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画家・榎並和春  2011/3からHPアドレスが変ります。 → http://enami.sakura.ne.jp
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はる 3461
 シャメを撮る暇がなかった。それもいいかなとも思う。昔のブログはテキストだけだった。いつの間にか写真が入るのが当たり前になってきたけれど、たまには文字だけもいいかな。

 平均律の話も尻切れとんぼになってしまた。結局何が書きたくてこんな話をはじめたのだろうか、いつも大体こうやって書きながら考える癖があるので、トータル番号も後から振り返ってつける事になる。だから話の結論もあいまいで終わりも明確でない。興が乗れば今回のように何日にもわたって考えることもあるし、眠くなってそのままになることも多い。誤字や脱字も気がつけば後から直しますが、気がつかない場合そのまま放ってあります。そればかりを気にししぎると筆が止まってしまいます。ちゃらんぽらんということで笑って許してくださいな。

 結局どこまで話を進めたのかな。「絵ではないもの」というところまでか。

 私の絵をみて抽象画をイメージする人はいないだろうな。しかし、絵の描き方そのものはほとんど具象的なものはなにもない。たまたま最後には何かしら具体的なものが描かれているので、具象画というふうになってはいるけれど、コンセプトそのものは現代絵画と同じなんだな。まあ、いつものことだけれど、今生きている我々が描いた絵はみんな「現代美術」には違いはないのだけれどね。 
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resonanceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/post/2301560017#note-container

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描いている途中で「これはちゃんと着地するのか」と不安に思っていたところが面白かった。「創造」というのは必ず、不安な状態が通過点としてある。拡散していく思考と収束していく思考をせめぎあわせている。これは非常に普遍的な話だ。大抵は、その不安に耐え切れず、すぐに思考を収束させてしまいがちだ。それを、そう簡単には収束させないであえて拡散させ、最後は収束させる。
(Reblogged from milkcocoa)

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はる 3460
 疲れた。



 
 はる 3459
 今日は冷たい雨が朝から降ってる。にもかかわらず今日は野暮用で車で松本まで出掛ける。途中松本市内はみぞれになったので、用事が済み次第あたふたと帰路についた。雪になると非常にやっかいなことになるのでね。よって何も見ず聞かず話さずただの運転手に徹する。無事家に着いたらくたびれてコタツで寝てしまった。そんな一日もある。

 日曜日は恒例のクロッキー会だった。今年はわりとまめに出席できた。用事がない限り必ず出席するようにしている。この会ももう20年ぐらいやっているのじゃないだろうか。市内じゃ草分け的な存在になった。創立メンバーは二人だけになった。最初は会場も色んな場所をジプシーのように転々としていた。いまではほとんど同じ会場がとれる。営利目的ではなく、有志が会費を出して運営しているので料金が安く済んでいるのが長く続いている理由かもしれない。

 人物を描くのは面白い。何年やってもうまくならないから続けられるのではないかな。デッサンの上手い人は最初っから上手い。特に訓練したわけでもないのに天才的に上手い人がいる。とても適わないな。けれど上手い人はすぐに飽きて描かなくなってしまうんだな。それで下手な人が残ると言うわけだ。いまさら人物がうまく描きたいというのも奇妙な話かもしれないが、手前味噌だが下手な人が長くやることで身につけた(技術)線というのはこれはこれで魅力があるんだな。兎と亀ではないが結局は愚図でのろまで長く続けたほうが勝ちというわけだ。
 
 自分が描いている絵とこのクロッキーはほとんど関係ないようにおもうけれどどうなんだろう。多少関係しているのだろうか。物を見えたように再現しているわけでもないし、頭うかんだ空想を表現しているわけでもない。漫画家や挿絵やイラストレーターのように物が説明できる絵がかけるわけでもない。

 私の絵は外見は絵のように見える。けれど、普通の意味の絵ではない気がするな。うまく説明できないけれど。よくわからん。




徳永陶子個展

2010 12/4~12/27
開廊日 土、日、月のみ
古春堂画廊
甲府市相生3-6-30
090-3962-2410
 
 22f80fad.jpeg
はる 3457
 平均律5
 上の楽譜はバッハの「音楽の捧げもの」のメインテーマのフレーズです。フーガの手法なのでこのフレーズが色んな形や楽器でくりかえされる。昔小学学校の音楽の授業でやった輪唱をおもいだす。時に音が重なって美しいハーモニーを奏でる。

 ちなみに上の楽譜で繰り返して出てくる音を削除してゆくとB♭の音だけがありませんが、後は11個全ての音がこの短いフレーズの中に出てきます。

 難しいと思っていた現代音楽もこんなところに原点があるわけで、分かってしまえば何と言うこともないと思った。

 
音楽の捧げもの

 22f80fad.jpeg
sasagemonos.jpg

音楽の捧げもの F8 2010
銀座・光画廊のDM



第54回・榎並和春個展
「遠い記憶 2」
2011年・9,10休み

銀座・光画廊
 1/7(金)~1/15(土)



 
 平均律4
 NHK・FMの日曜午後6時から「現代の音楽」という、50年以上続いている番組がある。ここでずっと使われていたテーマ曲は何処か不思議なメロディーで耳に残っていた。現代音楽の番組の顔であるから、多分どこか現存の有名な作家の作品で私が知らないだけなんだろうなと推測していた。

 ある時にそれがバッハの「音楽の捧げ物」であることを知って驚いた。現代音楽の番組の顔が実は西欧音楽の古典バッハの作品だったというのは実に面白い話だ。それにもっと驚くべきことはこの作品は例の平均律の12音階で出来ているということだ。それこそ結局は一回りしてバッハに戻ってくる。深遠なバッハの音楽を聴くのである。



 
はる 3455
 平均律3
 私が平均律というタイトルの絵を描いたのは1990年で91年の国展に出品している。この絵は今から考えると油彩画の私の代表作ということになるのだろうか。その後美術館に収蔵された。

 当時平均律が何であるのかその深いところを理解してタイトルをつけたわけではない。バッハの平均律クラヴィーア曲が頭にあったことは確かだけれど、この「へいきんりつ」という言葉の響きが絵のタイトルにぴったりする気がしたからにすぎない。

 生半可な理解で間違っているかもしれませんが書きます。

 一オクターブを半音ずつ区切ってゆくと全部で12音になります。その全ての調子で作曲されたのが上の平均律クラヴィーア曲だそうです。だから長調、単調あわせて24曲になります。

 そういった楽理的な話も興味がありますが、私はどちらかと言えば全ての音、調子を網羅したというところに興味を持ちます。無論世界にはもっと色々な音があって、この平均律でカバーできない音楽の方が多いのだそうだが、とりあえず西欧音楽の上では一種の宇宙をあらわしているように思える。そのことに非常に共感を覚えるし興味がある。実際にその音楽は破綻がなく見事な調和を感じさせます。

 ところで西欧のクラッシク音楽は○○短調という形で表されます。ポップスで言えばキーということになるのでしょうか。絶対音感がある人にはわかりやすいのですが、我々のような凡人にはどれも同じに聴こえます。

 で、そういった調子を無視して作曲を始めたのが印象派の作曲家たちで、よく知られているのがドビッシーとかラヴェルです。彼らの音楽は音そのものが生きていて自由にきらきらと輝いている印象派の絵画のようですね。「月の光」とか「水の戯れ」など美しいです。

 その後、12音全てを同等にすべてを同じように使うという作曲理論をうち立てたのが、現代音楽の作曲家のシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」だ。だから彼の音楽には主題やテーマがほとんど感じられない。ドビッシーやラベルにはあった非常に情緒的な部分はきっぱりと取り落とされている。だから私などにはとっつきにくく難しい感じがするのだな。

 ところで、絵画の話に戻ると、印象派の画家たちが注目したのは色だった。光は虹の七色で出来ている。だから絵画も七色で描いて網膜上で合成すれば色はにごらないですむという訳だ。点描はよく観察すれば昔から多くの作家によってなされているのだけれど、特に色を分解して描いたのが印象派の画家たちだ。

 そこまで来ると色そのもの、それぞれの色が独立した関係で「絵画はある秩序でまとめられた色と形の集積だ」という抽象絵画の入り口は近い。冷たい抽象のモンドリアン、熱い抽象のカンデンスキーということになっている。

 さて、ここまで来て上の音楽の話と下の絵画の話が奇妙な類似点があることに気付く。音と色の違いはあるけれど、どちらも何かから自立する方向、源泉へと進んでいるように思えるところだ。

 



 
 resonannceより勝手引用
http://resonance-1111.tumblr.com/post/2132571331/no


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 略・・なんのために書くか。目的なんてないです。ものを書くにあたってマーケットリサーチなんかもしません。No purpose.  No market research. 自分のために書くだけです。僕は自分が何者か、何を考えているのか、書かないとわからないんですよ。賢い人は書かなくてもわかるのでしょうけれど。そう、書く目的なんてない。何を書きたいかに僕は集中する。僕は脳みそで考えるのではなく、指で考えるんです。ホロウィッツがピアノに向かうように僕はマッキントッシュのキーボードに向かう。・・略・・



 
 はる 3453
 平均律1
 油彩画を始めたきっかけは何だったのだろう。よくは覚えていないけれど、小学校か中学生の頃、風景写生で樹を描いた。普通の水彩絵の具を油彩画のように盛り上げて描いたらたまたまいい評価を得た。そうか油彩画というのは盛り上げて描くものなんだと納得した。

 兄貴との共同の勉強部屋に何点かの油彩画のカラー写真が飾ってあった。今から考えるとセザンヌの形のゆがんだ壷と器の絵と糸杉のゴッホだった。

 西欧文化に対する憧れはほとんど恋する乙女のようであり、舶来物のお菓子やおもちゃは垂涎のまとであり、当然絵画といえば油絵だった。

 絵を描き始めた頃、油彩画は独学であり、指南役はありとあらゆる美術雑誌と美術画集だった。そこでも最初に買ったのはセザンヌとゴッホだったな。

 美術雑誌「アトリエ」は、毎月買えないまでも必ず立ち読みをした。そこには一枚の絵がどのように描かれたのか、要領よく写真入で細かく掲載されていた。当時かなり有名な作家もそこに製作過程を掲載していて、今でもよく覚えているのは、国画会のスーパースターであったSさんが堂々と真似するならどうぞと言わんばかりに惜しげもなくご自分の手法を晒しているのに驚いて歓喜したものだ。さっそくそれを真似して何枚か仕上げたけれど、当然亜流にもならない似ても似つかない代物だった。

 技法というのは真似するものだし、真似されないのは魅力がないからで、そんな技法が一般化することはない。油彩画の技術はそれはもう西欧の有史以来の伝統があるわけで、とてもにわかに始めてもかなうものではない。ところが我々の先駆者は西欧に追いつき追い越すために血のにじむような努力をした。恵まれた者は実際に西欧に出掛けて、師匠について万巻の書を読んで研究した。それは美術だけではない黎明期の日本のどこでも見られた光景だったろう。

 そこには西欧の錬金術師やまがまがしい魔法使いと見間違えるような技術と技法が書かれている。我々にとって研究するとはそうやって万巻の書を読むこと、書物に書かれたことを忠実に再現して習得すること、そんな風にインプットされてしまった。そこにはオリジナルな独創がない。

 今日の新聞に今年度のノーベル化学賞の根岸英一さんの話が出ていた。独創的な研究、だれもやっていない大ヒットばかりを狙ってもだめだ。小さなヒットの繰り返しがやがて大きな独創的なアイディアに結びつくと言うふうなことが書かれていた。たぶんそれは今流行っている注目されている分野をやっても無理だとおもうんだな、もうすでに注目されている研究は多分手遅れなんだ。前ばかり見るのではなく一歩前に戻って考えることじゃないかな。そうすれば新しい糸口が見えてくるのだろう。

 新しいこと、誰もやってやっていない独創的なものということばかりに囚われていると、いっこうに新しいものは出てこない。なぜならそれは今の延長上にあることだからだな。いってみれば誰でもが遅かれ早かれ考え付くことだからだ。たての物を横にするといったバリエーションでしかない。

 本当の独創というのは元に戻った源泉から問い直すことからしか出てこないと思う。

 では絵画にとって源泉とは何かということだな。絵画を分解すれば、物質的には描く物と描かれるものにわけられる。絵の具ではない、描くものなんだな。キャンバスでも紙でも布でもない。ただの描かれる物だ。

 そしてその描くものは色の粉で粉末のまま使うのか、練った状態なのか、染料のような液体なのか、定着するのは水性の糊か油性の糊か膠なのか漆なのか合成樹脂なのか、それによって表現の技術が変ってくる。

 描かれる物については、紙なのか、布なのか、木なのか石なのか、漆喰なのか岩なのか、まぁキャンバスと言うのは実はものすごく特殊なものだったんだと気付く。

 そうやって自由に選択できるようにしておいて、あえて何を選ぶのかということだな。自分にとって何が一番手ごろで身近にあって有効かということだな。そして大事なことはこのことはどこにも書かれいないということだ。どこかに「・・の方法」というものがない。なぜなら技法そのものが今始めてあなたが作った、選択したものだからだな。
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