々小石をけりながらよく帰ったものだ。当時は日が暮れたら家族がみんな集まって飯を食うということに何の疑いもなかった。外食などほとんどしなっかたし、今で言うファミレスのような食堂もなかったね。

 閑話休題
 甲府の個展の後片付けも終わったので、久しぶりに仕事を始めた。来年春の団体展に出品する作品に手を入れる。どうしても大きくなきゃならないという気持ちが作品の密度を薄いものにする気がする。個展で発表する小品とは本質的に違うものである。いいか悪いかの問題ではなく。

 



はる 3449
 私の親父は59歳で亡くなった。そのまた親父、私からいえば父方の祖父さんも59で亡くなった。と言うことで私たち兄弟は59歳を戦々恐々でそれぞれ迎えたのだ。そして末っ子の私が来年四月に59を迎えることになった。

 最後の残った私が無事に59歳をクリアーすれば我が家に伝統的にある「のろわれた59歳の自縛」から逃れられることになるのだ。さてどうなるのやら。今のところは迷惑な兆候はないから、たぶんクリアーされるのだろう。

 それにしても私が想像していた59歳と、今の私の年齢の実感とは驚くほど差がある。昔の30歳はかなり大人であった。もうすでに押しも押されぬ貫禄があって、そればかりではなく分別も責任も充分感じられた。

 59歳にもなれば、定年間近ということもあるし、人生一つやり終えた満足感とか、充実感がそこはかとなく漂っていて、隠居して老後は孫の面倒でもみて悠々と暮らしてゆく。そんなイメージなんだが、おいおい今の私はまるでガキじゃん。

 仕事などまるで切りがついてはいないし、私がまともな勤めもしていないので、社会的な責任感もまるでなってない。

 これから20年経って、もういつこの世からいなくなってしまってもおかしくない年になっても、内容はほとんど変らないように思う。 

 さて、また眠くなって書いている話がピーマンになってきた。
 
 


 このおっさんよく知らないけれど、めちゃくちゃ上手い。流しの曲芸師のような下世話な感じがとてもいい。ジプシーかな。
 ドラマテックでこの雄大な感じが好きだなぁ・・。一つの劇を見ているようだ。それに役になりきっている役者もいい。自分が弾いている気分で聴くと気持ちがいいよ。お試しあれ!




澤登しげこ個展
本の中の主人公たち
2010 11/27~12/5
三彩洞
甲府市貢川1-1-12
055-226-8393
 



 
はる 3445
 午前中インフルエンザの注射に家内と出掛ける。一方だけが予防注射をすると、片方にうつるような気がして毎年夫婦で接種することにしている。

 午後は天気もいいので少しドライブがてら勝沼の喫茶店に行く。妙な予感が的中して今日は臨時休業だった。割とこういたことが多い。

 私の愛車はただいま入院中。どうもこのところ機嫌が悪い。冬場になると割りにトラブル多くなる。13万キロ走っているので老体には違いない。車検がまだ少し残っているので、だましだまし乗るしかない。

 このところの不穏な情勢とわが国の対応を見ていると、この国は自立していない若者のようだなと感じる。戦争に負けたことは恥ずかしいことではない。その後自立する気概を失って全くかの国におんぶに抱っこ状態に頼ってしまったことが恥ずかしい。こと外交のことは何一つ自分の言葉でしゃべれない。これは政治家だけの話ではないな、この国の全ての人共通するトラウマかもしれない。

 福澤諭吉ではないけれど「自尊自立」と言うのが個人でも国家でもとても大切なポリシーではなかろうか。そうやって対等な立場に立ってもの言うことがあらゆることの前提だと思う。でなければ説得力のある言葉はでてこない。

 例えば中国にまったく依存していたレアアースの件でも、戦略的にかの国のやったことは正しくはないかもしれないが、まともだと思う。取引の手段として相手の一番嫌がる首根っこを押さえるというのが常套手段だろう。敵に塩を送っておいて対等に勝負しようなどと言うのは美談であるが、戦略として愚策だろう。

 これがあらゆることに言えて、例えば食料だったらどうするんだ。売ってやらないと言われればそれでお終いだ。何でもいいなりにならざるを得ない。これも自立していないからだな。火急にやらねばならないのは農村、農業を復活させて自給率を上げることことだろうな。言うのは簡単だけれどさて、どうするかということだ。

 何も食料だけの話ではなくてね、結局はすべてのことに共通するのだけれど「自尊自立」することが当たり前に「かっこいい」という誇りを持つことだと思うな。「こうあるべき」などと説教されてもそっぽ向かれてお終い。「かっこいい」ということになれば放っておいてもそうなるように思う。どうだろか。

 もっとも根本的なことは、「誇り高く生きる」ことだ。そのことを少しでも伝えなければ。
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